いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

2020-08-23 22:15:00 | 賛美の心

終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

    二千年前、主イエスは預言されました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)またヨハネの黙示録にはこう預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)この二節の聖句は主が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。


    現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか
    私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

    聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

    実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義
    神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える
    それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

    今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から見れば、おそらく全能神が主イエスの再来でしょう。私たちは主を迎えることにおいて、謙虚に尋ね求め考察すべきです。こうしてこそ主の再来を迎える機会を容易に逃すことはありません。


聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された

2020-08-22 21:24:48 | 賛美の心

聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された

    2000年前、主イエスは「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:12)と約束されました。今、主の再臨の兆候がありとあらゆる形で表れており、主の日が近づいていることを多くの兄弟姉妹が予感しています。主はすでに再臨されたのでしょうか?主を迎えるために私たちができることは何でしょうか?ここでは、聖書に書かれた預言を掘り下げ、考察していきます。

主の再臨
目次

●主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争

●主の再臨の第二の兆候:天変の出現

●主の再臨の第三の兆候:教会は寂れ、信者の愛は冷える

●主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場

● 主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興

●主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布

●私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか

 

主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争
    マタイによる福音書24:6-8には、「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」とあります。近年、アフガニスタンのタリバン政権の崩壊、インドとパキスタンの紛争、米国によるイラク侵攻、激化の一途をたどるイスラエルとパレスチナの間の戦争など、戦火が頻繁に勃発しています。また、伝染病、大規模火災、洪水、地震もあらゆるところで見られます。特に2019年に中国の武漢で発生した新型コロナウィルスは世界中に広がっています。2019年9月にはオーストラリアで甚大な森林火災が発生しましたが、地球の反対側の東アフリカではバッタが大量発生し、多く音国が飢餓に直面しています。2020年1月にはインドネシアで洪水が発生し、カナダのニューファンドランドは百年に一度の猛吹雪に襲われました。地震は、トルコのエラズーやカリブ海キューバ南部など各地で発生しています。これらの兆候から、この預言は成就したと見ることができます。

主の再臨の第二の兆候:天変の出現

    示録6:12には、「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」と書かれています。ヨエル書2:30~2:31には、「わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」とあります。近年、月が血のような赤色になるという現象が数多くありました。たとえば、「ブラッドムーン」は2014年から2015年の二年間で4回発生し、2018年1月31日には、150年に一回しか現れない「スーパーブルー・ブラッドムーン」が観測されました。そして、2019年1月には「スーパーブラッド・ウルフムーン」が現れました。太陽が黒くなるという預言された現象も発生し、実際に2019年12月26日にはシンガポールで、同年7月2日にはチリでなど、数多くの日食が発生したのです。こうした現象から、この預言が成就していることは明らかです。

主再來的迹象三:教會荒凉 信徒愛心冷淡
    マタイによる福音書24:12には、「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」とあります。宗教界は全体的に荒廃が拡大しています。牧師や年長者の説教は使い古された決まり文句となってしまい、信者に応えることができていません。地位を追い求めて徒党を組んで教会内に派閥を形成する牧師もいますし、中には工場を設立して事業を起こし、信者を世俗の道へと導いている牧師までいます。一方、信者は全般的に確信が弱く、この世界に別れを告げることに躊躇しており、うんざりするような揉め事に巻き込まれながら暮らしています。一部の教会は、一見、混み合って活気が あ るように見えるのですが、多くの人は商売の場所として教会を利用しており、単に人脈を広げて商品を売るために来ている過ぎません。今日の教会は、律法の時代末期に向かう頃の寺院とどこが違うのでしょうか?以上から、主の再臨に関する預言が成就していることは明らかです。

主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場
    マタイによる福音書24:4-5には、「そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。』」とあります。主の預言によれば、主が再臨する際には偽キリストが出現して人々を騙すことがわかります。中国、韓国、日本などの国では近年、偽キリストが現れて人々を騙しています。こうした偽キリストはキリストの本質を有しておらず、また、真理を宣べ伝えることもできないにもかかわらずキリストを名乗っています。ここに、この預言が成就していることがはっきり示されています。

