いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神への祈りは、この三つの点を理解することがとても重要だ《その一》

2020-08-16 20:37:43 | 賛美の心

神への祈りは、この三つの点を理解することがとても重要だ《その一》

 兄弟姉妹の皆さん:

 主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

 実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

 第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。


 主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなくてはならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中では、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

 第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです。

 私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を与えて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

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神 への祈り方

 


2020年 讃美歌 メドレー 教会音楽 長時間、高音質

2020-08-15 23:14:27 | 賛美の心

2020年 讃美歌 メドレー 教会音楽 長時間、高音質

「あなたが神に心を開く時」

「あなたは神への真の愛を求めるべきだ」

「神は人間の苦難を経験する」

「万物は神の支配に従う」

「真の祈り」

「神が完全にするのは信仰である」

「神の権威は神の身分の象徴」

「神は聖霊の働きを持つ人々を完全にする」

「神は人の運命の唯一の支配者」

「神の人類への意志は決して変わらない」

「人間を救う働きとはサタンを打ち破る働きである」

「神の業は前進し続ける」

「神の救いの業の目的」

「神はそのすべての性質を人に明らかにした」

「 神の性質の象徴」

 


再臨のメシアが現れた。私たちはどのように探すべきか《その二》

2020-08-14 22:40:19 | 賛美の心

神様の出現をどのように探し求めるか
 つい先ほど、私たちは聖書の預言に基づいて、主の再来のもう一つの方法は密かに降臨されることに言及しました。では、私たちは神様の出現をどのように探し求めるべきでしょうか。主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)また『ヨハネの黙示録』の多くの箇所に預言されています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録第2、3章)主の言葉とヨハネの黙示録の預言から分かるのは、主の現れを探し求めることにおいて、消極的に主が雲に乗って降臨されるのを待ってはいけません。神様の声を聞くことを学び、諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。神様はどう言われるかを一緒に読んでみましょう。「神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。……

 ……神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。」

 神様の言葉から私たちが分かるのは、神様の現れをその目で見たいと思うなら、神様の足跡をたどりたいと願うなら、神様の語られた言葉を探し求めるべきです。以前、私たちは神様の現れを目で見るのは、主が霊体で白い雲に乗って突然私たちに現れることを指していると思っていました。実際のところ、神様が人間に姿を現すことは何かのしるしではなく、短期間で人間に現れることでもありません。神様が自ら人間の間に降臨されて人類を救う働きをなさり、古い時代を終わらせ、人間に真理を与えられ、人間を新しい時代へと導かれるのです。そのため、私たちは神様の語られた新しい言葉を見つけたら、神様の声を聞き、神様の出現を目で見ているのです。主イエスが現れて働きをなさった時のように、律法の時代を終わらせ、新しい時代を開かれ、悔い改めの道を語られ、人間に罪を告白し、悔い改め、寛容や忍耐、敵を愛するなどを教えてくださり、また天国の奥義、天国に入る条件を明らかにされるなどです。例えば、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)これらの言葉は私たちがどのように天国に入るかにかかわるのです。聞いたら、とても奥深く、権威と力があり、人間には話すことができないと感じ、受肉された神様が地上で語られた言葉です。それらの主イエスの説教を聞いて、神様の声であることが分かり、主イエスの働きを受け入れる人は、神様の出現を目にし、神様の足跡をたどっているのです。しかし、それらの律法に固執し、ただメシアの到来だけを待つ人は、主イエスの語られた言葉を聞いても、主イエスの行われた奇跡は人間にはできないことを目にしても、神様の出現だと認めません。かえって、主イエスが神様を汚し、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出していると裁き、罪に定めました。これらの人は神様の声を聞き分けないので、愚かな乙女であり、神様に露わにされ排除される対象です。したがって、私たちは主の現れを迎えるには、神様の声に注意を払って慎重に聞くことが肝心です。主イエスは既にご自身が再来される時にまた真理を語られると預言されました。例えば、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)またヨハネによる福音書17章17節にこう書かれています。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」ペテロの第一の手紙4章17節にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これらの聖句から分かるのは、主が再来される時に、私たちの霊的背丈によって、恵みの時代より多く、より高い真理を語られ、つまり「御霊が諸教会に言うこと」を語れて、そして神様の家から始まる裁きの働きをなさり、神様の語られる真理を用いて私たちの堕落した性質を清め、私たちが罪の束縛から解放され、清められて天国に入ることができるようになります。そのため、私たちは主の現れを迎えることにおいて、当面の急務は諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。


キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように成就されるのか

2020-08-13 21:21:55 | 賛美の心

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように成就されるのか

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように成就されるのか
宗教界の多くの人は、主が雲に乗って降臨されるという預言に執着しており、そのように主が来られて彼らを天国へと引き上げるのを待ち望んでいる。しかし、「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録16:15)や「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)など、主は密かにやって来られるという預言を見落としている。では、これら主の再臨についての預言はどのようにして満たされるのか?また、私たちはどうすれば主の再臨を迎える賢い乙女になれるのか?
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
特別声明:このビデオは、全能神教会によって非営利目的の作品として制作されました。登場人物はみな非営利目的で参加しており、いかなる形の報酬も受けていません。このビデオを営利目的で第三者に配布することはできません。皆様がこのビデオを配信し、多くの方と共有されることを願っています。配信時には、出典を明らかにしてください。いかなる組織、社会団体、または個人も、全能神教会の同意なくこのビデオの内容を改ざんしたり歪曲したりすることはできません。
 
