心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

盤珪永琢の不生禅

2020-04-23 16:41:07 | 日記
直指人心という言葉が示すように、禅僧たちの修行は概して方便少なく、或いは言葉を介さずに、直に仏性(本当の自分)を悟るという遣り方をとっているので、悟った後の言動にも、無心とか無の境地と云われるように、簡明で言葉の少ない姿を印象付けるものがあります。


この故にか、以前「禅宗は仏教だろうか?」という問い掛けもありましたが、仏教と云えば釈迦の教え。釈迦の教えと云えば四聖諦や十二縁起など、理知的な説法を用いた修行法。その一方、禅の本質は不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と云われていますから、これを仏教と云うなら、「釈迦の教えには含まれていない仏教」ということになるのでしょうかね。


ところで今回は盤珪永琢という禅僧が唱えた「不生禅」のことだけど、この「不生」という言葉は、よく大乗経典で見掛ける「本不生」という語に代表された、「不生不滅・不断不常・不一不異・不去不来」の八不の意味を含んでいるものと認識されます。


だから「不生禅」ということは、「仏性(本当の自己)というものは不生不滅である」ということになり、大乗経典が説く「法身」に通じる言葉遣いになっていることも分かってきます。


その盤珪がこれを大悟したときの言葉が、「一切事は不生でととのうものを、今まで知らずに、さてさて無駄骨を折ったことかな」というものだったと。


また別にも簡明な言葉があって、それは「仏になろうとするよりも、仏でおるが造作なくして近道でござる」というもので、これもまた達磨が伝えた禅の精神「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を具えていて、見事です。