いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

天国に行く条件とは何ですか

2020-09-02 23:13:05 | 賛美の心

天国に行く条件とは何ですか

快速ナビ

  • 苦労して働いて天国に入れるのか
  • 天の父の御旨を行うこととは何か
  • どのようにして天国に入ることができるのか

苦労して働いて天国に入れるのか
 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

 多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?


 「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」

天の父の御旨を行うこととは何か
 それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。

どのようにして天国に入ることができるのか
 それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。

 ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。

恵みによって救われれば、天国に入れるのか

「美しき声」NO.4 罪を赦されることが天国へ入る方法なのか


裁きの奥義を発見する

2020-09-01 21:59:11 | 賛美の心

裁きの奥義を発見する

    私は恩恵と申します。今年46歳です。現在マレーシアで暮らしており、主を信じて27年になります。2015年10月、私は別の街に引っ越して仕事に就きました。新しい同僚はみんなフェイスブックに夢中で、チャットしたり、新しい友だちを見つけたり、投稿したりするために使っていました。私はフェイスブックのアカウントをもっていなかったのですが、それを知った同僚たちがアカウントを作成してくれたので、徐々にネットのつなぎ方やフェイスブックの使い方を学んでいきました。時間があれば主を信じる兄弟姉妹の投稿を閲覧したり、それをシェアしたりしては楽しんだものです。時には自分も主を讃える記事を投稿し、友達グループの人たちと主のお恵みをシェアすることもありました。毎日が本当に充実していたのです。

     2016年2月のある日、フェイスブックの友達のプロフィールを閲覧していたところ、次の投稿が目にとまりました。

    「現在、私たちのグループは裁きについて話し合っています。みんなそれぞれ意見は異なりますが、おもな点では一致しています。『自分に理解できないことがあっても、いつものくだらないことを言うつもりはない。それは神が将来なさることであって、無闇に憶測してはいけない』と言う人もいれば、『「詩篇」の75篇2節には「定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく」と記されている。神は一人ひとりが行なうすべてのことを記憶なさるのだから、主イエスがお戻りになってすべての人を裁かれるとき、まるで映画を上映するかのごとく、私たちの行ないを万人に明かされる。だから、神の裁きを受けて地獄に落とされないよう、私たちはいつも正直に振る舞わなければならず、絶対に悪事を犯してはいけない」と言う人もいます。また次のように言った人もいます。

    「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(ヨハネの黙示録 22:11–12)と記されている。この聖句から、主イエスは終わりの日に再臨なさるとき、空に巨大な卓を置いてその後ろにお座りになり、書物をお開きになることがわかる。そして全人類が地にひざまずく中、主は各人の名前を読み上げ、その行ないに応じて一人ずつ裁かれる。善人は主によって天国へと引き上げていただけるが、悪人は地獄に落とされる』」

 この投稿を読んだあと、私は椅子に座ったまま、人類をお裁きになる主のお姿を心の中で思い描きました。主は玉座につき、人々がみな主の卓の前にひざまずいて自らの罪を残らず白状し、神に裁いていただく中、主はその行ないに応じて、一人ひとりを天国か地獄に送られる。ここで私は、自分が20年以上にわたって忠実な主の信者だったこと、全力で主の教えを実践してきたことを考えました。そして、主は私の敬虔さをご覧になり、きっと天国に引き上げてくださるはずだと信じました。しかしそれをさらに考えるうち、突然あることを思いついたのです。自分はもうインターネットの使い方を知っているんだから、「裁き」について検索して、何が出てくるか確かめてみたらどうだろう。そこでブラウザを立ち上げ、その単語を入力しました。そしてどのリンクをクリックしたかは忘れたのですが、驚いたことに次の一文が画面に現われました。

    「神の刑罰と裁きは人の救いの光」

  この一文にたちまち興味をそそられた私は、もっと読もうとそのサイトに行きました。ページが読み込まれる中、「神の刑罰と裁きは人の救いの光」というタイトルの讃美歌が聞こえたのですが、それは喜びを感じさせると同時に、思考を刺激するものでした。次に挙げるのがその歌詞の一部です。

