My Life

いつからか・・・喜びがなくなった。

血と輸血に関する聖書の言葉と医学的事実

2020年02月19日 | 日記
聖書は本当に輸血を禁じているのか考えてみました。
用いている聖書は旧版の新世界訳聖書です。
最新の聖書はあまりにも意訳が多く好きになれませんでした。

まず創世記9:2~6を見てみましょう。
 【2 そして,あなた方に対する恐れ,またあなた方に対するおののきは,地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物,地面を動くあらゆるもの,また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それらは今あなた方の手に与えられる。
3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。】
  ここまで、上記の記述は人間が食べてよいものについてかかれています。もちろん動物の肉を食べてよいわけです。

【4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。】
  動物の肉は食べてよいが、血が残った肉は食べてはならない。と言っているだけで血を食べるとか飲むという表現ではありません。つまり、肉を食べる場合はきちんと血抜きをして食べるように命令されているだけです。

5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。】
  5-6節では血は命であり、それを奪った(血を流した)者は、命をの返済を求めるとあります。つまり、人を殺した場合は、命をもって償わなければならないと述べています。血は命と同等であり、人の命は神の創造の賜物ですから、命は神に依存するものとなります。
4節、5節この血に関する規定は、二つの規定として分けることができます。
1.動物の肉を食べる場合は、必ず血抜きする事
2.人の血は命であり、その命を奪う行為は神に命を返さなければならない。
ここで伝えたい事は
1.動物の正しい肉の食べ方
2.人は神の像に造られたので、神から見ても貴重で特別な存在。その血も命と同等で貴重なものである。

使徒15:20
 20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたもの血を避けるよう彼らに書き送ることです
使徒15:29
 すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。
  上記の2つの聖句の背景は、エルサレム会議の結論として伝えられた言葉です。当時の文化的背景で『絞め殺されたものはどんな状況を念頭に置いて避けるように書かれているのか?
  まず、血そのものは犠牲の動物から注ぎだされた血と、食肉用として血抜きされた血を示しています。いずれの場合にも避けるべきものと理解出来ます。絞め殺されたものは十分に血抜きされなかった肉を示しています。血は避けるべきもので食べてはならないものでした。


レビ17:10-16 
 「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。11 の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである。12 それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない」。13 「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。14 あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。
  モーセの律法は、犠牲の血とイエスの流された血には関連があるとされていて神聖なものとして扱わなければなりませんでした。そう言う意味で、血を食べる行為は神聖さをないがしろにする行為として厳重な処罰が与えられていたと理解できるでしょう。
  また、当時のイスラエル人以外の文化圏の中には血を使った料理や血抜きされない肉があったようなので、そのような食肉を念頭に置いて血を食べないように注意喚起されていた一面があったのかもしれません。

15 [すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。16 しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。

  この聖句も血抜きしてない肉は食べないように規定されていることを思い起させるものとして書かれたと思います。
また、現代の医学や生物学では、死んだ動物、または人間の体温が35度を下回ると血液中の細菌増殖が急激に増えることが分かっているようですから、動物の血抜きしてない肉は血抜きした肉に比べて腐敗が早く進むので食中毒になる可能性が高くなることを考えると、適切な肉の保存ができなかった古代では衛生面を考慮して血を避けなければならない理由になっていたのかも知れません。

  以上の事から、聖書にある『血を食べない。』、『血を避ける。』は直接的に輸血に関係するかどうかは解釈の仕方によると言えます。聖書の文脈や時代背景からすれば当時は輸血というものは存在していなかったのですが、血は神聖なもので、血を体内に取り入れる行為(輸血を含む)は神の命令に背く重大な罪だと拡大解釈することは出来ます。そうです、解釈の仕方によって輸血拒否に繋がることになりました。
  しかし、血を食べる目的は食物として栄養分を取り入れるのが主になりすが、輸血は大量の出血により生命維持機能が低下したため血液の持っている本来の機能を回復させて命を維持向上させるためのものとなるので目的からすればまったく違うものです。目的が全く違うものを同等に扱うのは乱暴な論議ではないかと思います。神の最大の特質は『愛』です。その愛の神が人の命を左右するかもしれない医療処置を非とするのでしょうか?
  しかもエホバの証人の組織ルールでは輸血をした者は「排斥」と呼ばれる処置により裁かれ追放され一切の関係を断ち切られます。その理由は使徒25:20淫行と同列に血を避ける事が書かれているため重大な罪と言われているからです。ですが、そこには血抜きされていない肉も同列に書かれています。しかし血抜きされていない肉に対してレビ記の17:15には汚れを清めれるだけで許されますと書かれています。同じ節に記されているからと言ってもそれぞれの事柄を同列に扱うのは正しいことではありません。

