いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

第2節 神に祈り、神を崇拝することについて

2020-09-21 23:09:05 | 賛美の心

第2節 神に祈り、神を崇拝することについて

    425. (神の言葉の一篇より)

    祈りの実践について

    あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

    真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

    また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。私は本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。私はただ時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつも私の内で働き、絶えず私を照らし啓きますように。私にあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠が私たちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私たちの中であなたが栄光を受け、私たちからなるこの集団による証しをあなたが喜んでくださるように、私は自分の全存在をただあなたに捧げます。私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私の目標として追求することができるように、私たちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

    あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、私の心はあなたを真に愛することができません。私はあなたを愛したいのですが、私にはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心を動かしますように。私があなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、私の全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたが私をどのように試そうと、私は用意ができています。今私は自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、私の運命もあなたの手の中にあり、私の一生そのものもあなたの手の中にあります。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、私はあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

    真の祈りにどのように入っていくのか。

    祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

    祈りの重要性とは何か。

    祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

    祈りが達成するべき成果とは何か。

    人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

    祈りの最も基礎的な知識

    1)何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

    2)祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

    3)祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。あなたの祈りは神の現在の言葉に関するものでなければならず、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

    4)集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

    5)あらゆる人が取りなしの祈りを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

    個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのちの性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

    祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

    正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。

『言葉は肉において現れる』より

426. 神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信することが不可能であるように神が命じた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十七章」より引用

    427. 祈りはある種の儀式ではありません。それは人と神との真の交わりであり、そこには深い意義があります。人々の祈りから、人が直接神に仕えていることが分かります。もしあなたが祈りを儀式として捉えるなら、あなたが神にしっかり仕えていないのは確実です。あなたの祈りが熱意や誠実さを伴わないなら、神の観点からは、あなたは人として存在していないと言えます。そうであれば、どうしてあなたが聖霊の働きを受けられるでしょうか。結果として、あなたはしばらく働いたあと、疲れ果ててしまいます。今からは、祈りなしでは働くことはできません。働きをもたらすのは祈りであり、奉仕をもたらすのは祈りなのです。もしあなたが指導者であり神に仕える者でありながら、祈りに専念することも、真剣に祈ることもなかったならば、あなたの仕え方はいずれはあなたを躓かせます。……頻繁に神の前に出て神に祈ることができるならば、それはあなたが神を神として扱っていることを証明します。しばしば祈りを怠り、一人で物事を行ないがちであり、神に隠れてあれこれするならば、あなたは神に仕えておらず、自分の営みに携わっているに過ぎません。それでは断罪されないでしょうか。表向きは何かを妨害したようにも、神を冒涜したようにも見えませんが、あなたは単に自分のことをしているだけです。そうすることで、あなたは邪魔をしていないでしょうか。たとえ表向きはそう見えなくても、本質的には神に抵抗しているのです。

『キリストの言葉の記録』の「祈りの意義と実践」より引用

    428. 宗教儀式の祈りほど神が軽蔑するものはありません。神への祈りは、誠実であるときにのみ受け入れられます。言うべき誠実なことが何もないなら、黙っていることです。いつも偽りの言葉を語り神の前でむやみに誓いを立てて、神を欺こうとしたり、どんなに神を愛しているか、どんなに神に忠実でありたいかと語ったりしてはなりません。自分の願望を達成することができないなら、その決意と霊的背丈を持っていないのなら、いかなる状況下にあろうと、神の前でそのように祈ってはなりません。それは嘲りです。嘲りとは、誰かをからかったり軽くあしらったりすることです。そのような性質をもって神の前で祈るなら、それは控えめに言っても欺瞞です。そんなことを度々しているなら、最悪の場合、あなたの人格はまったく卑劣なものなのです。仮に神があなたを非難したとすれば、それは冒涜だと言われるでしょう。人々は神に対する畏敬の念を持っておらず、神を畏れる術も、愛し満足させる術も知りません。人が真理を明らかに理解していなくても、その性質が堕落していても、神は放っておくことでしょう。それでも彼らはそのような人格を神の前にさらし、未信者が他人を扱うように神を扱うのです。さらに、祈るときには厳かに神の前に跪き、甘い言葉で神を試みおだてて、祈り終えても自責の念にかられないだけでなく、自分の行為の深刻さを感じることもありません。そのような状態で、神が彼らと共にいるでしょうか。神の臨在をまったく得ていない人が、啓かれ照らされることがあるでしょうか。真理によって啓かれることができるでしょうか。(いいえ、できません。)では、そういう人は問題に陥ることになります。あなたはそのような祈りを何度もしていますか? よくそのような祈りをしますか? 外的世界で長く過ごしすぎると、人は社会の悪臭を放つようになり、下等な本性が増大し、サタン的な毒と生き方に満たされてしまいます。その口から出てくるのは偽りと欺瞞の言葉ばかりで、彼らは考えもせずに語るか、そうでなければ自分自身の動機や目的しか含まない言葉ばかりを語り、正しい動機を持つことはまずありません。これは深刻な問題です。このようなサタン的な考え方や生き方を神の前に持ち出したら、神の性質に背くことになるのではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「自分を知って初めて真理を追い求めることができる」より引用

