キリスト教会寸劇「救いを獲れば天国に入れるのか」
主の再臨の預言は基本的に成就し、終わりの日の警鐘を鳴らした
現在、人類の堕落と邪悪は頂点に達し、聖書にある主の再臨の預言は基本的に成就されました。世界中で災害がますます深刻になり、地震、疫病、飢饉、戦争が頻発するとともに、天にはめったに見られない現象が出現しています。主の再臨の日が到来し、多くの敬虔なクリスチャンが、主はすでに戻られたという感覚を抱いているのです……
関連する神の言葉
言葉は肉において現れる
第一章
シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現われた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。
全能神よ! 私たちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真に私たちの贖い主、全宇宙の偉大なる王! あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救いの)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示が私たちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。私たちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。私たちはまさに祝福されている! 日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくして私たちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、私たちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、私たちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、私たちの思いや考えは神によって露わにされる。私たちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。私たちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、私たちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。
今や聖霊が私たちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずや私たちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、私たちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。
洗礼はクリスチャンが主に向かう一つの儀式です。多くの人は皆洗礼した後、罪に死に、恵みによって救われて聖いいのちがあることを表すと思います。しかし、洗礼の後に依然として罪を犯しては告白する光景の中に生き、このままで主が再来されるときに、本当に天国に引き上げられるのか。「洗礼して必ず救われること」をどのように理解するのか。文章を閲読して、あなたに新たな光をもたらします。
神を信じる道をたどる
わたしは小さいころからお母さんと共に菩薩を信仰していました。だが、結婚した後、夫が鬱病にかかったため、家の中でごたごたが絶えなかったのです。この時、わたしは菩薩や如来を信仰しても役に立たないと感じました。そのため、わたしの気持ちがずっと落ち込んでいました。ある日、わたしは一人の年取ったおばさんに出会いました。彼女はわたしに主イエスを信じるように勧めました。主イエスは真の神であって、天地万物を創造することができるだけでなく、また死人を復活させ、生きている人を変えることができると、彼女はそう言いました。彼女のこの言葉がわたしの心を動かしました。あの時わたしは、自分が主を信じた後、主がいつでもわたしを助け、またわたしの頼りとなることを期待していました。そのため、わたしは神を信じる上で大きな力を持っています。週末になると、わたしはこのおばさんと一緒に教会堂に行って集会に参加します。わたしは一度も欠席しようとしません。
洗礼を受けてキリストに結ばれた
数か月後、教会堂は洗礼を受けることになった兄弟姉妹たちに勉強会に参加することを知らせました。わたしは「洗礼を受ける」という言葉を聞くと、この言葉が新鮮だと感じ、それに好奇心を持つようになりました。すると、わたしはおばさんに、洗礼を受けるとはどういうことか、なぜ洗礼を受けなければならないかを聞きました。おばさんはこう言いました。「洗礼を受けることは、一種の儀式のように見えますが、わたしたちが主の追随者になるのに必要な手順です。洗礼を受けると、わたしたちは神の家の人になります。こうして、大きなことにおいても小さなことにおいても、神はわたしたちを助けてくださいます。しかもわたしたちがどこへ行っても、神はわたしたちを顧みます。今、あなたは主を信じたけれど、洗礼を受けていません。それは、あなたがまだ神の家の門の外にいることを意味しています」。わたしは洗礼を受けることがこんなに重要だと聞くと、「わたしも洗礼を受けて神の家の一員になりたい。わたしは門の外の者になりたくない!」と思いました。それ以後、わたしは心の準備ができて、その日の到来を切に待ち望んでいました。
