1 現在短歌のヤワな感じ
「現代短歌のニューウェーブ」とは、1980年代半ば以降起こった口語短歌の新しい動きだそうだ。聞いたことはあったような気もするけれども、「ライトヴァーズ」という言葉とのニュアンスの違いとか、きっちりとした定義など考えたこともなかった。
そのころ僕が読んだ歌集はと言えば俵万智『サラダ記念日』林あまり『MARS☆ANGEL』『ナナコの匂い』くらいのものだった。少し遅れて穂村弘『シンジゲート』も読んだ覚えがある。しかし詩を主戦場にしようと考えていた僕にとって、横目で見ながら走る領域くらいにしか考えていなかった。『サラダ記念日』は上手いと感心した。『ナナコの匂い』はエロいと笑った。ただ、どれもが僕の魂を揺さぶるようなものにではありえなかった。それらの歌集との出会いが、僕の「ニューウェーブ体験」と言えばいえるのかもしれない。
昨年来、このサイト「詩客」短歌評のために改めてかなりの数の歌集に目を通した。今のところ藪内亮輔『海蛇と珊瑚』・笹井宏之『えーえんとくちから』・千種創一『砂丘律』・柴田葵『母の愛、僕のラブ』の4冊についての短評を書いたに過ぎないが、それでも短歌の現在というのが朧気ながら見えてきた気がする。「知らないうちに、ここまで来ているのか!」という感慨を覚えた。中でも『海蛇と珊瑚』や『砂丘律』は骨があった。ぐいぐいと迫ってくるものを感じた。しかし一方で平行して買い求めながら批評を書けなかった岡野大嗣『たやすみなさい』や朽木祐『鴉と戦争』その他多くの歌集たちは、芯の欠落したヤワな感じがするのだった。意識的にそう作ってるからなのか、そうせざるを得ないのか。根無し草的な感じがして、気持ちいいのか悪いのか分からないくらいだった。僕は何だかいたたまれなくなってきた。痛い。痛すぎる。ふつふつと怒りにも近い感情が湧いてくる。そのルーツに関するヒントでもあるかと思ってこの『現代短歌のニュウェーブとは何か?』(2020年2月 書肆侃侃房刊)を買ってみたのだった。
2 ヤワさの根底にある「ニューウェーブ」
この『現代短歌のニュウェーブとは何か?』を読むと、1980年代半ば以降の、つまりは元号が平成に代わる直前からほぼ現在までの口語短歌の大まかな流れがある程度分かる。そして、先に書いた現在の短歌の寒さの理由がどことなく理解できたような気がする。「ニューウェーブ」な書き手たちは、それまでの規律の強い、芯のある世界からの解放を目指して自分たちの世界を作ろうとしたのだろう。ところが、その排出した世界があまりにも自由に過ぎたため、それによって育った次世代以降は、マトモに育たなかった。ごく一部の天才は除いて。そんなところだろう。急激な転換期を支えた世代は偉大でも、後代はその自由さで育つ或いはスポイルされが故にうまく力が伸びないことは、どんなジャンルにも言える事なのだろうし、理にもかなっている。
今、「偉大」と書いた。偉大かどうかは知らないが、俵万智は僕は優れていると思う。しかし、ニューウェーブを形作った人たちというのもそんなにすごかったのだろうか?それを確かめるためにも、僕はこの本を読まなければならなかった。
3 通読後メモをしてみた
本書を読み終わって、内容を振り返りながらメモをした。本文を再読しない段階のものなので、雑であり、もしかしたら間違いもあるかもしれない。まだ本書を読んでいない人がいたら、間違い探しクイズでもやるつもりで、手引きに加えていただければ幸いである。とりあえず以下の通り。
◆現代短歌のニュウェーブとは◆
・ 口語短歌であるらしい
・ 1980年代の半ばから後半にかけて勃興してきた流れらしい
・ 当初は漠然とした意味で使われていたらしい
・ ジャンルの終焉みたいに言ってる人もいたらしい
・ ライトバーズと関係が深いらしい
・ 文語調のも間々あったらしい
・ 活動や出版の「場」を作ったことも評価されているらしい
・ 荻原裕幸が新聞で使った言葉が初めらしい
