聖書は本当に輸血を禁じているのか考えてみました。
用いている聖書は旧版の新世界訳聖書です。
最新の聖書はあまりにも意訳が多く好きになれませんでした。
まず創世記9:2~6を見てみましょう。
【2 そして,あなた方に対する恐れ,またあなた方に対するおののきは,地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物,地面を動くあらゆるもの,また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それらは今あなた方の手に与えられる。
3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。】
ここまで、上記の記述は人間が食べてよいものについてかかれています。もちろん動物の肉を食べてよいわけです。
【4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。】
動物の肉は食べてよいが、血が残った肉は食べてはならない。と言っているだけで血を食べるとか飲むという表現ではありません。つまり、肉を食べる場合はきちんと血抜きをして食べるように命令されているだけです。
【5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。】
5-6節では血は命であり、それを奪った(血を流した)者は、命をの返済を求めるとあります。つまり、人を殺した場合は、命をもって償わなければならないと述べています。血は命と同等であり、人の命は神の創造の賜物ですから、命は神に依存するものとなります。
4節、5節この血に関する規定は、二つの規定として分けることができます。
1.動物の肉を食べる場合は、必ず血抜きする事
2.人の血は命であり、その命を奪う行為は神に命を返さなければならない。
ここで伝えたい事は
1.動物の正しい肉の食べ方
2.人は神の像に造られたので、神から見ても貴重で特別な存在。その血も命と同等で貴重なものである。
使徒15:20
20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです
使徒15:29
すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。
上記の2つの聖句の背景は、エルサレム会議の結論として伝えられた言葉です。当時の文化的背景で『血と絞め殺されたもの』はどんな状況を念頭に置いて避けるように書かれているのか?
まず、血そのものは犠牲の動物から注ぎだされた血と、食肉用として血抜きされた血を示しています。いずれの場合にも避けるべきものと理解出来ます。絞め殺されたものは十分に血抜きされなかった肉を示しています。血は避けるべきもので食べてはならないものでした。
レビ17:10-16
「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。11 肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである。12 それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない」。13 「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。14 あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。
モーセの律法は、犠牲の血とイエスの流された血には関連があるとされていて神聖なものとして扱わなければなりませんでした。そう言う意味で、血を食べる行為は神聖さをないがしろにする行為として厳重な処罰が与えられていたと理解できるでしょう。
また、当時のイスラエル人以外の文化圏の中には血を使った料理や血抜きされない肉があったようなので、そのような食肉を念頭に置いて血を食べないように注意喚起されていた一面があったのかもしれません。
15 [すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。16 しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。
この聖句も血抜きしてない肉は食べないように規定されていることを思い起させるものとして書かれたと思います。
また、現代の医学や生物学では、死んだ動物、または人間の体温が35度を下回ると血液中の細菌増殖が急激に増えることが分かっているようですから、動物の血抜きしてない肉は血抜きした肉に比べて腐敗が早く進むので食中毒になる可能性が高くなることを考えると、適切な肉の保存ができなかった古代では衛生面を考慮して血を避けなければならない理由になっていたのかも知れません。
以上の事から、聖書にある『血を食べない。』、『血を避ける。』は直接的に輸血に関係するかどうかは解釈の仕方によると言えます。聖書の文脈や時代背景からすれば当時は輸血というものは存在していなかったのですが、血は神聖なもので、血を体内に取り入れる行為(輸血を含む)は神の命令に背く重大な罪だと拡大解釈することは出来ます。そうです、解釈の仕方によって輸血拒否に繋がることになりました。
しかし、血を食べる目的は食物として栄養分を取り入れるのが主になりすが、輸血は大量の出血により生命維持機能が低下したため血液の持っている本来の機能を回復させて命を維持向上させるためのものとなるので目的からすればまったく違うものです。目的が全く違うものを同等に扱うのは乱暴な論議ではないかと思います。神の最大の特質は『愛』です。その愛の神が人の命を左右するかもしれない医療処置を非とするのでしょうか?
しかもエホバの証人の組織ルールでは輸血をした者は「排斥」と呼ばれる処置により裁かれ追放され一切の関係を断ち切られます。その理由は使徒25:20で淫行と同列に血を避ける事が書かれているため重大な罪と言われているからです。ですが、そこには血抜きされていない肉も同列に書かれています。しかし血抜きされていない肉に対してレビ記の17:15には汚れを清めれるだけで許されますと書かれています。同じ節に記されているからと言ってもそれぞれの事柄を同列に扱うのは正しいことではありません。
【組織の輸血に対する見解について】
最新の輸血は血液を生成して成分輸血するのが主流です。エホバの証人の組織が提示するその成分は、赤血球、白血球、血漿、血小板の4つが上げられています。この4つの成分に関しては血液と同じであると見なし輸血はしないとしています。血液分画と呼ばれる免疫グロブリンやアルブミンなどは個人の判断に任せるとしています。あとは血液由来の血液製剤なども個人の判断に任せられています。血清なども血液由来の薬として存在します。ある人はこれら全てを受け入れないと決定する人もいます。こうした決定をした人は病気になったときにどんな治療ができるのだろうか? そのように導いている組織は個人の自由な選択に基づいていると言って何の責任もとらない事でしょう。医学的知識のない人々が組織の誤った判断によって誤導されているのは大きな問題です。
また、輸血を拒否する血液の成分を赤血球、白血球、血漿、血小板の4つとして明示していますが、そもそも血に関する聖書の規定は全血(血液そのもの)ですが、何故わざわざ血液成分、分画、などどこまかな分類をしなければならないのでしょうか、どんな聖書的な根拠に基づくものなか理解不能です。聖書に書かれている血とは、血そのものであって、分解された血の成分はもはや本来ある血の機能を持たない物となっていることは明確です。
さらに、血を食べる事と輸血(血液成分を含む輸血)は同じなので輸血は拒否するという立場を示している組織はある大きな矛盾があることに気づいていません。(もしかすると気づいていて、公にしていない可能性もあります。)
一つ目は、母体と胎児を繋げている胎盤は、白血球、赤血球を通過していると言う研究結果が報告されているという事実があります。
※参考資料:赤血球の胎盤通過に関する研究より
二つ目は乳児が飲む母乳には、白血球が含まれていることが知られています。
参考サイト
これらの事実から、胎児または乳児は、組織が拒否するように規定している輸血と同じ成分を取り入れていることになり、組織は神が創造された人体の仕組みをどのように輸血と違うことを弁明するのでしょうか?
このような事実からして輸血を拒否する理由がどこにあるのでしょうか?
本来、聖書の原則に従うことが重要であるはずが、原則から外れた指示を出す組織は、一世紀当時の宗教指導者と同じ道を歩んでいるように感じます。牧されている羊達は苦しんでいるのです。