いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

キリスト教会寸劇「救いを獲れば天国に入れるのか」

2020-08-11 22:32:50 | 賛美の心

キリスト教会寸劇「救いを獲れば天国に入れるのか」

【寸劇】キリスト教動画 「救いを得れば天国に入れるのか」日本語吹き替え チャン・ムデは家庭教会の説教者であり、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙10:10)と信じ、「私は主イエスを信じているのだから、すでに義人とされている。すでに救いを得ているのだ。主が再臨されたとき、天国に直接携挙して頂ける」と思っています。 ある日、彼の娘がよその地域での宣教活動から帰宅し、彼が何年も抱いていたこの見解に疑問を投げかけます。 その後、三人家族は、「救いを得ることで天国に入れるか否か」、「どんな種類の人が天国に入れるか」、それに関連した問題について激論を始めます。 
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キリスト教讃美歌メドレー2020

2020-08-10 19:10:31 | 賛美の心

 

キリスト教讃美歌メドレー2020

 

キリスト教讃美歌メドレー2020
00:00:00 人はどうやって真の祈りに入るのか
00:05:51 神を愛する者は幸いである
00:11:31 あなたは神への真の愛を求めるべきだ
00:17:11 神の愛は最も真実である
00:23:19 人類が安息に至る唯一の道
00:28:50 真理はあらゆる人生の格言の最高峰
00:33:49 神の言葉を大切にする者は祝福される
00:39:09 あなたが神に心を開く時
00:44:06 神が人に授ける最高の祝福
00:49:55 神の言葉の現実の中に入るには
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主の再臨の預言は基本的に成就し、終わりの日の警鐘を鳴らした

2020-08-08 22:23:48 | 賛美の心

主の再臨の預言は基本的に成就し、終わりの日の警鐘を鳴らした

 現在、人類の堕落と邪悪は頂点に達し、聖書にある主の再臨の預言は基本的に成就されました。世界中で災害がますます深刻になり、地震、疫病、飢饉、戦争が頻発するとともに、天にはめったに見られない現象が出現しています。主の再臨の日が到来し、多くの敬虔なクリスチャンが、主はすでに戻られたという感覚を抱いているのです……

関連する神の言葉

 「神のすることは全てが緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって、神はその事や状況に対応するための計画を開始するのか、どのようにそれを扱うのかを決めます。神は無関心であったり無感情であったりするのではありません。実際には全くその逆です。この聖書のくだりでは神はノアにこう言っています。『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう』。この時神は人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は全て肉なるものを滅ぼすと言っています。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここにもう一つの神の性質の現れがあります。神の目には、人間の堕落、全ての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対する忍耐の限界がありました。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。『神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである』。この『すべての人が地の上でその道を乱したからである』という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含む生きる全ての者も、彼らの態度が堕落に満ち、神の目に抵触したことがあるので、神は彼らを滅ぼさなければならないということです。それが神の限界でした。ではどの程度まで、神は人間に耐えられ、肉なるものの堕落に耐えられたのでしょうか。全ての人々は、神に従っていた人であろうと未信者であろうと、正しい道を歩んではいませんでした。人間は単に道徳的に堕落し悪に満ちていただけではありません。神の存在を信じていた者はおらず、ましてや神が世界を支配していることや、神が人々に光を与え正しい道へ導くことができると信じていた者などいませんでした。人間は神の存在を憎み、神の存在を認めませんでした。人間の堕落がここまで来てしまうと、神はもう忍耐することはありません。ではその状態は何と取って代わられるのでしょうか。神の怒りと懲罰の到来です。それは神の性質の現れの一部分ではないでしょうか。この時代にあっても、神の目にあって正しい者はいるのでしょうか。神の目にあって完全な者はいるのでしょうか。今の時代は地上の全て肉なる者の振る舞いが神の目に堕落と映る時代でしょうか。この日この時代に、神が完全にしたいと望む者、神に従い、神の救いを受け入れている者を除けば、全て肉なる者は神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。身の回りに起こる全てのこと、自分の目で見て耳で聞くこと、そしてそれぞれがこの世で日々経験することは不法で満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような時代、このような世界はもう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とは全く違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りは、ノアの時代のものと全く同じです。神はその働きゆえに耐えることができます。しかし神の目からすれば、全ての状況や条件を考えるならば、この世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる以前の世界よりもはるかにひどいものです。」

