「今日はやけに雲が低いな・・・。」
取引先との長い打ち合わせを終えてビルの外に出た私は、どんよりとした鉛色の空を見上げてそう思った。
「こんな日には、コーヒー豆を挽いちゃいけない。」
昔よく通った喫茶店のマスターがそう言っていたのを唐突に思い出した。
人の記憶というのは不思議なものだ。
足早に事務所へと戻りながら携帯をチェックすると、一件の着信履歴が残っていた。
あの男からだ。
私は、胸の鼓動が早まるのを感じた。
信号待ちの交差点で折り返しの電話を入れると、妙に甲高い声であの男が出た。
「例の物が届きました。いつでもお渡しできます。」
「そうか、分かった。今夜取りに行くから、用意しておいてくれ。」
信号が青に変わった。
私は空を仰いで大きく一呼吸し、再び歩き出した。
高層ビル群に覆いかぶさる暗い雲の塊が、まるでなにか巨大な生き物の胎動のように、ゆっくりと、大きく蠢いているのが見えた。
・・・世界は動き出した。
・・・もう誰にも止められない。
◇ ◇ ◇
閉店間際のその店は、いつものように仕事帰りのサラリーマンでにぎわっていた。
その中に、店員の制服を着て、入荷したばかりのルアーをせっせと商品棚に並べる茶髪の男の姿があった。
私は後ろからそっと近づいて、声をかけた。
「すっかり釣り具屋の店員だな。」
男は「ひっ」と小さく声を上げて振り向いた。
「上手く化けたもんだ。」
「やだなあ、旦那。脅かさないで下さいよ。それにあたしは化けてるんじゃなくて、これが本業なんですから。」
「さっそく例の物を頼む」
「あたしの話聞いてますか?」
「物を見てからだ。」
「わかりましたよ。どうぞこちらへ。」
私は男に案内されて、店の奥へ進んだ。
男はバックヤードから細長いケースを取り出してきて、私の目の前に置いた。
「さあ、これですよ。ご確認ください。」
男はケースの中から黒い袋を取り出し、周囲を見回して他の客がいないことを確かめた。
そして、もったいぶるようにゆっくりとその袋を開けた。
袋の中には、黒灰色に輝く「それ」が、見るものを威圧するように横たわっていた。
間違いない。確かに、私が探していたものだ。
「ロンギヌスの槍・・・・か。」
「え?なんですって?」
「いや、なんでもない。」
「これなら、どんなモンスターが現れても大丈夫ですよ」。
男は悪戯っぽくそう言って、ニヤッと笑った。
「手に持ってみますか。」
「やめておこう。人目につくとまずい。」
「そうですね。とりあえずこれは仕舞っておきましょう。」
再び袋の口を閉じた男は、制服のャPットから請求書の用紙を取り出し、ボールペンで金額を書き込んで私に見せた。
「○○○円か。高いな。△△△円にしろ。」
「えっ、それは困りますよ。旦那が至急っておっしゃるから、普通なら一ヶ月は時間を頂くところを色々な「つて」を使ってなんとか一週間で調達したんですよ。」
「売人としての腕前は認めるが、これ以上はビタ一文まからん。」
「まからんって・・・逆じゃないですか。それに売人だなんて人聞きが悪い。プロ・コーディネーターと言ってください。仕事に対する報酬はきちんと頂きますからね。」
まったく、この男の欠点は余計な能書きが多いことだ。
「ところで君、先月号の○○誌は見たかい。」
「え、もしかして旦那、ご覧になったんですか。」
「なんだか偉そうにウンチクたれてる痛い奴がいたけど、あれはいったい誰かな。」
「うわ、やめてください。恥ずかしい。」
「バスからソルトまでマルチにこなすエキスパート。ふんふん。」
「うわあうわあ。」
「あと、なんだっけ。なんとか店員。カリ・・・・?、スマ・・・・?」
「あああ、ごめんなさい。もうしません。堪忍してください。」
「そんな馬鹿はヌカカに刺されて死んでしまえ。そうだろ?」
「ぐわあ・・・・」
なぜか一人で悶絶している男の手に請求通りの△△△円を気前良く握らせ、私はついに「それ」を手に入れた。
「ぜえぜえ・・・。ところで旦那。こんな物騒なシロモノ仕込んでどちらへ出撃ですか。」
「おいおい、そういうことは訊かないのがこの世界のルールだろう。」
「おっと、すみません。そうでしたね。あたしもすっかりヤキが回っちまったな。」
「堅気の衆相手に余計なものばかり売りつけてるからだ。」
「厳しいなあ。」
「まあ、いつか気が向いたら報告に来るよ。」
「ええ、期待しないでお待ちしてます。」
私は想像していたよりもずっと軽い「それ」をそっと抱えて店を出た。
◇ ◇ ◇
ひんやりとした夜の外気。
いつのまにか降りだした小糠雨。
店の前の通りでは、既に一杯引っ鰍ッた若者のグループが固まって、嬉しそうにカラオケの相談をしている。
一生懸命客引きをする居酒屋の店員の傍を、傘をさそうかさすまいか迷いながら駅に向かう人々が足早に通り過ぎる。
何の変哲も無い、日常の風景。
しかし、われわれの知らない非日常が、われわれのすぐ近くに潜んでいるとしたらどうだろう。
それを知ってしまったとき、皆このように平静でいられるだろうか。
私は、不幸にもその一端を垣間見てしまった。
それは、これから起きることのほんの序章に過ぎない。
~つづく~

エバーグリーン/スキッドロウ・インペリアル86M”レーザーキング”