洗礼を受ける日がとうとう来ました。その日、わたしは早々と集会所に着きました。そこに着いた時、十数人の洗礼を受けたい人はもう列を作って待っていました。わたしはどのように洗礼を受けるかを見てみたくて、あたりを見回していました。この時、牧師は道を説き、次の言葉を読みました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子名によっと聖霊のて洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:19-20)。牧師がクリスチャンが洗礼を受けることの意義を語った後、洗礼を授ける儀式は始まりました。都会に川がないから、洗礼を授ける儀式は非常に簡単でした。水を入れた洗面器1つ、タオル1本、牧師1人、手伝い人1人。当時、ある姉妹が地面にひざまずいていました。手伝い人は水を入れた洗面器を両手で持って、牧師のそばで立っていました。牧師があの姉妹の名前を呼ぶと、あの姉妹は返事をしました。牧師は「わたしは聖なる父と聖なる子と聖霊の名によってあなたに洗礼を授けます」と言い、そして手で水をすくってこの姉妹の頭上に注ぎました。この時、手伝い人はすぐタオルでその水をぬぐいました。こうして、洗礼を授ける過程が終わりました。牧師がわたしに洗礼を授ける時、わたしは自分がもうすぐ真のクリスチャン、神の家の一員になると思って、言い表せないほど喜び、興奮しました。
この小さな儀式はわたしに次のことを分からせました。洗礼を受けることは、すべての信徒に対する主の要求です。それは、信徒がキリストが死に、葬られ、復活したことを認めることを意味しています。儀式の形式から言えば、わたしたちの体が水に浸ることは、わたしたちが罪の中で死ぬことを象徴し、わたしたちが水から上がることは、救いによって、きよい聖なる命が現れることを象徴します。ローマの信徒への手紙第6章4節でこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。わたしたちがキリストを受け入れ、イエスと共に死ぬことによって、罪はもはや死んだわたしたちを束縛しなくなります。神がこう言われたからです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」(ヘブ8:12)。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。……
信じて洗礼を受ける者は救われると、わたしは確信している
洗礼を受けた後、わたしは非常にうれしかったのです。洗礼を受けたその瞬間、わたしの命はもはや罪、邪悪な勢力に属さなくなり、もはや自分に属さなくなり、それ以後、神がわたしを顧み、守り、わたしと共にあると、わたしは思っていました。なぜなら、神は人を赦し、また人の罪を赦されました。しかも主は「信じて洗礼を受ける者は救われる……」(マコ16:16)と言われました。だから、それ以後の日常生活の中で、わたしは主の言葉にしたがって行うことをいっそう重んじます。ある時、夫は気持ちが悪くて、わたしをののしりました。すると、わたしはつらい気持ちになって、彼がご飯を食べるかどうか、腹がすいたかどうかをかまいたくなくなり、彼と一言も話さないと決めました。しかし、主がわたしたちに人を七十七回赦すように教えたことを思い出し、また聖書に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」(エフェ4:26-27)と書かれている言葉を思い出した時、わたしは進んで夫と話し、依然として彼の生活を気遣うのでした。わたしはまたいつも、我が家の近くに住んでいる、生活に困った姉妹を助けます。祝日、休日になると、彼女にお金を施して、彼女に家族の生活を改善させます。もし入院する姉妹があれば、わたしは栄養食品を買って、ほかの姉妹と一緒に病院に見舞いに行き、また彼女のために祈ります。特に毎月聖餐式が行われる時、わたしはいくら忙しくても参加します。わたしは次のことをかたく信じています。わたしが洗礼を受けた後、主はもはやわたしの罪を覚えなくなります。わたしが依然として罪を犯すのですが、わたしが聖餐を食べるたびに、主の尊い血がわたしの罪をきよめます。そのため、わたしはきっとキリストの中で聖なる者となります。しかも主イエスが御国に入られる時、わたしがきっと天の国の中に携え上げられることができます。
お姉さんの一言でわたしははっと悟った
わたしはずっと受洗を、わたしが救われることの証拠としています。しかも主は「信じて洗礼を受ける者は救われる……」と約束されました。そのため、わたしは主イエスが戻って信徒を迎えられる時、わたしがきっと最初に天の国の中に携え上げられると確信しています。ある日、わたしとわたしの職場に新しく来たお姉さんは雑談していました。そんな中で、主を信じることに言及しました。それで、わたしはお姉さんが小さいころからお母さんと一緒に主を信じ、今彼女がもう説教者になったと知りました。そして、わたしは彼女にわたしの考え方を自信満々に言いました。思いがけずお姉さんはこう言いました。「主イエスがわたしたちの罪を赦したのは確かですが、これはわたしたちに罪がなく、わたしたちが罪の束縛から逃れてきよくなることを意味しません」。そして彼女はわたしに「主イエスがわたしたちの罪を赦されましたが、この『罪』は一体何を指しますか」と聞きました。わたしは考えながら言いました、「怒り、殺意、ねたみ、それから……」。