「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 「人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。実際のところ、全ての始まりから現在に至るまで、神は人類のために悲劇を上演してきたのであり、その悲劇の中で人間は主人公でもあり被害者でもある。そして、この悲劇の監督が誰であるのか答えることのできる者はいない。

 この広大な世界で、数え切れないほどの変化が起こっている。大海は変じて田園となり、田園は変じて大海となり、これが何度も繰り返されている。宇宙の万物を統治する方を除いては、この人類を導き案内できる者はいない。この人類のために労したり備えたりできる力ある者は存在せず、ましてや人類を光の終着点へと導き、この世の不正から解放できる者などいるはずもない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。それゆえ、今回人類を救おうとする神の苦心や切なる期待を理解できる者は一人もいない。」

「神は人間のいのちの源である」より引用

 「終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては陽気ですばらしい世界のように見え、ますますそうなっていくように思われる。人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術に携わっている人々に騙されるだろう。」

「実践(2)」より引用

 「今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけでなく、全宇宙に向き合い、天空全体を揺り動かす。わたしの裁きが下されない場所が一つでもあるだろうか。わたしの降らせる災難が存在しない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、ありとあらゆる『災いの種』を蒔いた。これは、わたしが働く方法の一つであり、人間を救う業であるのは間違いなく、わたしが人間に差し伸べるものは依然として一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見られるようにするとともに、そうして長きにわたって見られなかった神、いまや現実である神を崇められるようにしたい。」

「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より引用

 「あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。」

「キリストの初めの言葉」の「第六十五章」より引用

 「すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。しかしわたしの子らは安らかに休むことができる。あなた方の上にひとつの災害も降りかかることはなく、わたしはあなた方を守る(つまり、あなた方はその後、肉ではなく、体の中で生きるので、どんな災害の苦痛も受けない)。あなた方はただわたしと一緒に王として支配し、すべての国とすべての民を裁き、宇宙の隅々で永遠にわたしと素晴らしい祝福を楽しむだろう。これらの言葉はすべて成就され、間もなくあなたの目の前で達成されるだろう。わたしは一刻、一日も遅れることなく、驚くほど迅速に事を行う。心配したり心を騒がせたりしてはならない。わたしがあなたに与える祝福は、誰もあなたから奪うことのできないものだ――これがわたしの行政命令である。わたしの業の故に、すべての人々がわたしに従順になるであろう。彼らは歓呼し続けるだけでなく、さらに喜んで跳び上がり続けるだろう。」

「キリストの初めの言葉」の「第九十二章」より引用

 「あなたの目を開いて見回してみなさい。そうすれば、わたしの偉大な力をどこにでも見ることができるだろう。あなたはどこにいてもわたしのことを確信できるだろう。宇宙と広大な大空がわたしの大いなる力を拡大している。わたしが語った言葉は、天候の温暖化において、気候変動において、人々の異常と社会的原動力の無秩序、そして人々の心の欺瞞において、すべて現実となった。太陽は白くなり、月は赤くなり、すべてが混乱している。あなた方にはまだこれらのことが見えないのか。

 そこには神の大いなる力が現されている。彼こそが、人々が長年追い求めてきた唯一の真の神―全能者であることは、疑う余地が無い。誰がまず最初に語り、それから、ものごとを生じさせることができるだろうか。わたしたちの全能神だけである。彼が話すやいなや、真実はすぐに現れる。彼が真の神であると、言えないことなどあろうか。」

「キリストの初めの言葉」の「第三十九章」より引用

 「世界では、地震が災いの始まりである。まず最初に、わたしはこの世界、つまり地球を変える。その次に疫病と飢餓が続く。これがわたしの計画であり、わたしの段階であり、わたしは、わたしに仕えさせるために全てのものを動員し、わたしの経営(救いの)計画を全うする。こうして、わたしが直接関与することもなく、宇宙と世界全体は滅びるであろう。わたしが最初に肉となり十字架に付けられたとき、地は激しく揺らいだ。終わりの時にもそれと同じ事が起きる。わたしが肉から霊的領域に入った瞬間に地震が発生する。だから、わたしは、長子が災害に遭うことは絶対にないと言うのだ。長子以外の人々は災害の中に残されて苦しむであろう。それ故、人間は誰もが長子になることを望む。」

リストの初めの言葉」の「第百八章」より引用

 「しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。」

「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より引用

 
 

 

 

 


