拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。
今回は「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀仏の来迎があるのですか」という問いについての答え方を考えてみましょう。
問うている人は、当然その答えを知らないのですが、回答者には正解を知っている者もいるかも知れません。もし正解を知らないのに答えた場合は、間違った答えを言ったことになります。
そこで、質問者はなぜこのような問いを発したのかと、考察の対象を転換してみます。
経典には「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と云う。其の土に阿弥陀仏居まして、現に説法したまえり」とあり、更に「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心乱れずば、その人いのち終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と倶に、現に其の前に在らします」とある。
ということは、質問者は是を疑っていることになる。勿論それも無理は無い。なぜと云って、「阿弥陀仏は質問者から十万億の仏土を過ぎた所の極楽世界に居るのだから、数メートル先までしか届きそうもない念仏を、遠く離れた阿弥陀仏が聞き取ってくれるとも思えない」と。また更には「念仏者は世界に私一人だけではない。大勢の念仏者の所へ、一時に行くことなど、どうしてできるだろうか」とも。
もしここで或る回答者が、「阿弥陀仏は一人だけではなく、念仏している衆生の数だけ居るのだ」と答えたとしたらどうだろう。すると質問者は、「それなら阿弥陀仏は、私たち一人ひとりの身体の中にも居るということだよね」などと考え、念仏に懸ける願力を失うかもしれない。何故なら「自分が阿弥陀を宿しているのなら、それを失う心配もないのだから、念仏の要もないのではなかろうか」などという思いも生じるだろうからである。
なので、こういう回答は、或いは幾分かの正しさは含まれている可能性は捨てがたくても、決して信者の為になるものではないとも思えるので、こういう回答は極力避けるべきだと思われる。
それなら、一体どのように答えたらよいのだろうかということになるが、やはり「経典に説かれているままに、素直に信じていれば善いのではないですか」と、こう答えるのが最善かも知れません。経典の言葉というものは、それが事実と異なる説法であったとしても、信者の為には、最も有意義な構造に組み立てられた方便である場合が、実に度々見出されて、仏の慈悲の深さに感嘆させられるものだからである。
今回は「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀仏の来迎があるのですか」という問いについての答え方を考えてみましょう。
問うている人は、当然その答えを知らないのですが、回答者には正解を知っている者もいるかも知れません。もし正解を知らないのに答えた場合は、間違った答えを言ったことになります。
そこで、質問者はなぜこのような問いを発したのかと、考察の対象を転換してみます。
経典には「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と云う。其の土に阿弥陀仏居まして、現に説法したまえり」とあり、更に「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心乱れずば、その人いのち終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と倶に、現に其の前に在らします」とある。
ということは、質問者は是を疑っていることになる。勿論それも無理は無い。なぜと云って、「阿弥陀仏は質問者から十万億の仏土を過ぎた所の極楽世界に居るのだから、数メートル先までしか届きそうもない念仏を、遠く離れた阿弥陀仏が聞き取ってくれるとも思えない」と。また更には「念仏者は世界に私一人だけではない。大勢の念仏者の所へ、一時に行くことなど、どうしてできるだろうか」とも。
もしここで或る回答者が、「阿弥陀仏は一人だけではなく、念仏している衆生の数だけ居るのだ」と答えたとしたらどうだろう。すると質問者は、「それなら阿弥陀仏は、私たち一人ひとりの身体の中にも居るということだよね」などと考え、念仏に懸ける願力を失うかもしれない。何故なら「自分が阿弥陀を宿しているのなら、それを失う心配もないのだから、念仏の要もないのではなかろうか」などという思いも生じるだろうからである。
なので、こういう回答は、或いは幾分かの正しさは含まれている可能性は捨てがたくても、決して信者の為になるものではないとも思えるので、こういう回答は極力避けるべきだと思われる。
それなら、一体どのように答えたらよいのだろうかということになるが、やはり「経典に説かれているままに、素直に信じていれば善いのではないですか」と、こう答えるのが最善かも知れません。経典の言葉というものは、それが事実と異なる説法であったとしても、信者の為には、最も有意義な構造に組み立てられた方便である場合が、実に度々見出されて、仏の慈悲の深さに感嘆させられるものだからである。
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