神は人々を創った
どのように聖書を正しく取り扱うべきか
聖書は神様の働きを記録された本である
聖書は、キリスト教の唯一の宝典であり、旧約聖書と新約聖書二つの主要な部分が含まれ、主に神様が行った二つの段階の働きを記録されており、一つはヤーウェ神が律法の時代での働き、もう一つは主イエスが恵みの時代での働きです。
旧約聖書は、神様が律法の時代で行った働きを記録されています。「創世記」から「マラキ書」までは、ヤーウェ神が律法の時代での働きのすべての記録です。旧約時代では、神様は二つの働きを行い、一つは創造の働き、神様が言葉によって天地万物を創造され、言葉が話されるやいなや、すべてのことが成し遂げられ、言葉と事実は同時に起こります。もう一つは神様が律法を発布され人間の生活を導く働きです。最初の人間はどうやって生活するかを知らず、ヤーウェ神はモーセを用いて律法と戒めを発布され、人間の生活を導かれます。律法の導きの下で、人間は罪とは何か、どのように戒めを守るべきか、どのように神様を礼拝すべきかなどを理解し、神様の導きがある生活を送り始めました。
新約聖書は神様が恵みの時代での働きを記録されています。主イエスは、受肉して人々の間に来られ、天国の福音をもたらし、人々に悔い改めの道を伝え、私たちは主イエスがなさった働きを受け入れて、神様に罪を告白し、悔い改めれば、罪が赦され、律法違反によって死刑を宣告される危険を免れました。主イエスが働きの間に多くの奇跡やしるしを行い、例えば、風と荒浪をなぎにさせ、五つのパンと二ひきの魚で五千人を満腹させ、死者を復活させたなど、人々に豊かな恵みをもたらしました。主イエスの働きは主に四つの福音書に記録され、私たちは四つの福音書を読んでこそ、主イエスがキリストであり、受肉した神様であることを認識できます。主イエスは私たちを贖うために、十字架で釘づけにされ、私たちに神様の憐れみと慈しみの性質、神様の人類に対する本当の愛を認識させます。
それ以外に、聖書の黙示録は神様が世の終わりになさる働きを預言されています。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録2:7)「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。 」(ヨハネの黙示録14:7)この二つの聖句から、私たちは主が戻って来られる時に、言葉を語り裁きの働きを行われ、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、神様の終わりの日の救いを得られて、天国へ引き上げられることが分かりました。
聖書を読むことを通して、私たちは神様のなさった働きを理解でき、神様の全能と支配、奇しき業に対して本当の認識を少し得られ、神様の私たち人類への愛、私たちを救う意図に対しても少し認識でき、心から神様に感謝すると共に、一生涯を神様に付き従い、神様を愛することを願っています。確かに聖書は私たちが神様を認識する仲介です。
聖書の言葉はすべて神様の言葉ではない
ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉は聖書に記録されているが、ヤーウェ神と主イエスの言葉の他に、一部は預言者の預言と神様に使われた人の経験と認識があります。神様の言葉は真理であり、正しく間違いないが、人の言葉には人の意志の混じり、或いは誤差があることを免れません。例えば、弟子マタイが記録した主イエスの系図、主イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子(マタイによる福音書1:1−16)であったと述べているが、主イエスは自分がダビデの子孫であることを認めません。(マタイによる福音書22:41−45)主イエスは聖霊によって身ごもられ、受肉した神様であり、どうして系図があり得ようか。またマタイによる福音書に記録したペテロが主を三回に渡り否定したことと、マルコによる福音書に記録したことと違いがあります。(マタイによる福音書26:75、マルコによる福音書14:72)そして、聖書にはベビがエバを誘惑する言葉、サタンの言葉、ロバがバラムへの言葉があり、そのため、私たちは聖書に対して純粋に受け入れ、聖書の言葉を皆神様の言葉として取り扱ってはならず、もし聖書の言葉を神様の言葉として取り扱えば、これは私たちの間違いです。
聖書の著者は人である
聖書の著者は約40名余り、これらの人は預言者、使徒、弟子などいます。聖書の中に、ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉、及び神様が直接預言者に啓示された言葉を除き、残りは皆歴史の記録と人の経験と認識です。例えば、新約の四つの福音書は一部の著者は本人が主イエスの教えを聞いた後に記録したもの、一部は伝道者の説教により、本人が考察した後に書いたもの、神様が直接彼たちに啓示されたものではありません。(ルカによる福音書1:1−2)そのため、聖書の著者は人であり、神様ではありません。
まとめ
上記の交わりを通して、私たちは聖書の一部が神様のなさった働きを記録した書籍であることを認識でき、聖書の言葉はすべて神様の言葉ではなく、中には人の言葉があり、聖書の著者は神様ではなく、人です。そのため、私たちは正しく聖書を取り扱い、聖書を神様として取り扱ってはなりません。
イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか
朝食後、チェン・ユーハンは聖書を読み始めた時、ドアをノックする音が聞こえました。彼女がドアを開けてみると、そこには同僚のヘ・シングアンと彼の妻シンユーがいました。
二人は中に入ってきて座りました。そしてシングアンは混乱した様子でこう言いました、「昨日の同僚会議の後、帰宅したら心の中で落ち着かない気分がしたんです。ご存知の通り、今は主が来臨される終わりの日の重大な時期です。沢山の人が主は既に再臨されたと証言していますが、リュウ牧師は主がいつ来られるかは誰も知らないと仰ったんです。それは聖書にこう記されているからだそうです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36). 従って、主が再臨されたことを説く証言は全て嘘ということになります。それに、私たちが騙されることがあれば、そのような証言に耳を傾けたり、目を向けたり、その証言をする人たちと連絡を取ってはならないと主は仰りました。私はこの主の御言葉について考えれば考えるほど、増々何かがおかしいような気がするのです。なので、私は主の御言葉を疑っています。主イエスが本当に再臨されているのに、イエス・キリストの再臨を証言するいずれの人たちの言うことにも耳を傾けず、目を向けず、その人たちと連絡を取らずにいたら、どうやって主をお迎えできるというのですか?