言葉は肉において現れる 第一章

2020-08-07 21:28:21 | 賛美の心

言葉は肉において現れる

第一章

 シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現われた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。

 全能神よ! 私たちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真に私たちの贖い主、全宇宙の偉大なる王! あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救いの)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示が私たちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。私たちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。私たちはまさに祝福されている! 日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくして私たちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、私たちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、私たちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、私たちの思いや考えは神によって露わにされる。私たちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。私たちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、私たちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。

 今や聖霊が私たちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずや私たちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、私たちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。

 

 


わたしが洗礼を受けた後

2020-08-05 22:02:00 | 賛美の心

 洗礼はクリスチャンが主に向かう一つの儀式です。多くの人は皆洗礼した後、罪に死に、恵みによって救われて聖いいのちがあることを表すと思います。しかし、洗礼の後に依然として罪を犯しては告白する光景の中に生き、このままで主が再来されるときに、本当に天国に引き上げられるのか。「洗礼して必ず救われること」をどのように理解するのか。文章を閲読して、あなたに新たな光をもたらします。

 神を信じる道をたどる

 わたしは小さいころからお母さんと共に菩薩を信仰していました。だが、結婚した後、夫が鬱病にかかったため、家の中でごたごたが絶えなかったのです。この時、わたしは菩薩や如来を信仰しても役に立たないと感じました。そのため、わたしの気持ちがずっと落ち込んでいました。ある日、わたしは一人の年取ったおばさんに出会いました。彼女はわたしに主イエスを信じるように勧めました。主イエスは真の神であって、天地万物を創造することができるだけでなく、また死人を復活させ、生きている人を変えることができると、彼女はそう言いました。彼女のこの言葉がわたしの心を動かしました。あの時わたしは、自分が主を信じた後、主がいつでもわたしを助け、またわたしの頼りとなることを期待していました。そのため、わたしは神を信じる上で大きな力を持っています。週末になると、わたしはこのおばさんと一緒に教会堂に行って集会に参加します。わたしは一度も欠席しようとしません。

 洗礼を受けてキリストに結ばれた

 数か月後、教会堂は洗礼を受けることになった兄弟姉妹たちに勉強会に参加することを知らせました。わたしは「洗礼を受ける」という言葉を聞くと、この言葉が新鮮だと感じ、それに好奇心を持つようになりました。すると、わたしはおばさんに、洗礼を受けるとはどういうことか、なぜ洗礼を受けなければならないかを聞きました。おばさんはこう言いました。「洗礼を受けることは、一種の儀式のように見えますが、わたしたちが主の追随者になるのに必要な手順です。洗礼を受けると、わたしたちは神の家の人になります。こうして、大きなことにおいても小さなことにおいても、神はわたしたちを助けてくださいます。しかもわたしたちがどこへ行っても、神はわたしたちを顧みます。今、あなたは主を信じたけれど、洗礼を受けていません。それは、あなたがまだ神の家の門の外にいることを意味しています」。わたしは洗礼を受けることがこんなに重要だと聞くと、「わたしも洗礼を受けて神の家の一員になりたい。わたしは門の外の者になりたくない!」と思いました。それ以後、わたしは心の準備ができて、その日の到来を切に待ち望んでいました。

洗礼とは,洗礼意味,洗礼を受ける

 洗礼を受ける日がとうとう来ました。その日、わたしは早々と集会所に着きました。そこに着いた時、十数人の洗礼を受けたい人はもう列を作って待っていました。わたしはどのように洗礼を受けるかを見てみたくて、あたりを見回していました。この時、牧師は道を説き、次の言葉を読みました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子名によっと聖霊のて洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:19-20)。牧師がクリスチャンが洗礼を受けることの意義を語った後、洗礼を授ける儀式は始まりました。都会に川がないから、洗礼を授ける儀式は非常に簡単でした。水を入れた洗面器1つ、タオル1本、牧師1人、手伝い人1人。当時、ある姉妹が地面にひざまずいていました。手伝い人は水を入れた洗面器を両手で持って、牧師のそばで立っていました。牧師があの姉妹の名前を呼ぶと、あの姉妹は返事をしました。牧師は「わたしは聖なる父と聖なる子と聖霊の名によってあなたに洗礼を授けます」と言い、そして手で水をすくってこの姉妹の頭上に注ぎました。この時、手伝い人はすぐタオルでその水をぬぐいました。こうして、洗礼を授ける過程が終わりました。牧師がわたしに洗礼を授ける時、わたしは自分がもうすぐ真のクリスチャン、神の家の一員になると思って、言い表せないほど喜び、興奮しました。

