■ 2022年06月26日 那須疏水さわやかルートをめぐる街歩き
地元のコミュニティ主催のイベント「街を歩こう!」に参加してきました。今回は、那須野が原公園を発着する田園空間サテライトフットパスの「那須疏水さわやかルート」を歩きました。那須野が原開拓の基礎となった那須疏水と水を供給する分水路、開拓地を使った牧場等、地域の文化施設と歴史を学ぶことができました。
▼ ルートマップ
那須野が原公園&サンサンタワー~赤田調整池~那須疏水記念碑~那須疏水探訪の小径~那須疏水第三分水~観象台(北点)~千本松農場~万歳閣~那須野が原公園に至る6.2Km
▼ 那須野が原公園・・・昭和63年(1988)7月に開園した県立公園、園内にはオランダ風車や噴水などがあり、サイクリングコースやテニスコート、ファミリープール、オートキャンプ場などがある(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ サンサンタワー・・・那須野が原公園開園10周年を記念し整備され、高さ33.3mにちなんで名付けられ、那須野が原の牧歌的な雰囲気に合わせ、サイロをイメージしたものになっている。5階の展望室からは広大な那須野が原を一望でき、北には那須連山、西は高原山、南は筑波山、東は八溝山など、360度の大パノラマが楽しめ、3階には野鳥観察室(無料)がある(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 最上階からの眺望(西)
▼ 最上階からの眺望(北)
▼ 最上階からの眺望(東)
▼ 最上階からの眺望(南)
▼ サンサンタワー内で那須野が原とサンサンタワーの説明を聞きました
▼ ネズミモチ(開花前)
▼ ニワトコの実
▼ 赤田調整池・・・那須疏水下流域の第三分水、第四分水の用水補給の安定化及び降雨時の洪水調整を行うため、昭和55年(1980)に造成された人口の池(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 那須疏水記念碑・・・赤田調整池畔に建つ那須疏水土地改良区事務所前に建っている記念碑。昭和61年(1986)に那須疏水通水百周年を記念し、那須疏水土地改良区事務所が三島から接骨木(にわとこ)に移転した際、併せて移設されたもの。もともとは、昭和32年(1957)に那須疏水土地改良区により三島地内の市有地(現三島公会堂)に建てられてもの。隣には那須疏水通水百周年記念碑もある(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ ネジバナ
▼ 太陽光発電設備・・・農林水産省の農山漁村再生可能エネルギー供給早期確立補助事業によって設置されたもの
▼ 那須疏水探訪の小径・・・国道400号から那須野が原公園に続く県道沿いを流れる那須疏水本線水路沿って田園空間博物館事業の一環として整備された散策路。この小径沿いの那須疏水には東京電力により疏水の水を利用したタイプの異なる3つの水力発電設備が整備されている(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ ぞうさん水車(サイフォン式プロペラ水車)・・・那須疏水の1.8mの段差(落差工)に取水設備を設け、疏水を疏水の外に設けた水槽に導き、そこからサイフォンの原理を利用して那須疏水に水を流し、配管内に組み込まれた縦軸の羽根車(プロペラ形)を回して発電する(説明版より抜粋)。
▼ カラ・コロ水車(クロスフロー水車)・・・那須疏水の1.8mの段差(落差工)に同じ水車を2台並べて設置。取水口から流れ込んだ水が、羽根車の外周部から中心部に入り、再び外側へ流れ出る構造の水車。中心部に入る時と外部へ出る時の2回羽根車に作用するので水量が少なくても効率よく発電できる。水路内の段差に据え付けるだけよく、このような水路に設置する発電装置として適している。羽根車の形はエアコンのファンと同じ形をしており、径は小さく横幅が長くなっている。クロスフローとはミスが羽根車を交差して流れることをいう(説明版より抜粋)
▼ 1000年の水ふれあいの広場・・・那須野が原の”水の成り立ち”を表現。那須岳の水ひとしづくからはじまる那珂川、那須野が原に水路を引くために那珂川に造られた取水口、そして那須野が原にひかれた那須疏水。那須野が原の”水の成り立ち”にふれることで、水の大切さと人々の知恵を感じるための施設(説明版より抜粋)。
▼ はじまりの山・・・川のはじまりは山の中にある。豊かな自然に恵まれた山には、雨や雪を地中に貯める力がある。そうして貯められた水が地下水として湧き出し、地表を流れ、やがて大きな川となっていく。那須疏水の取水口がある那珂川のはじまりは、栃木県と福島県の県境に位置する那須岳。那須岳で生まれた水ひとしづくが那須野が原の土地を豊かにしている(説明版より抜粋)。
