メモは、「国体護持」を条件に連合国側のャcダム宣言の受け入れを御前会議が決めた10日に始まる。すでに首相を辞めていた東条氏を含む首相経験者らは、重臣会議で経緯を説明され、意見を求められた。東条氏は、天皇に上奏したとする内容を「奉答要氏vとして細かく残していた訳だ。
新聞等が伝える「東条メモ」の中心は、ャcダム宣言が求める「日本国軍隊の完全武装解除」への懸念だ。「手足を先ずもぎ取り、しかも命を敵側の料理にゆだねる」ようだと例えながら、武装解除に応じてしまえば、国体護持は「空念仏に過ぎなくなる」と訴えているとか。「敵側」が国体護持を否定する態度に出れば「たとえ一億人が一人となっても、敢然と戦うべきだ」と上奏したとも、報じている。この辺りは「天皇制維持」議論で、戦争終結が長引き、結局、原爆投下をも招いた事とも関係がある。
戦争の目的は「自存自衛」「東亜の安定」にあり、目の前の戦況に心を奪われないよう主張し、長崎に原爆が投下されて後も、「無条件降伏を応諾」すれば「ともすれば、一般に安易に考えている国民だから、軍部を呪うような事態になる」と記し、国民の反応を気にする姿が見える。さらに日本軍は「相当の実力を保持している」と意見を述べ、「簡単に降伏に賛成するような国政指導者および国民が、こんなに無気力だったとは、夢にも思わなかった。」と当時の内閣や国民に不満をぶつけた表現もあるとか。
「敵側の法廷に立つようなことは、日本人として取らない」と書き、自決を示唆した。しかし、9月11日、東条氏は銃自殺を試みて失敗している。陸軍の中枢部に座り続け、あくまで徹底抗戦を呼号し続けた陸軍大将は、やはり、一介の軍人に過ぎなかった。先を見る目とか、世界的視野、国民一般を眺める見識に欠けていたのだ。しかも、あれほど敵陣営に下る事を忌んでいたのに、自殺にも失敗し、おめおめと軍事法廷に引き出され、「絞首刑」を宣告されて、刑場の露と消えた。
彼の常套句は「ここで引き下がったら、戦場で死んで行った将兵の霊に申し訳ない」だった。日本軍の大陸侵攻を非難する世界各国の意見を入れて、軍を撤退させることへの詭弁的反論である。「戦場で沢山の戦死者を出した」のは、富国強兵策を推し進めた軍部の指導者達のせいである。世界的視野を持ち、各国と協調路線を取り続け「軟弱外交」と批判された昭和の名外相幣原氏と比較すれば、政治的見識の差は歴然としている。首相を勤めるほどの政治家だったら、進むだけではなく、自身の命と引き換えにしても、退く時の心構えも必要だったのではないか。軍人に権力を持たせては、ろくな事はないのだ。(手記原文は意訳してある)。
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