  「人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)

 讃美歌が終わったあと、私はこの歌詞をじっくり考えました。それはとても感動的で、このように思い始めました。

  「神の刑罰と裁きは私たちの救いの光なのだろうか? それは人類の最大のご加護であり、お恵みなのだろうか? 私たちはこれをどう理解すべきだろう? 清められて有意義な人生を送りたいなら、神の刑罰と裁きを受け入れなければならないということなのかしら?」

 この歌詞について熟考するうち、数々の疑問が頭の中で渦を巻きました。そして「神が人をお裁きになるのなら、人は断罪されないだろうか? それに、裁きが救いの光になるなんてどういうことだろう?」とも思いました。このようなことはそれまで聞いたことがなかったので、私は好奇心をそそられると同時に興奮しました。この讃美歌で語られている裁きは、私が理解している裁きと違っていましたが、裁きには本当に深い意義があり、人の将来と運命に関係しているという漠然とした感覚は依然残っていました。この讃美歌の出所を調べてみると、制作したのが全能神教会だとわかったので、そのウェブサイトを開きました。すると、ホームページが斬新で美的な心地よさを感じさせるものだっただけでなく、その内容も豊富で種類に富んでいました。聞くもの、読むもの、歌、そして討論など、多彩な内容が揃っています。私はこう思いました。

  「このウェブサイトをいままで誰も教えてくれなかったなんて、いったいどういうことだろう? とても素晴らしいサイトだけど、誰もまだ見つけていないからシェアしなかったのかしら?」

  「本」というリンクをクリックして一覧をスクロールすると、『いのちに入ることに関する経験の証し』というタイトルが目にとまりました。それをクリックしたところ、おもに神の裁きに関する証しであることがわかりました。下に挙げるのがその一例です。

  「神の裁きと刑罰が私を救った」

  「神の裁きと刑罰は私にとって大いなる救いだった」

  「裁きと刑罰の中に神の愛を見た」

  「神の裁きと刑罰が私の罪深い心を目覚めさせた」

  「神の裁きと刑罰は私を正しい道に導く」

 仕事に出かける時間が近づいていたので、これらの証しのいくつかをざっと読むことしかできませんでした。それらはどれも信者によって書かれたもので、自分の堕落した性質がどのように清められたかを述べるとともに、自分の欠点、堕落、誤った信仰観などに加え、それらが全能神の御言葉を通じていかに変わったかを語っています。このおかげで、私は「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という言葉についてさらに好奇心を抱きました。裁きとは断罪されることではない、各人の結末を決めるものではない、ということなのでしょうか。私は心が乱れだし、『神の刑罰と裁きは人の救いの光』という言葉がいったい何のことを言っているのか、その核心に迫らなければならないと悟りました。そして、『いのちに入ることに関する経験の証し』という本がおそらく人の信仰にとって極めて有益であり、それをじっくり読むべきだという結論に至ったのですが、もう時間がなくなったので、コンピュータを切って仕事に出かけました。

 その夜、私は眠れないままベッドで寝返りを繰り返しました。全能神教会のウェブサイトのイメージが絶えず頭の中に浮かぶのです。とりわけ「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という一文が頭から離れず、「裁き」とは何を意味しているのか心から知りたいと思いました。

    翌朝、私は早起きして全能神教会のウェブサイトを開き、「裁き」という単語を検索しました。すると「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」というタイトルの記事が目にとまったのでそれを開き、次の御言葉を読みました。

    「過去に語られた神の家から始まる『裁き』において、その言葉における『裁き』は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行なうのだから、その働きは最大規模のもので、死する人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう…誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神がずいぶん前に人間のあいだでの裁きの働きを開始したとき、あなたは安らかな昏睡状態に留まっていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである」

 私はこれらの御言葉にすっかり驚きました。人の奥底に潜む考えや、神による終わりの日の働きに対する見方を、とても正確に明らかにしていたのです。同時に、それらは非常に現実的かつ実践的でもありました。私は不思議に思いました。

