『....〈待つ〉というのは、時間を駆ることはしないが、しかしただたんに流れるままにまかせる
というのでもないような身がまえということになる。そう、ひとは向こうからやってくるのを
期して〈待つ〉。〈待つ〉ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。
否、いなければならない。〈待つ〉とは、その意味で、抱くことなのだ。
〈待つ〉ことはしかし、待っても待っても「応え」はなかったという記憶をたえず消去しつづ
けることでしか維持できない。待ちおおした、待ちつくしたという想いをたえず放棄すること
なしに〈待つ〉ことはできない。
...待つことの甲斐のなさ、それを忘れたところでひとははじめて待つことができる。〈待つ〉
ことにはだから、「忘却」が内包されていなければならない。〈待つ〉とは、その意味では、
消すことでもあるのだ。
抱きながら、消す。この振り幅が、じれったさということを〈待つ〉にもたらす。待ち遠し
い、待ちこがれる、待ちわびる、待ちかねる、待ちあぐねる、待ちくたびれる、待ち明かす、
待ちつくす・・・・と、このじれを表す言葉はくどくどしいほどある。
意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではど
うにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことな
くただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」
や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそ
れを手放すことなくいること、おそらくはそこに、〈待つ〉ということがなりたつ。』
というのでもないような身がまえということになる。そう、ひとは向こうからやってくるのを
期して〈待つ〉。〈待つ〉ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。
否、いなければならない。〈待つ〉とは、その意味で、抱くことなのだ。
〈待つ〉ことはしかし、待っても待っても「応え」はなかったという記憶をたえず消去しつづ
けることでしか維持できない。待ちおおした、待ちつくしたという想いをたえず放棄すること
なしに〈待つ〉ことはできない。
...待つことの甲斐のなさ、それを忘れたところでひとははじめて待つことができる。〈待つ〉
ことにはだから、「忘却」が内包されていなければならない。〈待つ〉とは、その意味では、
消すことでもあるのだ。
抱きながら、消す。この振り幅が、じれったさということを〈待つ〉にもたらす。待ち遠し
い、待ちこがれる、待ちわびる、待ちかねる、待ちあぐねる、待ちくたびれる、待ち明かす、
待ちつくす・・・・と、このじれを表す言葉はくどくどしいほどある。
意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではど
うにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことな
くただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」
や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそ
れを手放すことなくいること、おそらくはそこに、〈待つ〉ということがなりたつ。』