少し話はズレるが、私には現実世界にも推しがいる。
ここで言う『現実世界の推し』とは、頑張れば手の届くところにいて、直接話すこともできるが、恐れ多くてできない人物のことである。
彼と出会ったのは、高校3年の春。
授業で隣の席だった、ひとつ年下の男子だった。
彼の魅力に気づいていたのは、私と、彼の元カノくらいで、彼を推しだと言っても、皆揃って首を傾げていた。
でも私は、彼の気怠げな雰囲気が好きだった。
彼は授業中、他の科目の課題をやったり、スマホを触ったり、時々寝たり、かなり自由に過ごしていたように思う。私は、そんな彼の、アンニュイな雰囲気とか、世界に退屈していそうな様子に心惹かれていた。
いつの間にか、彼の行動を横目で見ることが、その授業の醍醐味となっていた。
それから卒業までの約1年間、私は彼を“推し”として、割としっかり『推し活』をしていた。
例えば、イベント事の際には一緒に写真を撮ってもらい、廊下で見かければ遠くから見つめ、部活の大会前には励ましのメッセージを送り、バレンタインにはチョコレートを贈った。
その分、彼からの“ファンサービス”もあって、一度終わったメッセージに再度返信してきたり、授業終わりに話しかけてきたり、廊下で挨拶してきたりなど、そのたび私を動揺させた。
卒業の時、私は彼との甘酸っぱい日々が終わってしまうことに寂しさを感じつつ、しかし彼個人の日常の邪魔はしたくないと言う思いから、永遠にバイバイだ、と勝手に考えていた。
それから、4年である。
私たちは「推し」と「ファン」として、お互いにポジションを確立しながら繋がっていた。
決意の通り、卒業と同時に連絡を絶った私に、歩み寄ってきたのは彼の方だった。でもやはり、あの当時のような甘酸っぱくむず痒いような日々は戻って来なかった。
しかし、彼はもう一歩私に歩み寄ってきた。
「二人でご飯に行きましょう」
私は久々の連絡に喜ぶ間も無く、体中を強い動揺に支配された。そして2秒後に頭に浮かんだのは、「断ろう」という思いだった。
だって、そうだろう。私にとって彼は「推し」だ。近づきすぎてはいけないのだ。
「いや、行けよ」
私に冷静なツッコミを浴びせたのは、高校時代の友人、Aだ。Aの言い分としては、彼氏もいないのに断る理由がない、もったいない、とのことであった。
私は、そういうことではない、と言おうとしたのに、声にならなかった。Aの言葉に、私の中で「断ろう」というメーターが、だんだん下がってきていたのである。
気がつくと私は、彼に空いている日をピックアップして送っていた。彼は、帰省していて暇だと言って、日程はすぐに決まった。私は不安に駆られた。
当日、黒マスクをして現れた彼は、あの頃より何倍もかっこよくなっていた。嗚呼、どうしたら良いのだ…
世間で“一緒に食べたらもうただの男女ではない”と何故かずっと言われている「焼肉」を二人でつついた。彼は、私の話に相槌を打ったり、時々笑ったりしながら、焼肉を頬張った。笑う時に拳を口元に当てるのがセクシーで、でも同時に目尻が下がった笑顔がとても可愛らしく、否応なしに見惚れた。
私がクダラナイ話をしている最中、彼はウンウンと言いながら私の目をまっすぐ見た。私も見返す。その目に引き込まれそうになって、私は少しも動けない。
高校時代の彼を思い出す。やはり彼は、ダイヤの原石だったのだ。自覚がないので磨き方も知らずに持ち腐れていた宝が、今輝きを放ちながらここにいる。あの頃の私は、こんな風に彼と見つめ合うことなど、果たしてできただろうか?
『ここから月まで歩いていくのと同じようなもんだと思っていた』のに、『今は銀河の果てまで射程距離15cm』だなんて!
私は感動していた。
しかし、私は気づいてしまった。彼は、私のことを、同性の先輩と同じ感覚で見ているのではないか?
彼はいつの間にか、恋人の話をし始めた。同じ大学に恋人がいるけれど、メンヘラで困っている、などといった話である。私は心の中で叫んだ。
彼女いるんかーーーーい‼️‼️
私は、世界に反例を投じた。
焼肉を食べても、男女は特に結ばれない。
私と彼は、そのまま夜10時前に解散した。彼は、また誘います、と罪なことを言い放ちながら、手を振った。私は最後まで彼を想った。手の振り方が、かわいいなあ、なんて。
ところで、彼の話によると、付き合った彼女は皆メンヘラなのだと言う。
「メンヘラを引き当てちゃうの?」
と聞くと、
「友達には、俺がメンヘラにしてるって言われるんすよね」
と苦笑した。
深夜、ベッドに潜って、その会話を反芻した。
いや、当たり前じゃね…?
彼の、生まれ持ったアンニュイな雰囲気は、唯一無二だ。でも、あの気怠げな目は、恋人以外の女性のことも同じように見つめる。その一人が私で、現に、見つめられた私は彼の世界に引き込まれてうっとりとしていた。
そんな事実を知ったら、恋人は、彼を自分だけのものにしたくて仕方がなくなるだろうと思う。
彼はまだ、知らない。
自分の何が、人を惹きつけているのか。自分の何が、恋人や自分を苦しめているのか。
自分の何が、私を苦しめているのか。
彼は私の『推し』である。
中々会えないし、話すことも頻繁にはできない。
けれど、その距離は“ここから月まで”よりずっと近くなった。まあ、“射程距離15センチ”とまではいかないけれど。
彼と私は『推し』と『ファン』であり、『友達』だ。
と、恋人になりたい私は、自らに言い聞かせるのであった。
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