花を咲かそう

平山郁夫シルクロード美術館

2011-09-20 10:01:47 | Weblog
清里へ
合唱団の合宿。

連日の
ハードな
練習をおえて

高原列車の小海線で
甲斐小泉駅にでた。

駅舎は
無人。

この駅の続きのごとくに建つ
平山郁夫シルクロード美術館
があった。

有意義な時間をすごせた。

おすすめしたいシルクロード美術館
であった。

平山画伯の
お話しを
大学の入学式のおりに
きいたことがあるので

なつかしくおもいだしつつ

絶筆の絵をながめてきた。

平山学長はその日のうちに
高句麗遺跡保存で
でかれられるとの
お話しであったかとおもう。

ご冥福をおいのりします。


清里・・・都民の水がめ(小河内ダム)建設で移住の人たち

2011-09-20 07:47:45 | Weblog
清里にでかけてきた。

清里は観光地、別荘地で出かけるところと思っていたが、

清里には、都民の水がめ(小河内ダム・・・現在は奥多摩湖)建設で
移住させられた人たち28戸がいた歴史があった。

電気牧柵でかこまれる畠には、だいこん、とうもろこしが食べごろであった。

どろぼー防止で、電気の柵をまわしてるのだな、と
物騒らしい清里の農道を
朝はやく散歩をしていた。

私は、農民から移住させられた人たち28戸の
その話しを伺った。

お墓に案内された。

今は4代目の人たちが生活していますが、小河内ダム建設では
故郷をおわれて、酷寒の地の清里で亡くなった人たちです。
お墓の墓石は、みんな故郷(丹波山村、小菅村)を向いています。

 私は、こんにちのフクシマの人たちを想った。
東京へ電気送電のために
原発の建設を認めた。

いま、原発事故で
故郷を追われてくらしている福島県の人たち。

案内された墓地は
それだけではなかった。
墓地の片隅には
戦時中に
軍部から退去を命じられて
伊豆大島の学園生たちは
移住させられていた。
その移住させられた障がい者たち、
藤倉学園の
生徒達は、酷寒の地:清里で亡くなっていた。

その鎮魂碑があった。

ショックであった。






●追記

小河内は
世界最大の水道専用ダムと称される。


移転総数945世帯。
建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。
昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、
「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。


▲小河内ダム建設地域の人びとを
石川達三は小説『日陰の村』(1937年)で表表。ダム建設で水没する村から三多摩地域やその他の代替地に移住した人々を描いた。
戦後も窮乏や漂泊をくりかえした様が描かれている。


▲小河内ダム建設地域の人びとを描いた歌
「湖底の故郷」を東海林太郎は歌った。
600世帯、3000人が故郷を離れたときの思い出を歌った曲といわれる。。

「夕日は赤し、身は悲し、涙は熱くほおぬらす、さらば湖底のわが村よ・・・・・」。

昭和12年に発表され、全国的に愛唱されたとつたえられている。

昭和41年、奥多摩湖の公園にその歌碑が建立された。




画家たち  の  東日本大震災・フクシマ原発大災害 

2011-09-16 20:52:42 | Weblog
16日、上野の森美術館へでかけてきた。
第47回の主体展である。
9月15日から21日まで開催。
あとは27日からは愛知県美術館、
10月11日からは 京都市美術館が予定されている。

友人から、出品のお知らせがあったので
見逃せない。

会場は、正岡子規記念野球場のすぐちかくにあった。

東日本大震災、フクシマ原発大事故の直後だけに、

画家たちは、その災いをどのようにうけとめておられるか
興味があった。

芸術家たちは、真摯にうけとめて
題材とされていた。

私のみたところ

『2011 3.11 祈り 松木弘』、 『復興への祈り 宮崎照雄』、
『3.11考 富田昭正』、 『エネルギーの行方Ⅰ 東原こずえ』、

『メルトダウン  筑波進』・・・この『メルトダウン』の 絵ハガキがほしかったが、なかった。それで、やむなく写真をとることになった。


『セシウムの風に吹かれて 根本章平』、
『災  橋宣子』、 『2011 3.11 東日本台震災、その惨状と混迷 村田和雄』
『祈り2 増坂勲』、 『2011 地から-1 海道圀夫』、
『北へ-3.11 松尾陽子』、 『2011 lifestory(Ⅱ) 大友恵子』
『被爆マリア  渡辺良三』、『震・濤  朝倉寛』・・・まだ他の絵画で、
天から吊るしたブランコにのって 揺れる街・・も、
大震災をあらわしているようだった。


『遠い日  福田加奈子』、『卓上の風 本木エツ子』も
日常を奪われた被災者、避難者には、そのように感じられただろう。

日本人としてほこりにおもう画家たちとおもった。
人間性をもつ芸術家の集団:主体美術協会、とおもった。

主体展の片隅には
脱原発の声明文が張り出してあった。
大江健三郎・坂本龍一・瀬戸内寂聴・澤地久枝さんらのお名前があったと思う。

出口のちかくには、賛成の入場者は署名を、とよびかけてあった。

フォトジャーナリスト広河隆一さんの最新現地報告の印刷物もあった。
それは、「チェルノブイリ25年、フクシマ元年」であった。
私は、戴いて帰宅した。

喫茶店で中身をよんでみて、友にも伝えたいとおもった。

原発事故下のまちは  死のまち

2011-09-09 15:11:51 | Weblog
2011.9.9のニュースによると、

前日、野田首相と鉢呂経済産業相は 原発事故現場ちかくを視察。

東京電力福島第一原子力発電所の周辺市町村は、

「市街地は人っ子ひとりいない、まさに死の街という形だった」と述べたとのこと。

私は、この〝死のまち〟発言は 現実認識として正しいとおもう。

 野党の自民党は問題発言だ、として、経済産業相を非難したいようであったが、
非難されるべきは
原発を推進してきた自民党こそではないだろうか。

この、フクシマを〝死の町〟にした原発推進の歴代の政権こそ、
非難されるべきことではないだろうか。

ことばを飾ることで、国民を真実から覆い隠すことは、
犯罪ではないだろうか。

現実を直視し、死のまち、の認識から、再生へのまちつくり、
郷土の復活があるのではないだろうか。

どこの国民も、住む国土があって国民といえよう・・・。
国土があっても、住むに適しないまちにさせられた現実、これは政治の責任なのだ。
東京電力だけを、悪としていいのだろうか。


 昨日のNHKテレビ、特集ドキュメンタリー『家族は放射能の向こうに』津波と原発事故
父親と妻子を奪われた男性の苦悩の半年・・・・に、幾度もなみだした私だった。

原発は

地震大国の日本にはむかない、と痛感させられた。

いままで、原発を急には無くせない、原子力発電は安価と信じてきた私だったが、

このドキュメンタリー『家族は放射能の向こうに』をみて
養豚業の男性のさけびをしって、
生き残った長女さんの岡山弁になった声をきいて

第二、第三のフクシマをつくってはならない、
と思ったのでした。



野田首相のご発言
「福島の再生なくして、日本の再生はない」のだから・・・・。