・ 穂村弘によると「わがまま」らしい
・ 加藤治郎が辞書に項目をねじ込んだらしい
・ 「革命的な表現」でいっぱいだったらしい
・ 俵万智『サラダ記念日』はニューウェーブではないらしい
・ つまりめちゃめちゃブームになった歌集は「大衆短歌」と蔑み、それと「ニューウェーブ」は一線を画したいらしい
・ 30周年のシンポジウムが開かれたらしい
・ そこでいろいろ紛糾したらしい
・ ニューウェーブな人たちに「俵万智だけいればいいじゃん」と言うのは蛮勇らしい
・ 結局現代短歌のニューウェーブとは4人のことらしい
・ あるいは1人のことらしい
・ 女性は自由過ぎるから、この括りでまとめる必要すらないらしい
・ 後の世代からは必ずしも支持されているとか限らないらしい
・ ニューウェーブに自分も入ってるんだと感じてた人も多いらしい
「らしい」だらけだが、なんだか全体を読んで、何も信用できないという気分になってきたのでこう書かざるを得ない。人によって定義も異なるし、思い込みも思い入れも温度も粘度もさまざまである。この本を通読した限りにおいて、僕が理解できたのは上記の「ようなことが言われている」ことだけに過ぎない。その時代の雰囲気を現わす言葉くらいに「ニューウェーブ」という語を理解していたにすぎなかったが、加藤治郎は後に「はい、それはもう四人です。」と言っている(本書P 159 )2018。(引用文末につけた数字は、発言が掲載された年。本書は、30年間にわたるニューウェーブに関する発言等を広く掲載したものなので、「いつ」の発言かによって意味合いが違う場合もあるだろうためにそのようにした。本稿では以下これに準ずる)ニューウェーブに関してはあまりにも何もかもが曖昧である。そういう雰囲気の中で短歌が流れていたとしたら、現在短歌の(特に新しい世代が)ゆらゆらしているのは仕方のないところなのだろう。
4 現代短歌のニューウェーブとは何か?
さて、本書でニューウェーブについて読んでいると、その目指そうとしたらしい軽みやPOPさとは裏腹に、どす黒い政治的(時事的、社会問題的という意味ではなしに、歌壇内政治という)芬々たる臭いばかりを感じてしまった。しかし中には、きわめて本質的なところを見ていると感じられる批評家とも出会った。ごく部分出来ではあるが簡単に紹介しながら、彼らの言葉に沿ってニューウェーブの正体をもう少し具体的に訪ねてゆこう。
まずはニューウェーブに関する回想を花笠海月の言葉からみる。なだらかかつ簡潔にまとまっているので僕はとっても納得がいった。ここに写してみよう。
私は一九九一年に歌をはじめた。その時、流行っていたのは、ただごと歌であり、二宮冬鳥であり、
茂吉であった。ニューウェーブという言葉はまだ定着してなかったと思うが、『あるまじろん』が
出たばかりで、話題の人物として荻原裕幸の名は当然耳にした。/どうしてこれらが流行ったのか。
私はこれらを「反『サラダ記念日』」としてすべて説明できると思っている。これらの出現は『サ
ラダ記念日』のもたらしたものをどう紹介していったかのあらわれだったと思う。/戦後短歌の歴
史は口語体や新かなをどう消化していくかという視点なしには考えられない。しかし『サラダ記念
日』はそれまでの細やかな営為をふきとばす勢いで広まってしまった。平成の短歌史は『サラダ記
念日』と「それ以外」で分けたほうが見えてくるものがある。そのなかで『サラダ記念日』に乗れ
なかった男性歌人からの『サラダ記念日』に対するアンサーが、これらの「流行」だったのだと思
う。 花笠海月 p224 2019
「『サラダ記念日』に乗れなかった男性歌人」というのがはじめよく分からなかったのだが、巻末に収められた荻原裕幸による「ニューウェイブ関連年表」に沿って時系列的に整理すれば次のようになる。
1985 俵万智「野球ゲーム」で角川短歌賞次席
1986 穂村弘「シンジゲート」で角川短歌賞次席
加藤治郎「スモールトーク」で短歌研究新人賞
