聖書の理解や見解は、人が読んで調べてその意味を解釈する。そこには絶対に人の解釈、見解、思考と言うものが入ってしまうことにより様々な解釈の仕方が生まれ様々な結論を導き出す。それをJWの組織は真理と呼んでいる。
しかし、真理とはウィキペディアによると『確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。 』この説明文には「本当」とか「誤りなく」とかかれているが、いったい誰が正誤を保証することになるのか?
一方、事実であることが証明されなくても論理的な破綻がなければ真理として認知されることもあり得ます。そうであったとしても人間の理解は完全に近づこうと努力していても完全なものではない。実際、JW組織も間違いは認めている。事実、聖書の解釈や理解が誤っていた時にそれを理解の調整として記事を正している。
とは言っても、その内容には、独自解釈によるパリサイ人的なものが存在していると言わざるを得ないです。
その代表的な聖書解釈をいくつか上げます。
1 輸血拒否【この項目は以前に詳しく述べています。】
創世記9:4 ・・・血を伴う肉を食べてはならない
使徒15:20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
上記の聖書の言葉から、輸血拒否が生まれて来たわけですが、当然、聖書には直接的に輸血をしてはならないと書かれている箇所は無いので聖書の記述を拡大解釈していることになります。しかも、そう解釈しているのはエホバの証人だけとなります。単にある一部の人間の理解によって輸血拒否という考えが生まれ、それが聖霊に導かれて得られたものではなく独善的に作られた規則なのです。
2 乾杯しない
塔07 2/15 30–31 読者からの質問から
塔07 2/15 30–31 読者からの質問から
乾杯は現代では、多くの人にとって,何の害もない慣習もしくは社交上の行為と映ることでしょう。 と述べて過去には宗教的な慣行が関係していると言っている。⇒乾杯はしない。
また、ざくろについては、「異教においても,ざくろは聖なる象徴として使われていたようである」と述べています。それでも,まことの神は大祭司の衣のすそべりに糸で作ったざくろを付けるように取り決め,またソロモンの神殿の銅の柱にはざくろの飾り物がありました。⇒これは問題なし
また,結婚指輪にもかつては宗教的な意味合いがありました。しかし今日,ほとんどの人はそのことを知らず,結婚指輪をするのは結婚していることのしるしである,とみなされているにすぎない。 ⇒これは問題なし
以上の3つ事から
乾杯、ザクロ、結婚指輪は過去の慣行から宗教色があったと言う同じ背景があると説明しておいて何故か乾杯は天に向けて杯を上げる行為が宗教的と、こじつけて乾杯はしないと結論し、ザクロと結婚指輪は問題なしとしていて理解に苦しみます。
杯の扱い方が世の宗教的な行為とみなされるのであれば、祈りのときに目を閉じてうつむく行為は他の宗教に見られる行為と同じであり祈りをするべきではないと言うことになってしまいます。
3 誕生日祝わない
創世 40:20‐22: 「さて,三日目はファラオの誕生日
マタイ 14:6‐10: 「ヘロデの誕生日
神の言葉が誕生日の祝いを好ましいものとしては記していない点に注目して,それを避けています。
と述べていますが、600ほどの多くの律法を聖書に記しているなかに誕生日を祝ってはならない。と言う項目が無いのはとても不自然です。
また、このようにも述べています。『クリスチャンは誕生日の祝いを避けます。それは,こうした慣行が個人に過度の重きを置くことになるからです。 』
そんなことを言ったら、巡回監督の食事招待、訪問講演者の食事招待することや、講演が終わった後、割り当てを果たした後にお礼に行くことは、個人に重きを置くことにならないのでしょうか? 組織の見解からすればこれららの行為も止めるべきでしょう。
4 預言の年代計算
このように、聖書に書かれている事柄を不完全な人間組織が扱えば組織の数だけ様々な解釈が生まれてくるわけでそれぞれが正しい理解として組織の内部へと浸透していくことになります。
そもそも、66冊の書にまとめてあり正典と呼ばれ、他に外典の書も存在している。これらを編さんしたのは人間です。何が正典、何が外典なのかも神が介入して分けられたわけではない。今ある聖書だけが本当の真理としていいのかどうかも判断できないのである。
果たして、真理はどうやって届けられるのだろうか?
真理は人間が介在しては伝えられないものなのかもしれない。