いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

日々の神の御言葉「神は全人類の運命を支配する」抜粋355

2020-09-07 23:46:21 | 賛美の心

日々の神の御言葉「神は全人類の運命を支配する」抜粋355

あらすじ
    初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。そこで、人の心と精神を満たすために、多くの社会科学者、歴史家、政治家が現れて、社会科学の理論、人類進化の理論等、神が人を創造したという真理に反する理論を述べた。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数は増加の一途をたどっている。旧約聖書時代の神の働きや神の言葉の記録を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという教義に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。こうして、人間の文明は知らず知らずのうちにますます人の願望を満たすことができなくなり、多くの人々がこんな世界に生きている自分達は、亡くなった人々に比べて不幸せだと感じてさえいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。何故なら、神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探索したい欲求や願望を鎮めることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住もうと、人権のない国に住もうと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、支配される者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求しようとする願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることはできない。全人類に共通するこの現象を、社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉大な者が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解消されるのである。或る国や或る民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、そうした国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされるであろう。

『言葉は肉において現れる』より引用

 

 


主が来て戸をたたかれる時、わたしたちはどのように迎えるべきか

2020-09-06 22:30:24 | 賛美の心

主が来て戸をたたかれる時、わたしたちはどのように迎えるべきか

    「恋しい人は戸口で戸をたたいておられる。夜の露で彼の髪の毛が濡れた。わたしたちは早く起きて戸をあけよう。恋しい人が離れないように。……」

    この歌は『恋しい人が戸口で戸をたたいておられる』といいます。主を信じた後、兄弟姉妹たちはみなこの歌を歌うのが好きです。この歌を歌うたびに、非常に感動し、深く心を打たれます。わたしたちはみな恋しい人を引き留めたいです。しかも、恋しい人が来て戸をたたかれる時、いちばん初めに恋しい人の声を聞いて主を迎える人になりたいです。主を信じるわたしたちはみなこのように待ち望んでいると言ってもいい。だが、主が来て戸をたたかれるとはどういう意味ですか。戸をたたかれる主を、わたしたちはどのように迎えるべきですか。

    恵みの時期、主イエスが贖いの仕事をなさる時、主の行われた事、および主の教えはユダ全域に宣べ伝えられました。彼の御名はその世代の人々の間でセンセーションを巻き起こしました。主イエスが弟子たちを連れてあちこち当時の人に福音を宣べ伝えておられることは、彼が人の戸をたたいておられることを象徴しています。主イエスは悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)と言われました。それは、人が主の前に出て、悔い改め、罪を告白し、罪の赦しを得、律法の罪定め、呪いから逃れて神に贖われるためです。当時、多くのユダヤの民は主イエスの行われたしるしを見、また主の言葉には権威、力があることを見ました。例えば、主イエスは五つのパンと二匹の魚を取って感謝の祈りを唱えると、五千人を満腹させることができたとか、主イエスの一言が風と海を静めることができたとか、彼の一言が死人ラザロを復活させて、墓から出させることができたなどです。主イエスの言葉が発せられると、事が成就しました。それには、天地万物を創造された造物主の言葉と同じ権威、力があります。しかも、主イエスの人を教える言葉、および彼のパリサイ人を叱る言葉はみな、人の話せない言葉です。主イエスの言葉から流露されるものはみな神の性質、神であるものであり、神の権威、力を表現しています。実は、主の言葉と主のなさったすべてのことは、人の心を揺り動かし、人の心を動かしています。当時のユダヤ人はみな、主が彼らの戸をたたいている音を聞いたと言ってもいい。

    当時のユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人は観念、想像を固守していて、主イエスが来たるべきメシヤだと認めませんでした。彼らは聖書の預言の文字にしがみついていて、来たるべき方はインマヌエル或いはメシヤと呼ばれ、しかも処女から生まれるのだということだけを信じていました。でも、彼らの目はマリヤに夫がいるのを見ました。だから、彼らは主イエスは聖霊からの受胎によって生まれたのではなく、処女から生まれたのではないと言い、主イエスが大工の息子だと中傷し、そうすることで主イエスを否み、罪定めしました。彼らはまた、主イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだと冒涜しました。主の働き、言葉とパリサイ人のデマ、誹謗に直面している時、多くのユダヤの民はパリサイ人の言葉を信じることを選び、主の宣べ伝える道を拒絶しました。主が戸をたたいておられる時、彼らは主に対して心を閉ざしました。主イエスが言われたように、「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(マタ13:14-15)。預言者の預言はわたしたちにこういうことを告げています。主がわたしたちの戸をたたかれる時、すなわち神が言葉を言い、声を発し、新しい仕事をなさる時、主はわたしたちが主の声を聞き、主のみわざを認識し、主の心を理解することを望んでおられます。わたしたちが神に心を開いて、戸をたたかれる主を受け入れたら、主はわたしたちを導いて、わたしたちが主の声を聞き分けられ、神の出現を見るようにされます。当時の多くのユダヤの民はパリサイ人のデマを信じたため、主に心の扉を閉ざし、神の声を聞き、主の贖いを受け入れることを拒み、主イエスにつき従う機会を失ってしまいました。その結果、神に逆らった彼らは二千年近くにわたる国の滅亡のつらさを味わいました。それに引き換え、主イエスにつき従うことのできる弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどは主の言葉を聞き、主のみわざを認識した後、主イエスが来たるべきメシヤだと分かり、そのため主の足跡に従うようになり、主の救いを得ました。