主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興
    マタイによる福音書24:32-33には、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と書かれています。主を信じる者の多くは、いちじくの木の柔らかい枝と葉がイスラエルの復興を指していることを知っています。イスラエルが復興すると主の日が近くなりますが、イスラエルの復興は1948年5月14日でした。明らかに、この主の再臨に関する預言は完全に成就しています。

主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布
    マタイによる福音書24:14には、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」と記録されています。マルコによる福音書16:15によると、主イエスは復活後、弟子たちに向かって、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました。イエスの復活・昇天後、聖霊は、主イエスを証しすべく主イエスの信者を導き始めました。今日、キリスト教徒は世界中に広まっており、多くの民主主義国家がキリスト教を国家宗教に指定しています。政権政党が無神論主義の中国においてさえ、何千人もの人々が主イエスの福音を受け入れていることからも、主イエスを通した人類の贖いの福音が世界中に広まっていると言えるでしょう。以上より、主の再臨の預言が成就していることは明らかです。

私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか
    上記に列挙した事実から、主の再臨について六つの兆候がすでに現れていることがわかります。今こそ、来るべく主を迎える決定的な時です。主の再臨を迎えられるようになる前に私たちがすべきことは何でしょうか?主イエスはずっと前にこの質問に対して答えられています。

    ヨハネによる福音書16:12~13において、主イエスは、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と言われました。黙示録3:20には、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」とあります。また、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」など、黙示録の第二章と第三章には数多くの預言も示されています。これらの節からわかるように、主は再臨に際し言葉を発して教会に語りかけ、それまで私たちが理解していなかった真理のすべてを教えてくださいます。神の御言葉を耳にし神の声を認識したことがあり、神を受け入れて服する人々は、主を迎えて子羊の祝宴に参加することができます。一方、神の声を認識しない人々は確実に神の羊ではなく、神によって暴露され、排除されます。このことから、私たちが主の再臨を待つ間、教会に向けられた聖霊の言葉を見い出し、神の声に耳を傾けることを学ぶことが、決定的に重要だということは明らかです。全能神も、「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある」と語っています。(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)

    これを聞くと、「では、神の声を見つけ出すためにはどこに行けばよいのか」と尋ねる人々がいます。マタイによる福音書25:6において、主イエスは、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」と言われました。主は発話と御言葉を介して羊を召します。ですから、主の声を最初に耳にして子羊の足跡を辿り、「花婿が来た」とあらゆる場所で叫んで主の再臨の報と言葉を拡散し、たくさんの人が神の声を聞く機会を得られるようにする、そんな人々が確実に出てくるでしょう。したがって、私たちが子羊の足跡に追いついていけるかどうかは、神を探し求めることを切望する心を持っているかどうか、神の声を認識できるかどうかにかかっていると言われています。これはちょうど、主イエスが最初に現れて働きを開始したときに、ペテロやマリアなどが主イエスの働きと言葉からメシアであることに気づき、主イエスについていって福音の証しを始めたのと同じです。主イエスの働きと御言葉を聞いて神の声を認識できるのは賢明な乙女たちですが、その一方で、真理を愛することがなかった祭司、律法学者、パリサイ人たちは、主イエスの言葉の権威と力を耳にしましたが、それを調査することをしませんでした。その代わりに彼らは頑固に自分たちの概念とイメージに固執し、「メシアと呼ばれない者は神ではない」と考えながら、メシアが自分たちの前に現れるのを待ちました。それだけでなく、彼らは主イエスの働きを非難、冒涜までし、そして最終的には神の救いを失ったのです。また、パリサイ人に追従し、主イエスの働きと言葉の内にある神の声に気づかなかったユダヤ教信者もいました。彼らは祭司、律法学者、パリサイ人に盲目的に耳を傾け、主の救いを拒否したのです。このような人々は主から見捨てられる愚かな乙女たちになるのです。「ではどうやって神の声に気づくことができるのか」と尋ねる人もいるかもしれませんが、実はこれは難しいことではありません。神の発話と御言葉は、人間には語ることが不可能なものでなければなりません。格別な権威と力に満ちていなければなりません。神の国の奥義を明らかにしたり、人間の腐敗をさらけ出したりするものです。こうした言葉はすべて真理であり、すべて人間の生活にもなり得ます。神の言葉を耳にしたとき、心と霊を持つ人なら誰でもそれを感じますし、創造主が私たち人間に語りかけ発話していることを、心で確認するでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。聞こえる言葉が神の声だと確信するならば、それが私たちの概念とどれだけかけ離れていたとしても、それを受け止めて従うべきです。これが、私たちが主の再臨を迎えることができる唯一の手段です。