【組織の輸血に対する見解について】
  最新の輸血は血液を生成して成分輸血するのが主流です。エホバの証人の組織が提示するその成分は、赤血球、白血球、血漿、血小板の4つが上げられています。この4つの成分に関しては血液と同じであると見なし輸血はしないとしています。血液分画と呼ばれる免疫グロブリンやアルブミンなどは個人の判断に任せるとしています。あとは血液由来の血液製剤なども個人の判断に任せられています。血清なども血液由来の薬として存在します。ある人はこれら全てを受け入れないと決定する人もいます。こうした決定をした人は病気になったときにどんな治療ができるのだろうか? そのように導いている組織は個人の自由な選択に基づいていると言って何の責任もとらない事でしょう。医学的知識のない人々が組織の誤った判断によって誤導されているのは大きな問題です。
  また、輸血を拒否する血液の成分を赤血球、白血球、血漿、血小板の4つとして明示していますが、そもそも血に関する聖書の規定は全血(血液そのもの)ですが、何故わざわざ血液成分、分画、などどこまかな分類をしなければならないのでしょうか、どんな聖書的な根拠に基づくものなか理解不能です。聖書に書かれている血とは、血そのものであって、分解された血の成分はもはや本来ある血の機能を持たない物となっていることは明確です。
  さらに、血を食べる事と輸血(血液成分を含む輸血)は同じなので輸血は拒否するという立場を示している組織はある大きな矛盾があることに気づいていません。(もしかすると気づいていて、公にしていない可能性もあります。)
一つ目は、母体と胎児を繋げている胎盤は、白血球、赤血球を通過していると言う研究結果が報告されているという事実があります。
※参考資料:赤血球の胎盤通過に関する研究より
二つ目は乳児が飲む母乳には、白血球が含まれていることが知られています。
参考サイト

これらの事実から、胎児または乳児は、組織が拒否するように規定している輸血と同じ成分を取り入れていることになり、組織は神が創造された人体の仕組みをどのように輸血と違うことを弁明するのでしょうか?
このような事実からして輸血を拒否する理由がどこにあるのでしょうか?
本来、聖書の原則に従うことが重要であるはずが、原則から外れた指示を出す組織は、一世紀当時の宗教指導者と同じ道を歩んでいるように感じます。牧されている羊達は苦しんでいるのです。

組織の調整

2020年02月18日 | 日記
 まだ組織が小さい頃は、聖書の真理を探し求めて新たな真理を見つけては漸進的に変化してきたですが、組織が巨大になって行くと変化に適応するために情報統制をしなければならなくなります。
 ここ数十年の間に聖書の理解に対する「新しい真理の光や組織の進展」と称して調整が加えられてきました。「この世代」、「年代計算」、「群れの書籍研究廃止」、「輸血拒否」、「ダニエルの像」、「羊と山羊」、「雑誌の簡素化と発行回数減」、「新しい日本語聖書翻訳」、「神権宣教学校の廃止」、「一日大会の名称廃止」、「紙媒体から電子媒体へ」など、まだまだ細かい事を上げていったら沢山あります。
こうしたいくつかの調整には信仰の土台ともなる非常に重要な理解の調整も含まれています。私たちは情報統制によって組織が提供する情報をそのまま受け止めるように促されてきました。組織以外の情報は背教者の情報としてシャットアウトしてきたのです。しかし、組織は間違いをおかす事を認めているのですから、その情報の真偽を自分自身で組織以外の情報を調査して正しいのか、間違いなのか、の判断をして納得できるものにする必要があります。
「理解できない事はいずれ明らかにされる。」、と言う言葉に惑わされてはなりません。
ものみの塔の研究は一見聖書を深く黙想しているように思っているかもしれませんが、実際には質問の答えを書かれている文章から探しているのが大半を占めています。組織が期待する答えを見つけられるよう誘導されているとさえ感じます。質問に対する疑問や、記事の内容に対する疑問などを述べる人は誰もいません。ある意味、思考が停止してしまい組織が提供する記事を肯定する習慣が身についているのです。これが組織絶対主義に陥っている要因の一つだと思います。
是非ご自身の目で見て、考えて、思考を巡らせて、正しい答えを導かれることをお勧めいたします。