    「空で裁きが行なわれるという私が抱いてきた考えは、単なる想像に過ぎなかったのかしら? 人がみな、神による裁きの働きは不思議で超自然的だと想像していることを、この文章は示している。また、裁きの働きがはるか以前に始まり、もうすぐ終わるということも示していて、時間を無駄にせず神の示現を求めるよう、人々に促してもいる。これは神のお声なのかしら?」

 私はそう考えて心が乱れ、神の裁きとはいったいどういう意味なのか、すぐにはっきりさせたいと思いました。しかし全能神教会のウェブサイトにはあまりに多くのコンテンツがあり、そのときはどこから探し始めたらよいかわからず、そのため教会の信者を探し求め、私が理解するのを助けてくれるかどうか確かめてみることにしました。

 私は全能神教会のウェブサイトに備わっているオンラインチャット機能を使い、裁きについてもっと学びたいというメッセージを送信しました。するとすぐに返信があり、全能神教会に所属する劉恵さんと李梅さんという2人の姉妹を紹介してくれました。彼女たちに連絡を取り、やりとりを重ねる中で、この2人が誠実かつ開けた態度の持ち主で、とても率直だということがわかりました。私は2人と心を通わせたチャットをしたいと思い、こう伝えました。

    「全能神教会のウェブサイト、本当に気に入っています。ありとあらゆる霊の書籍、讃美歌、音楽動画、福音映画、神の御言葉の朗読など、コンテンツが盛りだくさんです。ただ、私にはどうしても、神の裁きがどういう意味かがわからないのです。「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」という記事を読んだばかりなのですが、それによると、神による裁きの働きはすでに始まっていて、天で裁きが行なわれるという考えは人間の観念と想像の産物に過ぎないようです。これは、私が普段理解している裁きとまったく違っています。このことについてあなたたちはどう認識なさっていますか。どうか教えてください」

  すると劉恵姉妹がこう返信してくれました。

    「神を讃えます! 一緒に求めて交わりましょう! 私も以前はそのように考え、神による終わりの日の裁きの働きは天で行なわれると信じていました。しかし全能神の御言葉を読み、兄弟姉妹と交わったあと、それはひとえに自分の観念、自分の想像に過ぎないと気づくようになりました。神による裁きの働きが天で行なわれるか、それとも地上で行なわれるかは、聖書のいくつかの預言の中でとてもはっきり述べられています。たとえば『黙示録』の14章6節から7節にはこうあります。

    「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』」

  また『詩篇』96篇13節にはこう記されています。

    「主は来られる、地をさばくために来られる。

    主は義をもって世界をさばき、

    まことをもってもろもろの民をさばかれる」

 さらに『ヨハネによる福音書』9章39節では、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、」と述べられています。いま挙げた聖書の聖句は。「彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて」、「地をさばくために来られる」、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」ということに触れています。そのことから、終わりの日、神は自らこの世へおいでになり、地上に来られて裁きの働きをなさり、すべての人と国をお裁きになることがわかります。加えて聖書を読むことで、神は人類をお作りになるのに先立ち、私たちに適した生存環境を整えられるべく、天地と万物をお作りになったこともわかります。それから神は人類をお作りになり、私たちが天ではなく地で暮らすよう采配なさったのです。では、私たちはいったいどのようにして天に引き上げていただけるでしょうか? 堕落した人類はここ地上で神の裁きを受け入れるしか選択肢がありません。さらに、ヨハネはパトモス島の空中に大きな白い玉座を見たと、黙示録には記されています。実際のところ、それはヨハネのビジョンの1つに過ぎませんが、これを文字どおり、神は終わりの日に戻られるとき、空中で人を裁かれるのだと解釈する人がいます。これは私たち自身の観念と想像以外の何物でもなく、預言を誤って解釈しているのであって、神の働きの現実などでは決してありません」

 私が自分が耳にしたことに驚きました。姉妹が教えてくれた聖書の聖句は全部読んだことがあるはずなのに、これらの御言葉の本当の意味に気づかなかったなんて、いったいどういうことでしょう。そうです! 神は人類をお作りになって地上に住まわせたのですから、私たちが天に昇るなどどうしてできるでしょう。私の信仰は本当に曖昧さと無知で一杯だったのです!