    今日世界において、主―受肉した全能神―がすでに再臨したことを証ししているのは全能神教会だけです。全能神はすでに何百万語にものぼる言葉を発していますが、世界各国、各方面の人々がその言葉を精査できるようインターネットで公開されています。真理を求めてやまない多くの人々が、それぞれの国から一人ずつ、神の声を聞き主を迎えたいという思いで訪れます。聖書に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」とある通りです。それが神の声かどうかを判別するために耳を傾けつつ、単に全能神が発する言葉をどんどん読んでいけば、主が再臨したかどうかを判断することができるようになります。ヨハネによる福音書10:27の中で主イエスが「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」と語った通りです。 私たちが謙虚な気持ちで探し求める心を持っている限り、神の声に気づき、主の再臨を迎えることができると私は信じています。

 


キリストの言葉「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」(抜粋Ⅵ)

2020-08-21 00:40:30 | 賛美の心

キリストの言葉「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」(抜粋Ⅵ)

キリストの言葉「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」(抜粋Ⅵ)

神は言われます。「人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い性質はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして完全に神の支配下に入ることもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。」

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真の携挙とは何か

2020-08-20 21:56:11 | 賛美の心

真の携挙とは何か

  「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」(マタイによる福音書 6:9-10)

  「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。」(ヨハネの黙示録 19:9)


    関連する神の言葉

  「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より

    フィラデルフィアの教会の形が整い、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。聖徒たちは神への愛を堂々と示し、霊の道から外れることは一度たりともなかった。彼らは堅く、唯一の神が肉となり、全てを命ずる宇宙の頭である、と信じている。聖霊がそれを確認し、揺るぎない証拠がこれを裏付けている。そしてそれは変わることがない!

…………

    今日あなたは全ての教会──フィラデルフィアの教会を完全なものとされました。それはあなたの六千年に及ぶ経営(救いの)計画の実現です。聖徒たちは今や御前に身を低くして従うことができます。彼らは霊によって互いに繋がり、愛を持って互いに伴います。彼らは泉の湧くところで繋がれています。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れを全て洗い流し、あなたの神殿を再び清いものとします。私たちは真の実践の神を知っており、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のためにできる限りを費やしてきました。私たちはあなたの御前にて静まり、聖霊の働きを仰ぎ、あなたの御旨が私たちの中にて妨げられることのないように常にしなければなりません。聖徒たちは互いに愛し合い、力あるものが他の者の弱みを補うことでしょう。常に霊の中に歩み、聖霊による啓きと照らしを受けることができます。真理を理解するとすぐにそれを実践し、新たな光に従い、神の足跡をたどります。

…………

    積極的に神に協力し、協調してひとつとなり神に仕え、全能神の旨を満たしなさい。急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、その運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現れた。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二章」より

     主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。

…………

    神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。…

…………

    それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

    私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。…

    神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

…………

    私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より


朗読 神の言葉「 唯一の神自身 2 神の義なる性質」(抜粋)その1

2020-08-19 19:11:51 | 賛美の心

朗読 神の言葉「 唯一の神自身 2 神の義なる性質」(抜粋)その1

全能神は言われた。「もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、『 わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある 』と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。」

『言葉は肉において現れる』よ

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。