忠実で思慮深い奴隷

2020年02月15日 | 日記
『主人が,召し使いたちに適切な時に食物を与えるため,彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。』 ,マタイ 24章46,47節
ものみの塔 2013年7月15日では、忠実で思慮深い奴隷の理解が改訂されました。
要点として二点
●いつ任命されたのか?
結論:1919年,イエスは有能な油そそがれた兄弟たちを選んで,忠実で思慮深い奴隷とした。
【個人的な見解】
1919年という年は1914年にイエスの臨在があったという土台があっての話ですが、
この1914年が確かにBC607年にエルサレムが陥落しイスラエル人がバビロンへ捕囚された年であるというのが前提となっています。
しかし、1914年の根拠には誤りがあると私は理解しました。
下記を参照ください。
「第一部 ものみの塔2011年10月号」
https://www.jwstudy.com/ja/bc607_1914/special1_wt2011_10/ 
「第二部 ものみの塔2011年11月号」
https://www.jwstudy.com/ja/bc607_1914/special2_wt2011_11/ 

以上のことから、忠実で思慮深い奴隷の任命に関しての記事の信ぴょう性は無いと言わざるを得ません。また、1914年以降も新たな統治体の任命があり、誰が任命の権限を行使したのか、聖書的根拠が示されていません。

●いつイエスと同じ権限があたえられる任命があるのか?
結論:天的な報いを与えられる時にこの任命を受ける。つまり、イエスが来るとされている大患難の時である。
【個人的な見解】
これに関しては、マタイ 24章46,47節と矛盾はなく大患難の時にあてはめても良いと思いました。

この記事で以前の理解と変更されたのは
一世紀当時の使徒たちは忠実で思慮深い奴隷として任命される必要がなかった。つまり忠実で思慮深い奴隷とは言えないということでした。
忠実で思慮深い奴隷がいつ任命されるにしても、問題なのは誰にも任命された事実が客観的に識別する方法が無いことです。ですから、その部分に関しては当事者以外の人々は信仰によって信じるしかないのです。組織が神の経路であることを確信するためには、個々の信者が自分自身で提供される記事の是非を真剣に調査する必要を認識することではないでしょうか。



信仰とは

2020年02月09日 | 日記

聖書には信仰の定義があります。

「信仰とは望んでいる事柄が実現するという確信」

自分は神の存在は確信しているし、自然界に見られる秩序からその存在が偶然によるものではなく創造者がいることを示していると思う。いわゆるインテリジェントデザインを信じています。でも、何故自分は神を身近に感じられないのだろうと思っている。実際、信仰のある人は神を身近に感じていると思けど自分はそう感じていない。聖書に書かれている歴史、奇跡、予言を読んで理解出来るけど、感動や現実性というものを感じられない。

だから、理解はしていても実感出来ないのは心の欠陥があるのではないかとさえ思う事があります。でも、決して自分を偽ってきたわけではなく、自分の信仰と真摯に向き合ってきたつもりです。ただ、心おだやかで、平安に生活したいと望んでいるのに、それ以上の事柄を強いられていると感じているからなのかもしれないです。だから、信仰とは自分が望んでいる事柄ではなく神が望んでいる事柄が実現するのを確信することなんですね。自分の事は後回しです。忍耐と辛抱と自制の日々を過ごしなさいと.......

「見えないものが実在するという証拠」

目に見えない物で存在している物は沢山あります。私たちはそれらの存在を知識で理解し認識して活用しています。

同様に、見えない神が実在する証拠は無限にあるのです。


神を崇拝、組織崇拝

2020年02月07日 | 日記
JWの組織には忠実で思慮深い奴隷がいます。
その奴隷を通して霊的食物が供給されます。
忠実で思慮深い奴隷を任命するのは、イエスです。
実際、それが本当だったとしても、確かめる術はないです。
失礼な言い方かもしれないが、忠実で思慮深い奴隷と
言ったもの勝ちとなります。
また、忠実で思慮深い奴隷を中心とする組織を構成する
のは不完全な人間であるので、間違いを犯すこともあると
組織は認めています。
そのような組織だったとしても、神は忠実で思慮深い奴隷を
通して霊的な食物を供給しています。
これは神と人間の間に不完全な組織が仲介していると言う構図
が出来上がることになります。つまり間違った指示が出たとしても
末端では神の指示と認識されることになるわけです。
当然、組織内部の役割を任命するのは人間が行い、誤った人物が
任命されることになり、その人物が会衆の整員を正しく導ける
保証はないので、会衆の誰かが不当に裁かれ苦しむことになります。
『指導の任に当たる兄弟たちに従順と協力を示す 』と言う指示が
反論を許さない不自由な組織にしているのです。さらに、
長老は、巡回監督に逆らえず、巡回監督は支部に逆らえない
組織構造が出来上がっているのです。
JWは神=組織
組織絶対主義つまり組織崇拝となっています。

実際、神を崇拝する為の組織(神>組織)は存在しないのでは
ないでしょうか。
不完全な人間は、まず目に見える物(組織)に目を向けないと
歩んで行けないのでしょうねえ。