▼ 水琴窟・・・人々は水を利用するだけでなく、音を聴いて楽しみました。地中に造られた空洞の中に水が落ちると、底にたまっている水面にあたります。そのときに水の出す音が空洞に響き、琴のような音が出る(説明版より抜粋)。
▼ 那須原飲用水路跡・・・那須野が原は扇状地と呼ばれる地形のため、開拓地には川などがほとんどなく飲み水にも事欠く地域。このため、開拓にあたった人々は自分自身や家畜などの飲み水を確保する必要があった。この窪んだ所が明治15年(1882)に飲み水などを確保するために造られた那須原飲用水路の跡。水は那珂川(那須塩原市細竹)から取り入れ、千本松に至る約15.2Kmの本線水路と3本の分水路によって、各農場を潤した。しかし3年後の根維持18年(1885)9月、那須疏水の本幹水路が完成し、翌年分水路が完成すると、この飲用水路は役割を終えた(説明版より抜粋)。
▼ ガラガラ水車(下掛け水車)・・・昔から粉ひきや農作業の動力などに利用されてきた水車。水の流れを水車の下側に作用させることで羽根車を回す「下掛け水車」で接続した発電機を回転させて発電。水車の回転速度がゆっくりであることから、増速機を設けて回転速度を8.7倍にして発電機を回している(説明版より抜粋)。
▼ 那須疏水第三分水と分水路・・・那須野が原公園へ続く県道を100mほど行った左手に見える分水口から大田原市の深川赤堀まで続く8.8Kmの水路。明治19年(1886)に開削され、肇耕社(後の三島農場)や加治屋開墾(後の大山牧場)を潤した(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 背割り分水・・・那須疏水第三分水につくられたているこの分水工は「背割り分水」と背割り分水と呼ばれている。上流70mの所にある本幹水路の分水工のようにゲートを設けて水量を調整するのではなく、水路の流れに沿った薄い仕切り版(背割り板)によって分水する方式。水路の水量が多い時でも人の手をかけず、農業用水を公平に配分できるようした施設(説明版より抜粋)。
▼ 「那須疏水探訪の小径」案内板
▼ 那須疏水第四分水・・・大田原市加治屋まで流れる水路。当初の第四分水は那須開墾社内を流れ東に片寄っていたため、那須開墾社は独自に縦掘と西堀を開削、現在縦掘、西堀、加治屋掘を合わせて第四分水という(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 那須疏水第四分水の説明風景
▼ 縦道・・・明治8年(1875)に行われた関東地方の測量「関八州大三角測量」の2地点を結ぶ直線(基線)が元になっています。1880年(明治13年)に開拓を始めた那須開墾社が農場の中央部を縦貫するこの基線を開拓道路として利用したもので、現在も広域農道ライスラインの一部として真っ直ぐな道路が10キロメートルにも及ぶ(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 観象台(北点)・・・明治8年(1875)から明治政府が関東地方の測量(関八州大三角測量)を行った際、三角測量の基点として造られた。南点は大田原市緑地内にある(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 千本松農場・・・総理大臣を務めた松方正義が明治26年(1893)に那須開墾社よりこの地を譲り受け、大農具を導入した欧米式農場を開いたことに始まる。一帯は赤松林が広がっていたことから「千本松」と命名された(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ イワガラミ・・・花がアジサイっぽいのでツルアジサイだと思っていたが、調べると違っていた
▼ 万歳閣(松方別邸)・・・万歳閣(松方別邸)・・・明治36年(1903)に総理大臣を務めた松方正義の別邸。明治37年(1904)大正天皇が皇太子の時、別邸に駐泊の際、折から日露戦争で遼陽が陥落した報が届き、一同で万歳をしたことから「万歳閣」と呼ばれるようになった(西地区コミュニティ地域のサテライト一覧より抜粋)。
▼ 昭和天皇陛下御手植松・・・大正12年(1923)8月、当時の摂政裕仁殿下が御手植えされたもの。その後、地上13mまで成長したが、平成24年(2012)松くい虫の被害を受け枯れてしまい、現在の松は平成25年(2013)3月に植え替えを行ったもの(説明版より抜粋)。
▼ 千本松自然公園
▼ 完歩証授与・・・那須野が原公園入口付近で「完歩証」の授与と弁当の配布があり、この日のイベントは終了!
【参考】
1、那須塩原市田園空間博物館
2、赤田調整池
3、那須野が原公園
4、千本松農場