前日記の冒頭の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」は、釈尊の経説をほぼ復唱したようなものですが、「彼岸へ至るのは、そんなに難しいのか」と問われたならば、何と答えたらよいだろうか。
思うに多くの仏教学者は、膨大な読書量があり、知識の量もまた極めて広範囲に渉っているのではないかと思われている。勿論それは間違いではないだろう。しかし、彼岸へと解脱した心が堅持していなくてはならない知識はと問われたら、「何もない」と答えたくなるだろう。これもまた間違いではないからだ。
では、この「何もない」という言葉には、どういう経緯が含まれているのかと問われたなら、「無限に縁起する一切法との繋縛を断ち切っている」と答えるのが適切だろう。
細かいことを云えば、この他にも要点はあるけれど、ここまで語れば、悟りの心の大凡は伝わることと思われる。そうすると悟りの心の中身は「何もない」と云えるほどに超単純でありながら、悟りに至る道は、「一切法を解脱する」という膨大な中身を含んでいることが認識されるのですね。
この故に、釈尊の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」が、仏陀に至る道の険しさを、有りの儘に伝えるものだということも、納得できるのではないでしょうか。
思うに多くの仏教学者は、膨大な読書量があり、知識の量もまた極めて広範囲に渉っているのではないかと思われている。勿論それは間違いではないだろう。しかし、彼岸へと解脱した心が堅持していなくてはならない知識はと問われたら、「何もない」と答えたくなるだろう。これもまた間違いではないからだ。
では、この「何もない」という言葉には、どういう経緯が含まれているのかと問われたなら、「無限に縁起する一切法との繋縛を断ち切っている」と答えるのが適切だろう。
細かいことを云えば、この他にも要点はあるけれど、ここまで語れば、悟りの心の大凡は伝わることと思われる。そうすると悟りの心の中身は「何もない」と云えるほどに超単純でありながら、悟りに至る道は、「一切法を解脱する」という膨大な中身を含んでいることが認識されるのですね。
この故に、釈尊の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」が、仏陀に至る道の険しさを、有りの儘に伝えるものだということも、納得できるのではないでしょうか。
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