■ 2023年04月14日 東北の小京都たなぐらの街歩き
JR東日本駅からハイキング「東北の小京都たなぐら歴史と桜のまち歩き」に参加してきました。JR水郡線磐城棚倉駅そばの駐車場に車を置き、棚倉城跡~伊野地蔵の桜~馬場都々古別神社~蓮家寺~蓮生寺~観音寺~宇迦神社~長久寺~花園しだれ桜~磐城棚倉駅に至るルートを歩きました。今年は桜の開花が早くて、棚倉の桜は散ってしまっていました。
▼ ルートマップ
JR水郡線磐城棚倉駅~時の鐘~阿部正備茶室~棚倉城跡の大ケヤキ~棚倉城跡~伊野地蔵の桜~馬場都々古別神社~蓮家寺~連生寺~観音寺~宇迦神社~長久寺~花園しだれ桜~磐城棚倉駅に至る7.2Km
▼ JR水郡線磐城棚倉駅
■ 時の鐘と棚倉藩主の変遷
■ 安部正備茶室・・・棚倉藩主の阿部家にゆかりの建物。四畳半(京間)の一隅に水屋を配した四畳席の茶室で周囲を板壁とする類例のないもの。明治時代に編纂された「東白川郡沿革私考」の記載によれば、阿部家十三代の安部正備の所有であったものを、明治維新後に町内の商家が譲り受けて保存してきたもの(説明板より抜粋)。
▼ 蔵の前に咲くしだれ桜
■ 棚倉城跡の大ケヤキ・・・元和8年(1622)に棚倉城主となった丹羽長重は、寛永2年(1625)この地に鎮座していた近津明神-現在の馬場都々古別神社を遷宮して、その境内内に棚倉城を築城。この大ケヤキは近津明神の御神木で形が優れていたために残されたと伝えられている。樹齢は約600年、根回りは13m、2個の瘤のある周囲は9.5m、樹高は32.3m(説明板より抜粋)。
■ 棚倉城跡・・・2代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎左衛門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。長重はこの地にあった近津明神を現在の馬場都々古別神社に移し、寛永2年この地に築城を始めた。寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主になった。安部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年落城。この間250年、城主の変わること16代であった(説明板より抜粋)。
▼ 棚倉町城下絵図
■ 伊野地蔵(伊乃草分地蔵尊)の桜・・・「伊乃草分」とは、伊乃の里を開拓した草分けということからといわれています。敷地内の墓地には推定樹齢300年以上の桜があり、春になると咲き誇ります(観光マップより抜粋)。
▼ 地蔵尊と墓地内にある桜
▼ 道路から見た桜
■ 馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)・・・都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“上宮”にあたたる。かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同2年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられる。寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮した(H.P.より抜粋)
▼ 鳥居
▼ 宮司西郷頼母・・・西郷頼母近憲は、会津藩松平家の家老を代々務める家柄で、戊辰戦争後幽閉されていたが、釈放後の明治8年(1875)、内務省の発令により保科近憲の名でここ馬場都々古別神社の宮司を約3年間務めた(説明板より抜粋)。
▼ 山門
▼ 拝殿
▼ 本殿・・・本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宜が造営したとみられている。元は棚倉城の地にあったが、寛永2年(1625)に現在地へ移された(説明板より抜粋)。
▼ 本殿裏手にある馬場古墳
▼ 境内に咲くムラサキケマン
▼ 鳥居そばに咲くヒイラギナンテン
■ 蓮家寺(れんげじ)・・・慶長8年(1603年)この地を支配した代官彦坂小刑部の家臣であった蓮池主水と糟家彌兵衛は浄土真宗の信者でしたが、浄土宗の寺がないため塙の秀哲上人を招請し、精舎を建立。当時は阿弥陀寺といっていたが、まもなく開創の施主両名の名をとり連家寺とした。
▼ 山門・・・安永6年(1777)に冠木門・黒門・山門(楼門)も三門が建立され、総称して連家寺三門と呼ばれていたが、明治2年(1869)の火災で山門(楼門)だけが残った。建立当時は赤く紅殻が塗られて「城下の景観なり」とうたわれていた(説明板より抜粋)
▼ 銅鐘・・・正保4年(1647)、連家寺四世住職の尊譽上人の時に、藩主の内藤豊前守信照公が寄進したもの。昭和18年に国の重要美術品に認定され、鐘楼も建立当時のままで、貴重な江戸時代初期の建造物(説明板より抜粋)。
▼ 本堂
▼ しだれ桜
■ 連生寺(れんしょうじ)・・・浄土真宗東本願寺派の寺院で、今から約750年前に證性という僧により開基されました(観光マップより抜粋)。
▼ 境内に咲くセントポーリア
▼ 松平周防守家中有縁無縁墓所
■ 観音寺・・・真言宗智山派で寛永元年(1624)に堀川の萬福寺より現在の地に移りました(観光マップより抜粋)。
▼ 宇迦神社近くにあるしだれ桜
■ 宇迦神社(うがじんじゃ)・・・起源は神尾年間(724)当時飯野村(現福井)に宇迦明神を祀ったのが御創立であり、それ以後御神徳により幸福平和の代が続いた。戦乱続いた足利時代の末、立花宗茂がこの地を治めることになって、赤館を根城とするに及び、現在の鹿の子山に移した。徳川の代になり、代々の領主は御領内惣産土神宇迦大明神と申し上げ、藩主着任の時には、先ず参詣、厚く祈願し毎年の例祭はもちろん正月、五月、九月には吉日を選んで直参または代参した(由緒より抜粋)。
▼ 鳥居
▼ 山門
▼ 一つ目の階段の参道の階段
▼ 階段脇に咲くイカリソウ
▼ 一つ目の参道の階段を登りきった先の平らな参道
▼ 二つ目の階段の参道
▼ 拝殿前の参道脇にある狛犬と常夜灯
▼ 由緒
▼ 拝殿
▼ 夫婦樫
▼ 灯籠・・・棚倉藩歴代藩主がその時代の藩の隆盛安泰と藩領民の無病息災を心から祈願し、本殿の東西側に一基づつ寄進設置したもの。長い歳月の流れの中で一部倒壊等損傷激しく、宇迦神社大改修にあたりこの場所に移設したもの(説明板より抜粋)。
■ 長久寺・・・宝永2年、太田備中守資晴公が駿州田中より移り棚倉藩五代城主となり、棚倉城南門外に仮室を建て、宝永4年、花園の地に総本山身延山久遠寺第三十三世遠沾日享上人を開山として、太田公、御母堂本成院殿妙元日貞大姉位の菩提とこの地に法華経の道場を建立、末公院高徳山長久寺(現在は瑞光院)を開創(説明板より抜粋)。山門は、その時に棚倉城二の丸南門を山門として長久寺開基太田公が寄進移築されたもの(説明板より抜粋)。
▼ 山門
▼ 本堂
▼ 本堂軒下の彫刻
▼ 花園しだれ桜・・・池の脇に植えられたエドヒガンのしだれ桜で、推定樹齢は160年以上とされている。笠のように枝が広がり、田園風景を背に池の水面に映る「逆さ桜」は美しく、早朝や夕方は昼間とは一味違う風情がある(観光マップより抜粋)。
【参考】