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秩父夜祭ルーツ「妙見七つ井戸」をめぐる

■ 2020年12月03日 秩父夜祭ルーツ「妙見七つ井戸」をめぐる

JR東日本駅からハイキング「【秩父鉄道共同開催】秩父夜祭ルーツ「妙見七つ井戸」を巡り秩父神社へ」に参加してきました。コロナ禍の中、秩父夜祭は中止になりましたが、ハイキングイベントは開催されたので参加しました。秩父夜祭のルーツ「妙見七つ井戸」は、妙見菩薩が秩父神社に合祀された際、宮地の妙見宮から秩父神社まで渡っていったとされる七つ井戸です。(※妙見菩薩・・・北辰妙見菩薩、妙見尊星王ともいわれ北斗七星の主星である北極星を諸星の景勝として神格化したもので、災厄除去、国土擁護の菩薩とされている)

車を秩父鉄道大野原駅駐車場に置き、駅前で受付後、愛宕神社~廣見寺~一の井戸(山下の井戸)~二の井戸(井之上の井戸)~神門寺~三の井戸(子育ての井戸)~四の井戸(下堀の井戸)~五の井戸(あらゐの井戸)~六の井戸(みざわの井戸):民家の敷地内の為見学不可~七の井戸(今重の井戸)~定林寺~秩父神社~秩父鉄道秩父駅を歩き、秩父路を堪能しました。

当初は、秩父駅から電車で大野原駅へ戻る予定でしたが、駅で時刻表を確認すると約1時間の待ち時間となったため、歩きで秩父駅から大野原駅まで戻り、秩父鉄道和銅黒谷駅近くの和銅遺跡に立ち寄り、聖神社と和銅露天掘り跡を訪ねました。

▼ ルートマップ

▼ 秩父鉄道大野原駅で参加受付

▼ 愛宕神社・・・元和5年(1619)、現在地に建立しすぎや檜を植えて愛宕の森を造成。祭神には、軻遇突智神(かぐつちのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)を祀っている。(説明板より抜粋)

▼ 史蹟廣見寺石経蔵(http://www.city.chichibu.lg.jp/4387.html)

▼ 廣見寺(http://www.chichibu.ne.jp/~kokenzi/)

▼ 妙見堂

▼ 一の井戸(山下の井戸)・・・埼玉県立秩父東高等学校(昭和49年開校)の敷地内、格技場の東側付近にあったといわれている。学校建設の際に埋められてしまい、現在ではその形をみることができない。かつては、畑の片隅から水がこんこんと湧き出し農作業などの使われていた。(説明板より抜粋)

▼ 二の井戸(井之上の井戸)・・・かつて石垣下から湧き出していたが、現在では湧水は認められず。この井戸は跡は、当時の形を復元したもの。かつては、水田や畑での農作業に利用されていた。(説明板より抜粋)

▼ 神門寺(https://chichibu-ohenro.com/fudasyo/18-goudoji/)・・・もと修験寺で神戸山長生院といい今宮坊に属して栄えていたといわれている。多くの建物があったが、江戸中期寛政の頃焼失し、その後、観音堂のみ再建された。(説明板より抜粋)

▼ 観音堂・・・天保年間(1830-1843)に再建されたもの

▼ 観音様や菩薩様が祀られている回廊

▼ 三の井戸(子育ての井戸)・・・現在でも僅かではあるが湧水がみられる。井戸の湧水量は大きく減少してしまったが、当時の面影を今にとどめている。井戸の水を使って炊いたご飯を食べると、乳の出が良くなるとの言い伝えがあり、柄杓を供えていく人もいた。(説明板より抜粋)

▼ 四の井戸(下堀の井戸)・・・現在でも湧水がみられ近隣の人々が野菜の洗い場などとして利用。かつて、ここにあった大きなケヤキの根元からはとめどなく水が湧きだし、七つ井戸の中でも最も豊富な水量を誇っていた。現在はかつての1/3程度の水量。(説明板より抜粋)

▼ 道端の亀

▼ 五の井戸(あらゐの井戸)・・・現在でも豊富な湧水がみられ、野菜の洗い場などとして利用されている。かつて、市場に出す大根など、たくさんの野菜を洗うなどしていた。(説明板より抜粋)

▼ 六の井戸(みざわの井戸)は民家の私有地内にあるため見学不可

▼ 七の井戸(今重の井戸)・・・隣接のアパートの敷地下に位置していたもので、かつての井戸の様子を見ることはできない。現在は、その近くに井戸囲いを整備し、水の流れを再現している。かつては、豊富な湧水があり、主に染め糸のすすぎなどに使われていた。(説明板より抜粋)

▼ 定林寺(http://www.chichibufudasho.com/fudasho/17)・・・縁起には、壬生の良門の忠巨林太郎定元は、主の無動を諫めかえって家財を没収され、当地に来て没した。その遺子空然はこのちに養われ成人の後、父の菩提の為当寺を建立したとある。(H.P.より引用)

▼ 秩父神社(http://www.chichibu-jinja.or.jp/)・・・創建は、平安時代の典籍「先代旧事紀 国造本紀」によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至る。(H.P.より引用)

▼ 秩父神社社殿・・・天正20年(1592)に徳川家康公が寄進したもの。

▼ 秩父神社神楽殿と神代神楽泰奏

▼ 秩父まつり会館(http://www.chichibu-matsuri.jp/)

▼ 昼食に立ち寄った「わきゃない(https://wakyanai.com/)」、モツ鍋定食と豚みそ丼を頂きました。

▼ ゴールの秩父鉄道秩父駅・・・ゴール後秩父鉄道の時刻表を確認したら、約1時間の待ちであったため大野原駅まで歩いて戻りました。

▼ 帰路、秩父鉄道和銅黒谷駅近くの「和銅遺跡(http://wadohosyoukai.com/iseki/wadoiseki/)に立ち寄りました。・・・慶雲5年(708)、武蔵国秩父郡から銅が献上され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、日本最初の貨幣「和同開珎」を発行。その和銅が採掘された跡が、秩父市黒谷の和銅山に残されており、ここを中心とした一帯が「和銅遺跡」と呼ばれている。(H.P.より引用)

▼ 聖神社(http://wadohosyoukai.com/iseki/jinjya/)・・・和銅の発見、献上を喜ばれた朝廷は、勅使を遣わし祝山に神籬(神霊の宿る所)を建てて金山彦尊を祀り祝典を挙げた。聖神社の創建は、和銅元年で祝山から銅洗堀を隔てて蓑山(美の山)を背にした清浄の地を選んで遷座させられ、天照大神、国常立尊、神武天皇が併せ祀られた。(H.P.より引用)

▼ 和銅露天掘り跡(http://wadohosyoukai.com/iseki/rotenbori/)にある「和同開珎」モニュメントと露天掘り跡


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