 李梅姉妹はそれからこう教えを説いてくれました。

    「終わりの日、神は受肉されて地上で裁きの働きをなさっただけでなく、神の働きははるか以前に始まり、もうすぐ終わります。神による裁きの働きは、人々が想像するように天でなされるものではなく、彼らが信じるように人々を直接断罪するものでもありません。実際のところ、神による裁きの働きが終わりを迎える前、神の御前に出る人はみな、神の御言葉による裁き、試練、そして清めを受けられる人たちです。神の裁きを受け入れて清められた人たちは、神によって残らず御国に連れていただけます。しかし、神の御言葉の裁きを受け入れない人について言えば、彼らの罪深い本性が神に裁かれ、清められることはないので、引き続き罪の中で暮らし、絶えず罪を犯し続けることになります。彼らは嘘をつき、騙し、神に逆らい抵抗します。そして自分の罪のために地獄で滅ぼされるのです。これが神の義なる性質の真の表われです。長年主に従ってきた私たちは、信仰のおかげで自分の罪が贖われたことを深く経験してきたものの、自分の罪深い本性という問題は解決されていません。私たちは主に従いながら、同時にしばしば主の教えに反し、肉の欲望のおもむくまま、嘘をついたり、騙したり、たくらみに関わったり、名声や富を求めて争ったりするといった罪を犯します。私たちは空虚な虚栄心を満たそうと必死で、物質世界の悪しき潮流を追いかけます。これだけではありません。特に試練や事故や災害に直面すると、神を誤解して責め、神を裏切りさえします。私たちは絶えず罪を犯してはそれを告白するという状態の中で暮らし、決して自分の罪深い本性の束縛を振り払えないと言えるでしょう。聖書には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)と記されています。私たちのような堕落した人々が、どうして神の国に入れるでしょうか? 全能神はこうおっしゃいました。

    「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)

 ゆえに終わりの日、神はご自身の経営計画を遂行し、堕落した人類の必要に応じて人を裁き、罰し、清める段階の働きをなさっているのです。その目的は、私たちをサタンの支配下から完全に救い、私たちの罪深い本性を取り除き、それによって私たちが清められ、救われるようになさるためです。このことから、神による終わりの日の裁きの働きが、ひとえに清めと救いに関するものであることがわかります。それは人々が想像するように、私たちを断罪するものではないのです」

 次いで劉恵姉妹が交わりを続けました。

    「そのとおりですよ、恩恵姉妹。次のことについて考えてみましょう。神による裁きの働きが私たちを断罪して懲罰するものなら、サタンによってみな深く堕落させられてきた私たちは、誰一人救っていただけず、神の国に入れることもないはずです。そうであれば、神による裁きの働きとはいったい何なのでしょうか? 全能神の御言葉は、神が終わりの日に裁きの働きをなさるのはなぜか、その意義は何かを明確に述べています。ここで全能神の御言葉を2節読みましょう。

    「人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配からどうやって自分を解放すればよいのか分からない。何時の時代も、この秘密を発見してそれに触れた者は稀である。……清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神の慈しみを受けていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な態度だけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