    429. 神の言葉を享受しているとき、あなたの霊が感動し、自分は神を愛さないわけにはいかない、あるいは自分の中に大きな力があり、自分に捨てられないものは何もないと感じることがある。このように感じるならば、あなたは神の霊によって感動し、心が神へと完全に立ち返ったのである。そしてあなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたによって予定され、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、自分が神の民の一人であることを光栄に感じさせます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げてあなたの御旨を行ない、私のすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」。このように祈るとき、あなたの心には神への果てしない愛と真の服従がある。あなたはこのような経験をしたことがあるか。神の霊によって頻繁に感動すると、人は祈りの中で特に進んで自分を神に捧げようとする。「神よ、私はあなたの栄光の日を見ること、あなたのために生きることを望みます。あなたのために生きること以上に価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという願望は少しもありません。今日あなたのために生きられるようにしてくださることで、あなたは私を引き上げてくださいます」。このように祈るとき、自分は神に心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ないまま死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのような祈りを唱えると、あなたの中には尽きせぬ力があり、あなたはその力がどこから来るのかわからない。あなたの心の中には無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があるという感覚をもつ。神によって感動するとこのようになる。こうした経験をした人はみな神によって感動したのである。神によって頻繁に感動する人には、いのちに変化が起こる。彼らは決意することができ、自ら進んで完全に神を得ようとする。心の中で神への愛がさらに強くなり、心は完全に神へと立ち返り、家族、世間、複雑な人間関係、そして自分の未来を顧みることがなくなり、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊によって感動した人はみな真理を追い求める人であり、神によって完全にされる希望をもつ人である。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より引用

    430. 今、ペテロがどんな道を歩んだのか、あなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きを確信するようになり、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを切望したりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを体験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めることはなかった。彼は現世の利益、幸福、名声、富などを求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。それは神の愛に報い、彼にとって貴重この上ないものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば次のような言葉で祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを尊敬し、お慕いし、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした」。彼は常に決意するために祈り、絶えずイエスの言葉によって励まされ、それらの言葉をやる気へと変えたのである。しばらくの経験の後、イエスは、ペテロがイエスをもっと慕うように促して、あえてペテロを試した。ペテロは言った。「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛にお応えすることができません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私を必要とされるのでしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつあなたの御顔をもう一度拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。またこれ以上反抗することも望んではいません。私が持っている全ての物をできるだけ早くあなたに捧げる用意ができています。そして、あなたをこれ以上悲しませたくありません」。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、彼にはまだ分からなかった。ペテロが試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ、言った。「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとするわたしの働きの結晶として、あなたが一つの実となり、わたしの喜びとなるためである。あなたはまことにわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれども、わたしを生かし出したのか。わたしのために何をしたのか。あなたは自分がわたしの愛にふさわしくないことを認めたが、わたしのために何をしたのか」。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことを悟り、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わなくなり、その後の彼の祈りはさらに素晴らしくなった。ペテロはこう言って祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の誰よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、また私に託してくださったことなど、私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きでもって、私は最善を尽くしました。あなたは私ができることを御存知で、私が果たせる役割はもっとご存知です。私はあなたの指揮に服従することを望み、持っている全てのものをあなたに捧げます。私があなたにできることは、あなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗しましたが、あなたはこのような過ちを犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。私はあなたに私の全生涯を捧げたいのです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行なうことを望むだけです。私はあなたの苦い杯から飲み、あなたの命じられるとおりにします」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より引用