姉妹はわたしが答えられないのを見て、わたしの言葉を引き取って話しました。「姦淫や盗みなど、すべて律法、戒め、神の言葉に背くことは罪です。神に逆らい、神を罪定めし、神を裁くすべてのやり方も罪です。神を冒涜するやり方はなおさらそうです。それは赦されることのない罪です! 主イエスはこの世に来られた後、自ら十字架に行ってわたしたち人類の罪祭となりました。だから、わたしたちが主に祈り、罪を告白し、悔い改めれば、罪に定められ、死に処せられることがなくなります。つまり、神はもはや人を罪人として扱わなくなり、わたしたちは罪の赦しを得たため、直接主に祈り、主の恵みを享受することができます。これは、『罪の赦しを得る』ことの真意です。わたしたちの罪は主イエスの罪祭のゆえに赦されましたが、これはわたしたちがもはや罪を犯して神に逆らうことをしないことを意味しません。なぜなら、わたしたちの罪を犯す本性はやはり存在していて、わたしたちは依然として神に逆らい、神を裏切り、神と敵対します。主イエスのなさった贖いの仕事は人の罪を赦しただけで、わたしたちの腐敗した性質を赦しませんでした。傲慢で独りよがりだとか、利己的で貪欲だとか、曲っていて狡猾だなど、これらのサタン的性質は依然としてわたしたちの内側に存在しています。これらの腐敗した性質は罪よりさらに根深く頑固なものであり、またわたしたちが罪を犯して神に逆らう根本原因です。これらの腐敗したサタン的性質が解決されなければ、わたしたちは常に罪を犯し、依然として観念、想像によって神を裁き、罪定めします。迫害、患難が臨んだら、わたしたちは神を否定し、しかもユダになって神を裏切ります。地位を持ったら、わたしたちは自分の独立した王国を建てて神に対抗します。ある人たちはいけにえを盗み食いしさえしました。それで、神の性質を犯した彼らは神に罪定めされて滅びました。……だから、こんなわたしたちが主によって天の国の中に携え上げられることは不可能です。ヤーウェ神がこう言われたからです。『あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である』(レビ19:2)。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる』(ヨハ8:34-35)」。
これらの言葉を聞いた後、わたしは彼女の透徹していて深い理解に驚き、また心の中で、彼女の言っていることは事実だと認めました。わたしたちの教会堂の牧師たちはいつも教会堂の使い方をめぐって互いに裁き、攻撃します。そのため、彼らの間にねたみ、論争が絶えません。わたし自身もいつも罪の中に生きていて、違犯に征服されます。例えば、夫が家で理由なく悶着を起こすと、わたしは心の中で彼を恨み、彼に取り合いたくなくなります。ある姉妹は気が弱いが、都市に部屋を持っており、毎日何もしないが衣食に困りません。そのため、わたしは彼女に嫉妬し、しかも少し彼女を軽蔑しました。……細かく考えてみれば、わたしは確かにきよくありません。それではどうして天の国に入る資格を持つことができるでしょうか。これで分かりますが、洗礼を受けることは天の国に入る先決条件ではなく、罪を脱ぎ捨ててきよくなってこそ、天の国に入る資格を持つことができます! この時、わたしはやっと迷いから覚めました。
聖書を調べてから、主が世の終わりに裁くのを見た
それ以後、わたしはもはや受洗を資本としなくなり、また自分が主によって天の国の中に携え上げられることを夢見ず、毎日まじめに聖書を読み、祈り、毎回の集会で姉妹たちと証しを分かち合います。ある日聖書を読む時、わたしは聖書に「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペテ一4:17)と書いてあるのを突然見ました。この時、わたしは聖書には「裁き」に関する箇所がたくさんあるのを思い出しました。すると数箇所を探してお姉さんと交流し、彼女にどのように聖書のこれらの言葉を理解するかを聞きました。お姉さんは真心をこめて言いました。「以前、わたしもあなたと同じでした。洗礼を受けてキリストに結ばれた自分はもう救われたと思っていました。そのため、ただ主が戻って自分を天の国に迎え入れるのを待っていました。後で聖書にこう書かれているのを見ました。『キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです』(ヘブ9:28)。聖書のこれらの言葉を見た後、わたしはこのことを知りました。主イエスの仕事はまだ終わっていません。主は二度目に現れる時、わたしたち人類を裁かれます。しかし、あの時の裁きはわたしたちを罪定めして滅ぼすためではなく、働いてわたしたちを救うためです。……」。わたしはこれらの言葉を聞いて愕然として、それは本当だと信じられませんでした。しかし、聖書にははっきりと書かれているので、わたしは一言も反論できませんでした。それで、心の中で主に呼び求めました。「主よ、あなたのみこころをわたしたちに明らかにしてください。あなたはいつ戻って裁きを行われますか。子はこの日の到来を待ち望んでいます。……」。
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