    「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 では、私たちは神の御言葉から何を実感できるでしょうか。ある角度から見れば、神の御言葉が極めて実践的であり、私たちの実生活の状況をとてもよく映していることがわかります。別の角度からは、私たちはまず神の裁きと清めを経験し、汚れと堕落を自分から取り除くとともに、サタンの闇の支配から逃れなければならないことがわかります。そうして初めて、神によって御国に連れていただくのにふさわしくなれるのです。神による終わりの日の裁きの働きがなければ、私たちは十分に清められて神の心に従う人にはなれず、神の国に入ることもきっとできません。ひたすら罪を犯して神に抵抗するばかりで、最後は地獄で神に滅ぼされます。事実、全能神教会の兄弟姉妹による実生活の証しから、神の裁きと刑罰は人類の救いの光であることがわかります。私たちは一人残らずサタンによって堕落させられてきましたが、全能神の御前に出て神の御言葉の裁きと刑罰を受けられるので、私たちのいのちの性質は徐々に変わります。反抗と抵抗から抜け出し、受容と服従に向かいます。傲慢かつ独善的で誰にも服従しない状態から抜け出し、進んで自惚れを捨て去るようになり、正しいことに従い、真理に服従するのです。加えて、神による裁きと刑罰の中で表わされることはどれも真理であり、神の義にして聖い性質の表われでもあります。ゆえに神の裁きと刑罰を経験すればするほど、私たちは神を知るようになります。そして神を知れば知るほど、この世の人、物事、出来事をよりはっきり見通せるようになるのです。それとともに、私たちの視点や価値観も様々な度合いで変わっていきます。神への畏れと服従をさらにもつようになるのです。これが、全能神の裁きと刑罰が私たちの中で成し遂げることです。神の御言葉における真理の光の裁きがなければ、私たちはみな暗闇の中で暮らし、罪を犯しては告白し、告白しては罪を犯すという日々を過ごし、決して罪の束縛を捨て去ることができません。それならば、いったいどうして神によって御国へと連れていただけるでしょうか?」

 李姉妹と劉姉妹の説く教えを聞いたあと、心の中で明るい光が灯ったように感じました。2人が言ったことは真実です。私の教会の牧師や長老、それに兄弟姉妹はみな罪の束縛から逃れられないでいます。私自身、どうしても罪を犯してしまうことがよくあり、主の御言葉を実践できずにいました。みんな罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしており、神がお戻りになって裁きと清めの段階の働きをなさることを本当に必要としているのです。全能神による終わりの日の働きを調べていなければ、これらの真理を理解するようにはならなかったでしょう。私は神のお導きに心から感謝しました。全能神の御言葉を読み、姉妹たちが説く教えに耳を傾けることに加え、神の御言葉の裁きを通じて自分の堕落した性質がどう清められたかを述べている、全能神教会の兄弟姉妹による証しの文章を読むことで、神による終わりの日の裁きの働きについて多少ながら理解するようになったのです。自分の観念はきれいに消え去り、私たちが罪から逃れて清めを得るうえで神の裁きと刑罰が不可欠であることを、私はようやく知りました。

 すると、劉恵姉妹がこう言いました。

    「全能神の御言葉を2節読みましょう。全能神はこうおっしゃいました。

    「裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

    「キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)

 全能神の御言葉から、神は人類の必要に応じてすべての真理を表わし、人を清めて救われるべく、終わりの日に肉となられたことがわかります。神は背くことを許さないご自身の義なる性質を人類に明かされます。そして御言葉を通じ、人の本性と本質、人の堕落の真相を暴かれるのです。全能神が表わされた裁きの御言葉を受け入れることでのみ、私たちは自分のサタン的本性と堕落した性質をなす傲慢さ、狡猾さ、利己心、邪悪さなどを知ることができます。神の裁きと刑罰を受け入れて初めて、神の義なる性質を知り、神を畏れて真に悔い改める心を育めるのです。このようにして、私たちの堕落した性質は変化と清めを得ることができます。これが神の裁きの意義であり、同時に私たちが救いに至る唯一の道でもあります。恩恵姉妹、全能神の御言葉をできるだけ多く真剣に読んでいれば、神による終わりの日の裁きの働きの意義が明らかになり、そのうえ終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を人々に授けられることがわかるのですよ」

 主を讃えます!私は姉妹たちとの交わりからとてつもなく多くのことを得ました。私はまだ神の裁きと刑罰を経験していませんが、2人との交わりと、『いのちに入ることに関する経験の証し』を読むことを通じ、全能神の裁きと清めは本当に人を変えられると感じるようになりました。また、私が天国へ引き上げていただくのにふさわしくなれるよう、神が裁きと刑罰の段階の働きをなさり、私を変えて清めてくださることが本当に必要だとも思いました。その交わりから数日後、私は神による裁きの働きの意義と、神の御名に関する真理をさらに理解するようになりました。同時に、真のキリストと偽キリスト、本物の教会と偽物の教会を識別する真理も学びました。そして神の受肉にまつわる真理、神の働きと人間の働きの違い、サタンが人類を堕落させる方法、神が私たちをお救いになる方法なども学んだのです。そうして全能神こそまさに再臨された主イエスでいらっしゃるという確固たる結論に至り、全能神による終わりの働きを喜んで受け入れました。神を讃えます! そのとき以来、私は神の御言葉を読むことへの渇望が止まりません。教会生活を送り、兄弟姉妹と真理について交わり、神の御言葉による潤しと糧を受け入れることで、自分の霊が大いに施されていると感じています。そのおかげで、聖書の黙示録にある次の預言が完全に成就するのを目の当たりにできました。