    431. わたしは何度もペテロに試練を与え、そのため、もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることはなく、それまでと同じように、わたしを実際的なやり方で愛するために自分の信念を貫き続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後にはサタンの手中に投げ込む、と言った。そうした試練の只中、それは肉への試練ではなく、言葉による試練であったのだが、ペテロはそれでもわたしに祈った。「おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが私に憐れみをお示しになりたいとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は困難に苦しんでも、私の霊は慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知った後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、私に神のお姿を見させることを真に望んでおられないということではないでしょう。まことに、私は神の裁きを受けるのにふさわしくないということではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか」。このような試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正確に把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となった。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、わたしがなぜペテロのことをこれほど詳しく語っているのか、あなたがたはよくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動原則としなければならない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第六章」より引用

    432. ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、私はあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。……晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もし私の余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたが私のために用意された時が来ました。私はあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、私にとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もし私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、私はあなたを愛するでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されます。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が私には一層明らかになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛することができ、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。私の人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、私はまだ満足していません。なぜなら、私はあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。私は人生において私のすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、私があなたに報いなかった全ての愛を償うために、私にはこの瞬間しかありません」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用


聖書物語ーイエスの逮捕

2020-09-20 08:16:22 | 賛美の心

聖書物語ーイエスの逮捕

イエスの逮捕

    そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

大祭司はイエスを尋問する
    さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。

イエスがピラトに渡された
    夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

イエスは死刑に処せられた

    さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。 ときに、バラバという評判の囚人がいた。それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

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主イエス様は終わりの日にどのように再臨されるのか

 


讃美歌-「神の真の愛」主を賛美する ハレルヤ

2020-09-19 22:13:29 | 賛美の心

キリスト教讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」

神の愛は私の心を溶かした

あなたの呼びかけを聞いて
私は御前に帰る
御言葉は私を照らし
自らの堕落を悟る


私はあなたに冷たく
あなたを傷つけ 悲しませた
頑なに反抗して あなたを独りにした
人間への愛は何故 痛みで報われるのか?
自分の頑なさと ひどい堕落を私は憎む
私は あなたに会う価値もなく
その愛にも価しない
私はこんなにも 反抗的な人間なのだ
どのようにして私は あなたの心を知り
どのようにして私は あなたの愛を悟れようか?
あなたの愛は真実で
私は多くの借りがある


あなたは誰のために
肉となり恥を忍ばれたのか?
人間の拒絶に苦しみ 惨めな生活だったが
あなたは一度も 不平を言われなかった
あなたは天から来て
頭を休める場所さえない
世の楽しみを 味わったこともなく
ただ人々を救い
心を得るために静かに真理を表わす
私が罰せられる時 あなたはそばにいて下さり
精錬される時 あなたの心は痛む
私が悲しい時 あなたはそこにおられる
私に欠けるところを あなたは埋めて下さり
愛に直面する時 心は引き裂かれる
あなたの愛は心を溶かし
私の心は変わった


どうして待ち続け 遅らせることが出来ようか?
御心を思いやり 愛に報い
精錬と 苦痛に耐え
満足させるために証ししよう!
あなたを愛し生きるため 私の心は覚まされた
真理を追求し 御言葉によって生きよう
あなたを愛し ついて行き
永久に証ししよう!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


真の悔い改めとは何か

2020-09-18 20:33:01 | 賛美の心

真の悔い改めとは何か

    主イエスは言われました。悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)では、真の悔い改めとは何か。多くの人は主に祈って罪を認め、主の御言葉によって寛容し、へりくだり、忍耐し、苦しみを受けて十字架を背負い、多く福音を伝え、良い行いがたくさんあれば、これは真の悔い改めだと思っています。しかし、事実は本当にこのようなものでしょうか。