    世の終わりの主の再来の日に、主はいつでもわたしたちの戸をたたかれます。そのため、わたしたちはいっそう目を覚まして用意をしなければなりません。主イエスはこう言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:7)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。聖書の言葉から分かりますが、主イエスは再来される時、また声を発し、言葉を言って新しい仕事をなさいます。これは、主がわたしたちの戸をたたかれることです。すべての賢い乙女は主の声、言葉を聞いたら、積極的に進んで探究し、主の声をまじめに聞きます。主の声だと分かったら、主の再来を受け入れます。主は信実ですから、この期間きっと、主を渇仰し、求める人が彼の声を聞くことができるようにされます。彼はほかの人に「主が来られました!」と叫ばせることによって、わたしたちに彼の到来を知らせるかもしれません。主イエスがわたしたちに警告したように、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。わたしたちは主が再来されたという福音を宣べ伝える教会から、あるいはインターネットやラジオ放送局やFacebookから諸教会への神の声、言葉を自分の耳で聞くことができる可能性もあります。どうであろうと、主はわたしたちが賢い乙女になり、いつでも目を覚まして主の声を聞くことを望んでおられます。ユダヤの民のように、観念、想像によって主が戸をたたかれるということを扱ってはならず、一部の宗教の反キリストの嘘、デマを盲目的に信じて、主の召しを拒絶することによって、主の再来を迎えて天の国の中に携え上げられるという機会を失うようなことがあってはなりません。主の声を聞いたら、主を迎え、主に対して戸をあけるべきです。そうしてこそ、わたしたちは主の御座に携え上げられて小羊の宴席に出ることができます!


神様に聞いていただく3つの祈り方

2020-09-05 21:29:56 | 賛美の心

神様に聞いていただく3つの祈り方

目次
第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。
第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです。
第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです。
    兄弟姉妹の皆さん:

    主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

    実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

    第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。

    主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなくてはならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中では、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。


    第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです。

    私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を与えて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

    第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです。

    恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエスが現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえエホバの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

    今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

    これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

    第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです。

    私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

    加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

    第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです。

    祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来たならば、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

    第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです。

    律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

    今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

    主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

    すべての栄光が神様にありますように。

 


キリスト教賛美歌「万物は創り主の権威の顕れ」歌詞付き

2020-09-04 20:50:18 | 賛美の心

キリスト教賛美歌「万物は創り主の権威の顕れ」歌詞付き

人類がまだいなかった新しい世界で

創り主は朝と夜を備え

空と陸と海を創った

草や野菜や樹木を整え

まもなく神が造る新しい生命のために

光と季節と年と日を設けた

創り主の権威と力が

神が造った新しいもの一つひとつに表れていた

神の思い 言葉や力の現われは

万物の中の傑作であり

人類の深い認識と理解に値する大いなる業である

神の言葉と業は

ひとときの間も少しの誤差もなく

時を同じくして現われた

すべての新しいものの出現と誕生は

創造主の権威の証し

権威の証しである

神は自分自身の言葉に忠実であり

神の言葉は必ず成就する

達成されたものは永遠に続く

この事実は決して変わらない

過去も現在もそしてこれからも永遠に

変わることは決してない

創り主の力と権威は奇跡を生み

神は人を惹きつけ

人はその業に釘付けになる

それは驚くべきものであり

神の権威が発揮されて生まれ出たものである

神の並外れた力は歓喜をもたらし

人は感嘆し 喜びのあまり息を飲む

人は心動かされ 畏敬の念に打たれ

歓喜し心には尊敬の念が生まれる

神の思い 言葉や力の現われは

万物の中の傑作であり

人類の深い認識と理解に値する大いなる業である

創り主の権威と業は

人の霊を感動させ 洗い清め

そして満たしてくれる

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

 

 

 


キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(1)主は再来の時、どのようにして出現され、御働きをなさるのか?

2020-09-03 21:09:48 | 賛美の心

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(1)主は再来の時、どのようにして出現され、御働きをなさるのか?

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(1)主は再来の時、どのようにして出現され、御働きをなさるのか?
終わりの日の大災害の予兆、すなわち4つの血の月と、夜空の星々の異様なさまが出現し、大災害は近づいています。多くの主を信仰する者達は主の再臨の予感、あるいはすでに再臨されたことを感じています。皆が主の再臨をそれほどまでに待ち焦がれているとき、ふと疑問を抱いたことがありませんか?終わりの日に主が再臨される時、主は一体どのようにして出現なさるのでしょうか。また、再臨のときに主がなさる御働きとはどのようなものでしょうか。ヨハネの黙示録にある大きな白い玉座での裁きは、どう成就するのでしょう。この短編動画がその答えを示してくれます!
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[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。 特別声明:このビデオは、全能神教会によって非営利目的の作品として制作されました。登場人物はみな非営利目的で参加しており、いかなる形の報酬も受けていません。このビデオを営利目的で第三者に配布することはできません。皆様がこのビデオを配信し、多くの方と共有されることを願っています。配信時には、出典を明らかにしてください。いかなる組織、社会団体、または個人も、全能神教会の同意なくこのビデオの内容を改ざんしたり歪曲したりすることはできません。
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