    「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

 また、それが自分自身の中で成就するのも感じました。全能神の御言葉は私の心の扉を叩き、私が神のお声を聞き、神による裁きの働きを知り、神のもとに立ち返られるようにしてくれたのです。神に讃美あれ!

恩恵 マレーシア

 


受肉した神と神に使われる人との本質的な違い

2020-08-31 21:35:55 | 賛美の心

受肉した神と神に使われる人との本質的な違い

   「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイによる福音書 3:11)


    関連する神の言葉

    受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。…

    …神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

    神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。今日、あなたがたは全員、サタンにより腐敗させられ、わたしを裏切っているのは人間のみであり、この問題はキリストと無関係であることを理解する必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

    受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行なえるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたときは、それは神性における神の働きが終了したことを意味する。その後は、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」より

    受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

    これまでの時代をとおして、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を駆使することができる。彼らは皆、人間としての行動の法則を知っている。彼らは普通の人間の観念をもち、一般的な人々がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが例外的な才能や生来の知性をもっている。これらの人々に働きかける際に、神の霊は、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを神に仕えるために用いる。しかし、神の本質には観念や思惟はなく、人間の意図が混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえする。つまり、神は人間の行動原則に精通さえしていないのである。これが今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や人間の考えが混ざり込んでおらず、それらは霊の意図の直接的な顕示であり、今日の神は直接に神の代わりに働く。これはつまり、人間の意図がほんの少しも混ざることなく、霊が直接語る、つまり神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は直接的に神性を体現し、人間の思惟や観念をもたず、人間の行動原則に関する理解ももっていないということである。もし神性だけが働いていたならば(つまり、神自身だけが働いていたならば)、神の働きが地上で実行されることはなかったであろう。だから神が地上に来るとき、神性において神が行なう働きと関連して、人間性において働きを行なうために用いる少数の人々が必要なのである。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために、人間性の働きを使う。そうでなければ、人が神性の働きと直接に触れ合うことはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」より

    神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。…用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

    わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

    神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。…人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 


【朗読】御言葉「神の現れによる新時代の到来」(抜粋 1)

2020-08-30 08:34:57 | 賛美の心

【朗読】御言葉「神の現れによる新時代の到来」(抜粋 1)

 

 

 

教会音楽「聖霊の新しい業に従い神の賞賛を得る」歌詞付き

2020-08-29 18:57:22 | 賛美の心

教会音楽「聖霊の新しい業に従い神の賞賛を得る」歌詞付き

聖霊の業に従うとは
今日の神の意志を理解すること
要求に沿って行動し
今日の神に従うこと
神が今望むことに従い
神の新たな言葉により真の道に入ること
そのような人々が聖霊の業に従う
彼らは聖霊の流れの中神を見て賞賛を得る
彼らは神の性質
人の観念や不従順さ 性質や本性を知り
彼らの性質は神に仕える過程で変化する
このような人々だけが神を得ることができる
このような人々だけが
唯一の真の道を見出した者たち

神の最新の業の認識を得るのは容易ではないが
もし意図的に神の業に従い、探し求めるなら
神を見るチャンスと聖霊の新たな導きを得て
彼らの性質は神に仕える過程で変化する
このような人々だけが神を得ることができる
このような人々だけが
唯一の真の道を見出した者たち
神の業に敢えて逆らうものは
聖霊の啓示や神の導きを受けられない
神の最新の業を受けることができるかどうかは
神の恵みと彼らの追求と意図次第である
『小羊に従って新しい歌を歌おう』よりご不明な点がありましたら、ご連絡ください。

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