良い行いは真の悔い改めを表すのか
    主に従ってから、確かに私たちの行いの変化は少しあり、へりくだり、寛容し、忍耐し、多くを放棄し、自らを費やし、福音を伝えて主を証しすることができました。しかし、否認できないのは、私たちは常に嘘をつき、欺き、金銭を追い求め、邪悪を崇め、傲慢で横柄、利己的で貪欲なサタン的性質の中に生きています。神様が私たちの家族を平安で、すべての事において順調であるように祝福してくださるとき、私たちの心の中には神様に感謝し、賛美します。仕事の不調、結婚の失敗、生活の貧しさに臨むとき、私たちは神様に不平を言い、祈った後に神様の祝福を感じない時に、私たちは神様を否認し、神様に背くさえできます。主が私たちに自分を愛するように他人を愛し、人を許し、忍耐するように求められているが、自分の大きな利益に及ばない時に、しぶしぶ実行できますが、自分の大きな利益を失うことに直面する時に、私たちは自分を制御できずに、利益を奪い、他人を傷つけ、外側の良い行いさえ実行できません。自分は主を信じる前に、家族との関係がとても悪くて、よく怒り出し、 家族と喧嘩していました。主を信じた後、私は主が私たちに人を愛するように求められていることを知ってから、主の御言葉によって、寛容し、忍耐し、それから聖書を読み、祈り、集会し、主のために働き始めます。外側から見れば、主を信じる前と異なりますが、実生活の中で、あらゆることにおいて、家族が自分の言うことを聞くように求め、家族が聞かない時に、私は怒ってしまいます。その後、私は自分の以前の行いは皆抑制していて、本当に主の御言葉を実行できたのではないと気づきました。私たちは罪を犯した後に、主の御前で罪を告白し、悔い改めるが、後にはまた罪を犯してしまうのです。もし良い行いがあることで真の悔い改めを表すことができるなら、私たちは再び罪の中で生きることはないと証明できるが、なぜ私たちはまた常に罪を犯して神様に抵抗しているのですか。なぜまた昼間に罪を犯し、夜になると告白する循環の生活を送っているのですか。ここから分かったのは、規則に従い、外側で少しの良い行いがあり、行動では少しの変化があるのは、真の悔い改めを表すことではありません。パリサイ人、律法学者、祭司のように、彼らの外見は敬虔で、律法を暗記し、年じゅう聖書を読み、説教し、福音を伝え、常に神様に捧げものを捧げ、自分の過ちを認め、私たちから見れば、彼らは最も神様に称賛されると思っているが、なぜ彼らは切望していたメシアを生きたままで十字架につけたのですか。これは何を証明していますか。外側の良い行いがあって、外側の規則だけに従うのは、罪を犯さず、神様に抵抗しないことを表すことがではなく、私たちは真摯に悔い改めていなければ、また罪を犯すことを証明しています。主イエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。」(ヨハネによる福音書8:34−35)主の御言葉に基づき、私たちは自分の罪を認め、外側では少しの行いがあるだけで、真の悔い改めの効果に達していないので、天国に入ることができません。

真の悔い改めとは何か
    「ヨハネの黙示録」22章14節にこう書かれています。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」また「マタイによる福音書」3章8節にこう書かれています。「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」「レビ記」11章45節にこう書かれています。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」神様は聖なる者であり、人の罪を憎み、そのため、私たちは真の悔い改めの基準は、罪深い性質が変化し、再び罪を犯さず、悪を行って神様に抵抗することもなく、つまり私たちの内の利己的、欺瞞的、高慢的な堕落した性質が清められ変化し、生まれ変わるに達することであるのを確定できます。どんな環境に臨んでも、私たちは神様に従順になり、もはや罪を犯して神様に抵抗せず、いくらサタンにどう誘惑されても、私たちはサタンの策略を見破って証しに立ち、悔い改める態度と現れがあり、これこそ本当に悔い改める人であり、天国に入る資格があります。