 
 
 

 


再臨のメシアが現れた。私たちはどのように探すべきか《その一》

2020-08-12 23:10:29 | 賛美の心

再臨のメシアが現れた。私たちはどのように探すべきか

  【編集者メモ】ここ数年、災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、なぜ私たちはなかなか主が雲に乗って降臨されるのを見ていないのか。主は戻られたのか。主の再来はいったいどのように人間に現れ、私たちはどのようにして主を迎えることができるのか。この文章を読んで理解しましょう。

目次

1、主が雲に乗って降臨されるのを座して待つことで、神様の出現を見ることができるのか
2、神様の出現をどのように探し求めるか
3、神様は既に現れて働かれ、あなたは神様の声がわかったのか
    ここ数年、地震、飢饉、疫病などの災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、真心で主の出現を切望する多くの兄弟姉妹は、主が戻られたかもしれないと感じています。しかし、なぜ今、私たちはまだ主を迎えていないのか。主はいったいどこにおられるのか。私たちはどのように主の出現を探し求めるべきか。この話題に言及したら、ある人は、今主はまだ戻られていないので、探し求める必要がない、なぜなら聖書にはこう書かれています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)主が戻られる時に雲に乗って降臨され、気勢がすさまじく、今これらの光景はまだ現れていないので、主がまだ戻られていないことを証明していると思っています。

再臨のメシアが現れた

     今二つの違う考えがあります。では、主はいったい戻られたのか。主が再来の時にどのように人間に現れるのか。私たちは主が雲に乗って来られるのを待って、神様の出現を見て主を迎えることを保証できるのか。これらの問題に対して、私たちは一緒に交流しましょう。

主が雲に乗って降臨されるのを座して待つことで、神様の出現を見ることができるのか
    多くの兄弟姉妹は聖句「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づいて、主イエスが復活されて天に上った時に雲の乗って去り、主が再来される時にも、復活された霊体で雲に乗って来られ、主が雲に乗って降臨される光景を見ていない限り、主がまだ来られていないことを意味すると思っています。しかし、私たちのこのような理解の仕方は完全に神様の心にかなうと保証できますか。ヤーウェ神は言われました。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっているとヤーウェ神は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8~9)神様の知恵は天より高く、私たち被造物である人間はどうして神様の働きを推し測ることができようか。終わりの日に主はいったいどのように現れて働かれるかについて、私たち人間はこれを決めつけるべきではありません。当時聖書にメシアが来ると預言され、結局主イエスが来られたように、これは私たち人間が想像できるものでしょうか。当時のパリサイ人は傲慢で高ぶり、自分の観念と想像に固執したため、神様に抵抗する人になりました。主イエスの言葉と働きにはどれほどの権利や力をもっていても、彼らはひたすらに観念と想像に基づいて神様の働きを決めつけ、メシアが来られて権力を担うので、きっと王の宮殿に生まれ、そして外見が威風堂々としていると思っていました。そのため、彼らは主イエスが普通のユダヤ人であり、名前もメシアと呼ばず、王の宮殿に生まれなかったことを見たとき、主の働きを拒絶して受け入れなかっただけでなく、ひいてはローマ政府と共謀して主イエスを十字架に釘付けにしてしまい、最後に神様の懲罰を受けたのです。しかし、パリサイ人はどのように主を罪に定めても、主に抵抗しても、主イエスが現れて働かれたことは事実であり、そして全人類を贖う働きを完成させたのです。ゆえに、神様の出現と働きであるかどうかは、人間が認めるかどうかによって決まるのではなく、神様の働きの事実に基づくのです。今、災害が頻発しており、イスラエルが戻り、四つの血の月は既に現れ、これはまさに主の再来の預言を実現しています。もし、主は既に戻って来られたら、私たちはまだ消極的に主が雲に乗って降臨されることを待っていて、パリサイ人が主イエスに抵抗したことと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。神様が言われた通りです。「あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。」

    実は、終わりの日に主はいったいどのように来られるかについて、聖書には雲に乗って降臨される預言以外に、密かに降臨される預言もあります。例えば、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録3:3)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)これらの聖句は「夜中に叫ぶ声がした」「盗人のよう」と言及し、これは主が再来される時にこっそりと来られ、密かに人の間に降臨され、言葉で私たちに戸を叩くことを示しています。もし、終わりの日に主が雲に乗って降臨され私たちに現れるなら、これらの預言はまたどのように実現されるのか。もし、主が雲に乗って降臨されるなら、まだ人に戸を叩く必要があるのか。もし、主が雲に乗って主を信じるすべての人に現れるなら、すべての人があえて抵抗できず、みな主の御前にひれ伏すのですが、聖書に預言された主が再来される時に、毒麦と麦、ヤギと羊、愚かな乙女と賢い乙女を分ける働きをどのように成就されるのか。そのため、私たちは一節また二節の預言に基づいて、主の再来は白い雲に乗って私たちに現れると決めつけてはいけません。このようにして容易に神様の意図を誤解してしまうのです。