 この小さな儀式はわたしに次のことを分からせました。洗礼を受けることは、すべての信徒に対する主の要求です。それは、信徒がキリストが死に、葬られ、復活したことを認めることを意味しています。儀式の形式から言えば、わたしたちの体が水に浸ることは、わたしたちが罪の中で死ぬことを象徴し、わたしたちが水から上がることは、救いによって、きよい聖なる命が現れることを象徴します。ローマの信徒への手紙第6章4節でこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。わたしたちがキリストを受け入れ、イエスと共に死ぬことによって、罪はもはや死んだわたしたちを束縛しなくなります。神がこう言われたからです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」(ヘブ8:12)。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。……

 信じて洗礼を受ける者は救われると、わたしは確信している

 洗礼を受けた後、わたしは非常にうれしかったのです。洗礼を受けたその瞬間、わたしの命はもはや罪、邪悪な勢力に属さなくなり、もはや自分に属さなくなり、それ以後、神がわたしを顧み、守り、わたしと共にあると、わたしは思っていました。なぜなら、神は人を赦し、また人の罪を赦されました。しかも主は「信じて洗礼を受ける者は救われる……」(マコ16:16)と言われました。だから、それ以後の日常生活の中で、わたしは主の言葉にしたがって行うことをいっそう重んじます。ある時、夫は気持ちが悪くて、わたしをののしりました。すると、わたしはつらい気持ちになって、彼がご飯を食べるかどうか、腹がすいたかどうかをかまいたくなくなり、彼と一言も話さないと決めました。しかし、主がわたしたちに人を七十七回赦すように教えたことを思い出し、また聖書に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」(エフェ426-27)と書かれている言葉を思い出した時、わたしは進んで夫と話し、依然として彼の生活を気遣うのでした。わたしはまたいつも、我が家の近くに住んでいる、生活に困った姉妹を助けます。祝日、休日になると、彼女にお金を施して、彼女に家族の生活を改善させます。もし入院する姉妹があれば、わたしは栄養食品を買って、ほかの姉妹と一緒に病院に見舞いに行き、また彼女のために祈ります。特に毎月聖餐式が行われる時、わたしはいくら忙しくても参加します。わたしは次のことをかたく信じています。わたしが洗礼を受けた後、主はもはやわたしの罪を覚えなくなります。わたしが依然として罪を犯すのですが、わたしが聖餐を食べるたびに、主の尊い血がわたしの罪をきよめます。そのため、わたしはきっとキリストの中で聖なる者となります。しかも主イエスが御国に入られる時、わたしがきっと天の国の中に携え上げられることができます。

バプテスマ,バプテスマ意味,洗礼とは

 お姉さんの一言でわたしははっと悟った

 わたしはずっと受洗を、わたしが救われることの証拠としています。しかも主は「信じて洗礼を受ける者は救われる……」と約束されました。そのため、わたしは主イエスが戻って信徒を迎えられる時、わたしがきっと最初に天の国の中に携え上げられると確信しています。ある日、わたしとわたしの職場に新しく来たお姉さんは雑談していました。そんな中で、主を信じることに言及しました。それで、わたしはお姉さんが小さいころからお母さんと一緒に主を信じ、今彼女がもう説教者になったと知りました。そして、わたしは彼女にわたしの考え方を自信満々に言いました。思いがけずお姉さんはこう言いました。「主イエスがわたしたちの罪を赦したのは確かですが、これはわたしたちに罪がなく、わたしたちが罪の束縛から逃れてきよくなることを意味しません」。そして彼女はわたしに「主イエスがわたしたちの罪を赦されましたが、この『罪』は一体何を指しますか」と聞きました。わたしは考えながら言いました、「怒り、殺意、ねたみ、それから……」。