    聖書に記載されたダビデのように、最初彼はウリヤの妻をわがものとして、淫乱の罪を犯してしまい、神様の懲罰が彼に臨み、ダビデは自分の行いが神様に背いたことを知り、神様に祈り自分の罪を認め、自ら進んで神様の懲罰を受け入れ、従順になりました。ダビデは自分の行いを後悔し、この事を思い出す度に苦しくて涙を流し、まさに「詩篇」6章6節に「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」と記載されている通り、ダビデはどれほど後悔したことでしょうか。ダビデが晩年の時、寒く感じて、大臣たちは美しい少女を彼の懐に送っても、彼は触らなく、これはダビデの真の悔い改めの現れです。もし私たちは自分が悔い改めたと言った後の行いが、古い自我の様で、依然として罪を犯しては告白するなら、悔い改めとは言えません。なぜなら、悔い改めは人が自分のサタンに堕落させられた真相に対して、本当の認識と憎しみを持ち、本当の変化に達し、もはや神様に抵抗せず、神様に逆らわないことを含み、これこそ真の悔い改めです。

どのようにして真の悔い改めに達すことができるのか
    私たちは真の悔い改めに達したいなら、また神様の進んだ一段階の救いの働きを受け入れる必要があります。主イエスはこう預言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書16:8)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)また聖書のほかの預言にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)ここから分かるのは、終わりの日に、神様はまた来られて一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、言葉を語り、私たちが理解していないすべての真理を語り、これによって私たちの内の罪を裁き、清めるのです。私たちは神様の裁きの言葉を受け入れた後に、自分のサタン的性質を本当に認識し、憎み、真の悔い改めに達し、神様に神様の国に導き入れられます。そのため、私たちは堕落した性質から解放され、真の悔い改めに達したいなら、終わりの日に神様がなさった裁きの働きを受け入れるべきです。裁きの中で清められる人こそ真摯に悔い改める人なのです。


聖書の終わりの日のしるしに関する預言ー主の再来を迎える道を見つける

2020-09-17 19:59:09 | 賛美の心

聖書の終わりの日のしるしに関する預言ー主の再来を迎える道を見つける

    今世界各地で地震、飢饉、疫病、洪水、干ばつなどの災害が絶え間なく頻発し、しかもますます深刻になり、聖書の中の主の再来の預言は既に実現され、主が戻られる日が既に到来しています。私たちは主の終わりの日の出現と働きをどのように尋ね求め、どのようにして主の再来を迎えることができますか。かつて主は明確に預言されました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)ここから、終わりの日に主が再来される時に、主に言葉を語られて人に戸を叩くことが分かります。それらの神様の声を聞いて主を迎える人は、災いの前に神様の前に携挙されて主と共に宴席に着くことができます。次の文章を閲読して、さらに多くの細かいところと実践する道を理解しましょう。


    1、聖書の終わりの日のしるしに関する預言

    マタイによる福音書24:3
    またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

    マタイによる福音書24:7-8
    民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

    マタイによる福音書24:37-39
    人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

    ヨエル書2:30-31
    その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。マタイによる福音書24:21
わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

    ヨハネの黙示録6:12-13
    小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。

    関連する真理:

    終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。「実践(2)」より

    あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第六十五章」より

    すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。しかしわたしの子らは安らかに休むことができる。あなた方の上にひとつの災害も降りかかることはなく、わたしはあなた方を守る(つまり、あなた方はその後、肉ではなく、体の中で生きるので、どんな災害の苦痛も受けない)。あなた方はただわたしと一緒に王として支配し、すべての国とすべての民を裁き、宇宙の隅々で永遠にわたしと素晴らしい祝福を楽しむだろう。これらの言葉はすべて成就され、間もなくあなたの目の前で達成されるだろう。わたしは一刻、一日も遅れることなく、驚くほど迅速に事を行う。心配したり心を騒がせたりしてはならない。わたしがあなたに与える祝福は、誰もあなたから奪うことのできないものだ――これがわたしの行政命令である。わたしの業の故に、すべての人々がわたしに従順になるであろう。彼らは歓呼し続けるだけでなく、さらに喜んで跳び上がり続けるだろう。キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第九十二章」より

    2、どのようにして災いの前に携挙されて主と共に宴席に着くことができるか
    ルカによる福音書12:40
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

    ヨハネの黙示録3:20
    見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

    ヨハネの黙示録3:3
    もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

    ヨハネの黙示録16:15
    見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。

    ヨハネの黙示録2:11
    耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

    ヨハネによる福音書10:27
    わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

    マタイによる福音書7:7-8
    求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

    関連する真理:

    神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

    このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「序文」より

    神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より

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私は神様の名前はなぜ変わるかやっと分かりました