ユーハンはじっくり考えてこう言いました、「あなたが言ったことは本当に重大な問題です。主の来臨は慎重に対応するべきです。むやみにリュウ牧師に従ってはいけません。今現在、世界中で災害はどんどん悪化し、より頻繁に発生していますから、イエス・キリストの再臨をうたった預言は基本的に成就されています。今こそ、主が再臨される時なのです。私たちはイエス・キリストの再臨を切望しています。それが起れば、私たちは神との宴に参加して天国の祝福を授かるのです。今、私は沢山の人々がイエス・キリストの再臨を証言しているのを耳にしました。しかし、私が理解できないのは、」そして彼女は聖書を開き、続けてこう言いました、「主イエス様は明確にこう仰っておられるんです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36)。人の子ですらいつ再臨するか知らないのに、彼らはどうやってこれを知り得たというのでしょう?しかしながら、主がいつ再臨されるかを誰も知らないとしたら、私たちはどうやって主の救いを受ければいいのでしょう?そうしたら、主が再臨される目的は一体何なのでしょう?私はそれについても混乱しています。」
シングアンは頷いてこう言いました、「これは本当に問題ですね。昨日の会議の後、私は帰宅してから主に祈りを捧げてこの節を理解しようとしてみました。今朝もう一回読んでみたら、突然理解できたんです。「その日、その時は、だれも知らない。」という節は、主がいつ再臨されるかは誰もしらないという意味ではありません。それは主が来られる日とその時間は誰も知らないという意味です。主が再臨された後、誰かが主に気が付くでしょう。そうでなければ、どうやって 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6) という主イエス様の御言葉が成就されるでしょう?「夜中に呼ぶ声がした」という節は、主が来られる時、誰かがそれを知るということを示しています。」
シンユーは驚いてこう言いました、「凄い!これは神の御啓示だわ!この節は主イエスが再臨される日とその時間は誰も知らないことを明確にしているし、それは私たちは主が再臨される正確な日を知らないことを意味しているわ。でも主が再臨して人々の中で働きをされる時は、間違いなく主に気が付く人たちがいるってことよ。これは、『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」』(マタイによる福音書25:6) という節を確証しているわ。そう思いませんか?でも、リュウ牧師は聖書を誤解して主がいつ再臨されるかは誰も知らないって仰っていたわ。彼の解釈は人々を誤った方向に導いていませんか?ああ!私たちは本当に無知だわ!この節の内容はとても明らかなのに、どうして以前は分からなかったのかしら?主イエスがいつ再臨されるかを知る人は間違いなく現れるわ。」
ユーハンはじっと考え込んでいました。彼女はシングアンとシンユーの話しを聞いた時、興奮しながらこう言いました、「主の御慈悲に感謝します。私は今日この交流を通じて、その節は主が再臨される正確な時は誰も知らないけど、主が再臨して働きを開始される時、誰かがそれを知ることになることを意味していると、やっと理解できました。主イエス様が恵みの時代に贖いの働きをするために受肉された時と同じです。預言者はメシアが来ると預言しましたが、何時どのようにして来るかは誰も知りませんでした。主イエス様が働きと説教を開始されたとたん、多くの人々が主イエス様に気が付きました。これと同じで、主が再臨される日とその時間は誰も知らないのです。しかし、主が再臨され、働きを開始されれば、間違いなく誰かが主に気が付くでしょう。そして主に気が付いた人たちはイエス・キリストの再臨を広め、その証言をするでしょう。そうですよね?」
シンユーは興奮して言いました、「その通りよ!主の御啓示が主の御言葉を理解させてくださったことに感謝します。イエス・キリストの再臨は些細なことではありません。私たち信者は皆、主が来られて私たちを天国にお連れくださると期待しています、そうですよね?」
ユーハンは嬉しそうに頷きました。そして、彼女はあることに気が付きました。彼女はシングアンを見てこう言いました、「主が再臨される正確な日を知らずにどうやって主の再臨をお迎えしたらいいんだろう?」