林あまり歌集『MARS☆ANGEL』
1987 加藤治郎歌集『サニー・サイド・アップ』 俵万智『サラダ記念日』
1988 荻原裕幸歌集『青年霊歌』
1990 穂村弘歌集『シンジゲート』
このように列挙すると「乗れなかった」人々をニューウェイブと呼ぶというのは一目瞭然だろう。周知のとおり俵万智『サラダ記念日』は社会現象ともいえるレベルで、爆発的に売れまくったのだった。短歌村内の「注目」など、全て吹っ飛んだわけだ。当時加藤も荻原も穂村も全く知らなかった僕でさえ、俵万智の歌集はリアルタイムで読んだのである。西田政史は「ニューウェーブは社会現象のようなものだと考えるに至りました」(本書 p130 2018)と言っているが、馬鹿な事を仰るなという感じである。そんなものは短歌創作者の中での認識に過ぎないだろう。もっとも西田は「社会現象のような」と言っているから、やはり「社会現象ではない」ということくらいは承知しているのかもしれない。ただ根本的に反響のレベルは異質なものであったことだけは、確認しておかなければならない。(こんなことは当時を生きた人間にとっては言うまでもない。そもそも、俵万智とその他の歌人が同列に並んでいることが、外側から見る僕には現在でも強い違和感がある。少なくとも出版史的に言えば、雲泥の差であるわけだ。だが、一般社会と短歌村を同列に扱う言辞が繰り返される中で、後代に誤った情報が刷り込まれるのは問題だと強く思ったのでここに拘って書いておく。)
なるほど、短歌界の中で注目されていた若い書き手たちが、俵万智の爆発的なブームで持った焦燥感は大きかったのだろう。少なくとも僕が同じ立場にあったら、居ても立ってもいられなくなって、何か仕掛けを起こすかもしれない。そしてその仕掛けが「ニューウェーブ」だったのかもしれないと想像する。ニューウェーブ4人組の一人(らしい)穂村弘は本書p156で以下のように発言している。
水原紫苑とかとしゃべっていると「ニューウェーブって何?」とかよく言われるの。俵万智さんが
いればいいじゃんって。どう思う?そうだよねっていうしかなかった僕は。それでね、「いつもあ
んたたちはそうなんだよ」って言うのね。彼女が挙げた例はね、(与謝野)晶子がいれなよかった
のに、男たちが、晶子が開いた扉を自分たちはあとから通っただけなのに偉そうにする。いつも男
はそうするって。 2018
行動に男も女もないとも思うが、確かに男は何かの動きを後追いで「理論化」したり「史的に記述」したがったりする。「詩的に」ではなく。それはサガだ。この観点でみれば、本書のつくりはまさに「男臭い本」だということが言えるのだろう。加藤次郎も巻末の解説「ニューウェーブの中心と周縁」で『現代短歌大辞典』の中に「ニューウェーブ」が収められるに至った経緯を長いスペースを割いて説明している。そして「辞典の制作には、査読という工程がある。ある項目について必ず編集委員が原稿をチェックする。適切でない場合には原稿の修正が求められる。そして最後は監修者が目を通すのだ。」などと書いている。これは何が言いたいのか。結局のところ「辞典に掲載されているということは、何人かの目を必ず通っているわけだから、お墨付きなのだ」ということが言いたいのだろうか。男は確かにこういう権威の傘を誇示したくなるようである。男と女ということに関わっては紀野恵もP112~13で面白いことを言っている。
私はたまたま女性であるが、たまたま、文学的な流れに名前を付けたり参加したりすることには興
味がない。それより作品をつくることでしょう。…(略)…仕掛けを作って動いてくれている人た
ちには感謝のみである。 2020
「それより作品をつくることでしょう」というのはいい得て妙だ。ニューウェーブな人たちの作品が、俵万智より知られなかろうがどうであろうが、作品さえ良ければ、そんなものは些末な問題として一笑に付すことができるのだ、本来。しかし、当初からニューウェーブの作品に対しては、強い批判があったようだ。
