玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』講談社2006年刊は賢治ファンの度肝を抜いた。
2013年3月某日、私は慶応大学留学生のSさんを案内し、都内名所めぐりをしていた。
赤門は人気があり、その前に佇ち、眺めながら、近くの旅館には石川啄木が投宿した話をした。
するとSさんは「宮沢賢治が好きです」といわれた。
外人のSさんが賢治と啄木の関係をも熟知していたことは、驚きであった。
賢治といえば、雨ニモマケズ・・・の話になる。
私は書店JUNKUDOで、玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』講談社版を購入。その心象スケッチに、流石、お坊さまの賢治諭であると思った。
読みすすんでゆくと、驚嘆する箇所がいくつもあり、その新説・解説・洞察力には度肝を抜かされた。特に〈雨ニモマケズ〉には、革命がおきたかとおもったほどに驚いた。
宮沢賢治ファンなら、見逃せぬ〝異論〟は、いままでの常識を覆していた。瞠目した。
我が家の書庫にもぐりこんで、賢治関係本を積み上げて調べてみた。
すべて、玄侑宗久氏のご指摘の箇所は、以下同文の替えられた詩文であった。つまり、原詩と違う表記で流布していた。
1995年9月1日発行の宮沢賢治特集『詩と思想』も、旧態を踏襲した雨ニモマケズの詩文であった。
この「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」は、とかくに朗読会で読まれ、共感され、青年の人生に影響をあたえた作品である。ゆえに、今回の玄侑宗久著『慈悲をめぐる心象スケッチ』の指摘、新説は日本の文学史を塗り変えるほどの重さがあろう。
「雨ニモマケズ」が〝改竄〟されていたことは、
なぜ、そのような仕儀になったのであろうか。みてゆきたいと思った。
まずは、賢治を世におくりだされた功労者のお墓参りをしてから、みてゆきたいと思った。私は東京は巣鴨の染井墓地を訪ねた。案内板に 村光雲、光太郎、智惠子とあった。
墓前で手を合わせ、ぶつぶつとご挨拶を申し上げた。
私は、安達太良山の頂上で、2度、智恵子抄を朗読した。頂上には、宮沢賢治が所属した国柱会の師が発信したといわれる「八紘一宇」の碑が立っていた。下界から人間が担ぎあげてきたのか。相当の剛の者の仕業なのだろう。
智恵子抄のファンの私は、その安達太良山の碑を、想い出しつつ、光太郎夫妻にご挨拶をもうしあげた。光太郎さんにしか届かぬ声であった。
ボリウムをあげてみても、第三者に聞こえぬほどのかぼそい声であった筈・・・・。
ヒディ話でございます。
ヒドイ話でございます。
最近、以下の如き〝ささやき戦術〟がまかり通っておるようです。(出典:和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ―――本当の百姓になる』50頁の「椿説」より引用)
肝煎 賢二さんの詩(す) いすさ刻(ほ)って 建てべと思ってるどもなんじょだんす。
老名 文句は 東京のせェんしェさ送って 見てもらったら、ええじゃねェすか。
智者 そしたれば 東京のせェんしェから「雨ニモ・・・」の詩がえェとゆってきたから
全部けいェで 送ったら ええじゃねェがとおもあんす。
・・・・・・中略・・・・・・・
老者 清六さんがら てじょコかりで うづすべェ。
・ ・・・・・・中略・・・・
組頭 清六さん 困った困ったど ゆってらけェ 東京の言葉になってしまって
壮年 高村せェんしェが 文句 まぢがってらとゆわれて とんでもなェく くられだ。
・
・・・・・・・・以下略・・・・・・
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私は「椿説」を読んでいて、ちがうちがうと声をあげたくなった。高村光太郎先生は
揮毫の依頼を引き受けはしたが、賢治の数ある作品の中から碑文用の作品選択を任されたのだろうか。否、と私は思う。
碑文を選び出すには、大変な労力、負担を先生におわすことになるのではないか。碑建立計画の花巻の人たちは、著名な光太郎先生との人間関係で、まだそこまでの仕事を頼める人間関係にあったとは思えないのです。
高村光太郎揮毫の碑文をみると、脱字があったことが認められましょう。このことは何を暗示しているのでしょうか。私の推察では、先生への懼れが働いて、書き直しを頼めなかったからだと思う。
宮沢清六氏も揮毫依頼者たちも先生への遠慮があった、と私は考察する。
雨ニモマケズの碑文の脱落文字は、敗戦後、行外に追刻された事実を深く考えてみたいものです。
・・・・・・(2)に続く・・・・・・