 姉妹はわたしが答えられないのを見て、わたしの言葉を引き取って話しました。「姦淫や盗みなど、すべて律法、戒め、神の言葉に背くことは罪です。神に逆らい、神を罪定めし、神を裁くすべてのやり方も罪です。神を冒涜するやり方はなおさらそうです。それは赦されることのない罪です! 主イエスはこの世に来られた後、自ら十字架に行ってわたしたち人類の罪祭となりました。だから、わたしたちが主に祈り、罪を告白し、悔い改めれば、罪に定められ、死に処せられることがなくなります。つまり、神はもはや人を罪人として扱わなくなり、わたしたちは罪の赦しを得たため、直接主に祈り、主の恵みを享受することができます。これは、『罪の赦しを得る』ことの真意です。わたしたちの罪は主イエスの罪祭のゆえに赦されましたが、これはわたしたちがもはや罪を犯して神に逆らうことをしないことを意味しません。なぜなら、わたしたちの罪を犯す本性はやはり存在していて、わたしたちは依然として神に逆らい、神を裏切り、神と敵対します。主イエスのなさった贖いの仕事は人の罪を赦しただけで、わたしたちの腐敗した性質を赦しませんでした。傲慢で独りよがりだとか、利己的で貪欲だとか、曲っていて狡猾だなど、これらのサタン的性質は依然としてわたしたちの内側に存在しています。これらの腐敗した性質は罪よりさらに根深く頑固なものであり、またわたしたちが罪を犯して神に逆らう根本原因です。これらの腐敗したサタン的性質が解決されなければ、わたしたちは常に罪を犯し、依然として観念、想像によって神を裁き、罪定めします。迫害、患難が臨んだら、わたしたちは神を否定し、しかもユダになって神を裏切ります。地位を持ったら、わたしたちは自分の独立した王国を建てて神に対抗します。ある人たちはいけにえを盗み食いしさえしました。それで、神の性質を犯した彼らは神に罪定めされて滅びました。……だから、こんなわたしたちが主によって天の国の中に携え上げられることは不可能です。ヤーウェ神がこう言われたからです。『あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である』(レビ19:2)。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる』(ヨハ8:34-35)」。

 これらの言葉を聞いた後、わたしは彼女の透徹していて深い理解に驚き、また心の中で、彼女の言っていることは事実だと認めました。わたしたちの教会堂の牧師たちはいつも教会堂の使い方をめぐって互いに裁き、攻撃します。そのため、彼らの間にねたみ、論争が絶えません。わたし自身もいつも罪の中に生きていて、違犯に征服されます。例えば、夫が家で理由なく悶着を起こすと、わたしは心の中で彼を恨み、彼に取り合いたくなくなります。ある姉妹は気が弱いが、都市に部屋を持っており、毎日何もしないが衣食に困りません。そのため、わたしは彼女に嫉妬し、しかも少し彼女を軽蔑しました。……細かく考えてみれば、わたしは確かにきよくありません。それではどうして天の国に入る資格を持つことができるでしょうか。これで分かりますが、洗礼を受けることは天の国に入る先決条件ではなく、罪を脱ぎ捨ててきよくなってこそ、天の国に入る資格を持つことができます! この時、わたしはやっと迷いから覚めました。

 聖書を調べてから、主が世の終わりに裁くのを見た

 それ以後、わたしはもはや受洗を資本としなくなり、また自分が主によって天の国の中に携え上げられることを夢見ず、毎日まじめに聖書を読み、祈り、毎回の集会で姉妹たちと証しを分かち合います。ある日聖書を読む時、わたしは聖書に「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペテ一4:17)と書いてあるのを突然見ました。この時、わたしは聖書には「裁き」に関する箇所がたくさんあるのを思い出しました。すると数箇所を探してお姉さんと交流し、彼女にどのように聖書のこれらの言葉を理解するかを聞きました。お姉さんは真心をこめて言いました。「以前、わたしもあなたと同じでした。洗礼を受けてキリストに結ばれた自分はもう救われたと思っていました。そのため、ただ主が戻って自分を天の国に迎え入れるのを待っていました。後で聖書にこう書かれているのを見ました。『キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです』(ヘブ9:28)。聖書のこれらの言葉を見た後、わたしはこのことを知りました。主イエスの仕事はまだ終わっていません。主は二度目に現れる時、わたしたち人類を裁かれます。しかし、あの時の裁きはわたしたちを罪定めして滅ぼすためではなく、働いてわたしたちを救うためです。……」。わたしはこれらの言葉を聞いて愕然として、それは本当だと信じられませんでした。しかし、聖書にははっきりと書かれているので、わたしは一言も反論できませんでした。それで、心の中で主に呼び求めました。「主よ、あなたのみこころをわたしたちに明らかにしてください。あなたはいつ戻って裁きを行われますか。子はこの日の到来を待ち望んでいます。……」。