僕は、これだとジャンルは終わりだと。短歌というのは、無になると思うと。あと、何十年かは続
くだろうけどさ。ジャンルとして残る意味が、何もない。小池光(本文p34)1991
表現から反逆精神というものが消えてしまったとしたら、そこから先に新しいものを生み出してい
く力は残るのだろうか。小林久美子(p76) 2003
これらの感想は、僕が最初に書いた「現在短歌のヤワさ」の問題にそのままスライドさせることができるのであって、つまりは、「ニューウェイブ」の上に育った「現在」は、もろにその劣性面を継承しているということができるのだと確信する。
▼▼▼▼▼ココが戦場?▼▼▼▼▼抗議してやる▼▼▼▼▼BOMB! 荻原裕幸
1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0 加藤治郎
荻原裕幸、加藤治郎両氏の作品。これらの作品は記号短歌といういささか侮蔑的な名称で呼ばれた
が、当時も三十年たった現在も私にとっても「何かとてつもなくもの凄くいままで見たことも聞い
たこともない作品」ではない。こういう実感が短歌のニューウェーブに対する否定的な態度を生み
出していたのだと思う。 藤原龍一郎(p96)2020
この発言後、藤原は「ニューウェイブ」の評価面について述べているのだが、藤原の引用しているものに限らず、本書で取り上げられる全ての歌のどれひとつとして僕には何の魅力も感じられない。「大衆短歌」だという俵万智の方が何倍も優れて見える。30年前にリアルタイムで読めば斬新だったという話ではない。たとえば藤原も引用している、そもそも「ニューウェーブ」という言葉を定着させた当の本人だといわれている萩原裕幸の「▼▼▼」が使われている作品など、どこをどう評価するのか?僕は大正末期のダダイストたちー高橋新吉や萩原恭次郎に惹かれた人間として、このように記号が作品内に用いられることに関しては、ある種の免疫というか共感を基本的には感じるのだ。だが、その僕にしてなお『あるまじろん』に収められているというこの作品には、感じろといわれても感じる術を最初から持たない。斬新でもない工夫も何もない。加藤治郎は「今までは、言語表現だけは皆信頼してきた、というところが、最後のギリギリの線としてあったと思うのです。」と言っている(本書P24 1991)が、例えば詩の創作世界で「言語表現だけは皆信頼してきた」と思っている人が、当時であっても何人いただろうか。そもそも、少なくとも戦後において創作とは、言葉への不信というものを前提としながら、あるいは前提とするからこそ言葉によって新しい世界を作り上げようとする矛盾に満ちた行為ではなかったか。もし、加藤だけでなく、「皆信頼してきた」のだとすれば、改めてその能天気な村社会を検証してみる必要があるだろう。(もっともそれは加藤がそう言っているだけであって、他の短歌の書き手にとっては「冗談じゃない!」ということではないか、とうすうす僕は思ってはいるが)。その能天気な加藤治郎の歌に関して言えば、「これをこう楽しめ」というのが露出しすぎていて、狙いは分かるけれども面白くなさすぎる。つまりは歌のセンスが著しく低いのである。なぜこんなものがたとえ一部の人にであってももてはやされたのかよく分からないというのが正直なところだ。1980年~90年ころの短歌の世界は、まだまだ崩すべき世界だったということだろうか。しかし加藤も荻原も苔脅しに過ぎないという印象だけが残る。そんなことをやっているときに、俵万智が現れれば一たまりもないのは、必然といえるのだろう。
また若い世代に属する(のだろう)永井祐も加藤の「不自然」について指摘している。
加藤さんのライトヴァースってすごく不自然なんですよ。わかりますよね。『マイ・ロマンサー』
とかでも、なんか謎のヤング・アメリカンみたいな主体が出てくる(笑)。俵さんとかは、もっと
