前回は「盤珪の不生禅」に関して得た情報を語ったけれど、斯く云う「不生」と、禅宗の開祖菩提達磨が提唱した「無心」とは、どこが異なるのかということを検証してみたので、その概略を述べてみたいと思います。
菩提達磨の「無心論」に曰く、「夫れ理は無言なり、言を仮りて理を顕すを要す。大道は無相なり、麁を接する為に形をあらわす」とある。この言葉、つまり無心の解説だけで、既に察するべきであるが、云う所の「無心」は、「心在らず」という意味ではない。もし「心在らず」であれば、「大道は無相なり」とは説けないし、「麁を接する為に形をあらわす」とも説けない。従ってこの無心論は、そのまま「心不生論」と云うべき内容を呈するだろうという予測もつく。
故に曰く「心は内に在るか、外に在るか、また中間に在るか。斯くの如く三所に求むるに、ついに不可得なり。当に知るべし、即ちこれ無心なることを」と。
斯くして証されし道理により、達磨の「無心論」は、その義によって「心不生論」に同ずと知られます。
この結論を以て、「盤珪の不生禅」を再評価すれば、禅の境地として達磨の無心論を超えたのではなく、「無心」という称呼を、より合法的な言葉である「不生」に置き替えたものだと分かるだろう。従って、結論としては、盤珪の不生禅も菩提達磨の無心論から察することのできる禅境とは、共に「如来禅」に組み込まれるものであることも、当然ということになるでしょう。
菩提達磨の「無心論」に曰く、「夫れ理は無言なり、言を仮りて理を顕すを要す。大道は無相なり、麁を接する為に形をあらわす」とある。この言葉、つまり無心の解説だけで、既に察するべきであるが、云う所の「無心」は、「心在らず」という意味ではない。もし「心在らず」であれば、「大道は無相なり」とは説けないし、「麁を接する為に形をあらわす」とも説けない。従ってこの無心論は、そのまま「心不生論」と云うべき内容を呈するだろうという予測もつく。
故に曰く「心は内に在るか、外に在るか、また中間に在るか。斯くの如く三所に求むるに、ついに不可得なり。当に知るべし、即ちこれ無心なることを」と。
斯くして証されし道理により、達磨の「無心論」は、その義によって「心不生論」に同ずと知られます。
この結論を以て、「盤珪の不生禅」を再評価すれば、禅の境地として達磨の無心論を超えたのではなく、「無心」という称呼を、より合法的な言葉である「不生」に置き替えたものだと分かるだろう。従って、結論としては、盤珪の不生禅も菩提達磨の無心論から察することのできる禅境とは、共に「如来禅」に組み込まれるものであることも、当然ということになるでしょう。
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