シングアンは少し考えてからこう言いました、「私もそのことを考えているんですよ。私は主に祈りを捧げて答えを探求しました。そして主がかつてこう仰ったことを思い出したんです:『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。』(ヨハネによる福音書10:27)。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネによる福音書16:12-13)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(ヨハネの黙示録3:20)。これらの聖句は全て、主は再臨なさる時にまた真理をお話しになることを示しています。賢い乙女は主の御声を聞いてイエス・キリストの再臨をお迎えし、主との宴に参加するのです。私たちは賢い乙女たちと同じように、主の新たな御言葉を探しに行くべきです。私たちは、花婿が来た!と誰かが声を上げるのが聞こえたら外に出て主をお迎えするべきです。神の御声に気が付くことができたら、イエス・キリストの再臨をお迎えして神の足跡を辿りますよね?」
ユーハンは嬉しそうに言いました、「もちろんです!主に感謝します!今日の交流は正に神から私たちへの御恵みです!これで、主の御声を聞き分けることが主を実際にお迎えするための道であることが分かりました!」
シンユーは「これで主をお迎えする道が見つかったんだ…」、と感情を込めて言いました。
寄稿家:シア・ハン
聖書の言葉ーあなたは終わりの日の教会の荒廃の根源を知っているのか
聖書の言葉
ヤーウェ神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」
アモス書8:11
感得:この聖句は人が霊的飢え渇き、否定的となり弱くなっている状態の中で生き、教会の荒廃の根源の原因になることを言いました。重要なことは、人が神様の言葉と働きを尋ね求めず、さらに神様の言葉を聞かず、神様の言葉の供給を失い、飢饉の中に陥ったのです。当時律法の時代の末期の神殿が荒れ果てる時の光景みたいです。なぜなら、神様がすでに神殿から離れ、つまり主イエスが神殿の外で言葉を語り贖いの働きをなさい、神様の新しい働きが展開したら、聖霊は神殿の中で働かず、主イエスの働きを維持するのです。それら主イエスに付き従う人々は、いのちの生ける水の供給を得られ、霊に満たされ、聖霊の働きの平安と喜びを享受することができました。しかも、それは先祖代々神殿の中で神様に仕えた祭司、律法学者、パリサイ人、またそれらのユダヤ人は、彼らはただ律法に固執し、主イエスの言葉と働きを拒否し、いのちの供給を得られず、聖霊の働きを失って、飢饉の中に生き、神殿は強盗の巣になったのです。彼らは主イエスに従わないだけではなく、主イエスの働きに抵抗し、罪に定め、主イエスを冒涜し、最終的にローマ政府と結託して、贖いの働きをなさる主イエスを生きたまま十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯し、神様に呪われてしまったのです。
今の宗教界を見てみましょう。ある牧師と長老、説教者は集会の時に、聖書の知識、神学理論を少し解説して、自己顕示し、自分を証し、人々に自分を崇拝させます。しかし、主の道を守らず、主の御言葉を言い伝えず、少しも主を証し、崇めることがなく、兄弟姉妹が聖書の働きと言葉を尋ね求めることをも導かないため、兄弟姉妹がいのちの生ける水の供給を得られなくなり、皆否定的となり弱くなっている状態の中に生き、信仰と愛が冷め、多くの人は世界の邪悪な流れに従い、金銭や名利、肉の享受を追い求め、罪のはかない歓楽にふけ、罪の中に生きていて抜け出すことができず、罪の深い淵に落ち、当時の神殿の荒廃の光景が再現しています。私たちは思わずこう考えます。今主の再来の預言はすでに実現され、主の再来を迎える肝心な時ですが、私たちは聖霊の働きを失って主の臨在がなくなり、これは本当に容易に主に見捨てられるでしょう。それでは、私たちはどのようにして主の足跡に付き従い、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の供給を得ることができるのでしょうか。主イエスの言葉を思い出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)主の言葉から私たちは、キリストは真理、道、いのちであり、神様の羊は神様の声を聞くことがわかりました。私たちは神様の足跡に付き従い、神様の出現を迎えたいなら、パリサイ人の信仰を失敗した教訓をくみ取り、終わりの日の主の再来の言葉と働きに対して、私たちは神様を畏れ敬う心を持って尋ね求め考察し、神様の声を心に留めれば、主の再来を迎える機会を得られ、いのちの生ける水の供給と注ぎを得られるのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」