自然に口語で都市生活を詠うっていうのができてると思うんですけど、加藤さんのライトヴァース
がすっごく不自然なんです。(p195 2018)
「不自然さ」といえば、穂村の『シンジゲート』に対しては特別な感覚はなかったが後になって『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』を何故だか買った時、作り物の匂いしかせず、女子高生とかオンナノコとかに仮託しないと何も言えないというか注目されないだろうという、読者を小ばかにした態度に悲しみすら感じたことを覚えている。
5 死へのまなざしと今後の短歌の可能性
全般に不愉快が言説が目立った本書の中で、短歌に関する透徹な目線が光るのが水原紫苑であった。彼女はシンポジウムの中で、前衛短歌とニューウェーブの「死」に関するスタンスの違いを述べている。
考えてみると近代短歌の「時間」というのは直線的に「詩」に向かっていますよね。前衛は重層的
な「時間」であって、大きな「物語の時間」ともう一つ「私の時間」というものを二つ背負ってい
たと思うんです。だけど、大きな新しい波はどうかというと、「死」というものが捨象された「無
時間の感覚」じゃないかなと思うんですね。浮遊した感覚といいますか。「死」を捨象した文学と
いうものは、本来ありえないわけで、でもそういうあり得ないものを作ったというのが一種の功績
だったと思うんです。「不死の空間」といいますか。で、ニューウェーブ以降の、現代の若手の作
品というのは、そうではなくて「死」を内包する「循環的時間」というか、私は何か古典和歌に帰
ってきた時間のようなものを感じるんです。 水原紫苑(p169) 2018
ニューウェーブ以降の若手の傾向が「循環的時間」「古典和歌に回帰するような時間」なのかどうか、僕は判断できないが、彼女には『桜は本当に美しのか 欲望が生んだ文化装置』(平凡社 2017年刊)という『万葉集』『古今集』『古今和歌集』をはじめとして、現代の桜ソングに至るまで「桜」の織り成す意識を探ろうとした力作がある。たとえ結論がまだ見ぬ向こう側にあるとはいえ、すでに問自体に価値がある。その彼女が≪現代の若手の作品というのは、そうではなくて「死」を内包する「循環的時間」というか、私は何か古典和歌に帰ってきた時間のようなものを感じる≫という時、それはとりもなおさず、水原自身の時間意識と強く関りがあると考えてもよいのではないかとも思うのである。僕は以前『異界の冒険者たち』(1993年 朝文社刊)の中で近代詩人の「異界表現」を探ったことがあったが、「死」をどのように描くかということが書き手の力の見せ所でもありそれだからこそ「死」の前において薄っぺらい奴は吹き飛んでしまうだろうことは近現代詩でも短歌でも同じことだろう。
同時代評をすることは大切だろう。同時代の伴走者がどういった歌を作るかということから刺激を受けて新しい可能性が開けることも大いにあるだろう。しかし、古典―もちろん、たとえ水原のように万葉集まで遡らなくても、例えば前衛やそれに先立つ明治大正の短歌史―を大づかみに理解するところからしか、ジャンルの可能性は今後に開けてこないだろう。平成期には結社の縛りが薄れたらしい。そのメリットは本書の能書きに詳しい。が、そのデメリットは過去の名作、あるいは師匠の作品を(すら)読まなくなるという弊害だろう。というよりも、師匠が存在していないのだから読みようもないだろうし、師匠と呼ばれることの重荷を引き受ける書き手も少なくなったのかもしれない。自意識だけが突っ走り、蓄積に目が向けられなくなるとすれば、それは本書にもあったように、明らかに口語短歌の危機だといっていいだろう。
口語短歌を救え!誰が誰に求めているのか分からない助けを求める、か細いしかし切なる声が僕の耳の奥に響き始めた。
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