いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

第一部 キリストの初めの言葉 第三章

2020-09-25 00:35:56 | 賛美の心

第三章

    勝利を収めた王は、栄光の玉座に着く。王は贖いを成し遂げ、自らの民をすべて導いて、栄光の中に出現させた。王は万物をその手中にしており、その神聖な知恵と力によってシオンを堅く打ち立てた。王はその威厳をもって、罪深い世界を裁く。すべての国々と民とを裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔いしれた者たちにも裁きを下したのだ。神は必ずや彼らを裁き、必ずや彼らに怒りを示すだろう。そこに神の威厳があらわされる。神の裁きは一瞬のうちに、遅れることなく下される。神の怒りの炎は必ずや彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いはいつでも彼らに降り注ぐだろう。そのとき彼らは、逃げ道も隠れる場所もないことを知り、涙を流して歯ぎしりし、自らに破滅をもたらすだろう。

    神に愛された勝利の子らは、確かにシオンに留まり、決してそこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ! 私たちは霊の中で神を確信し、しっかりと付き従う。全力で突き進み、もうためらうことはない。世界の終わりが私たちの目前で明らかになりつつあるのだ。正しい教会生活と、私たちを取り囲む人々、出来事、物事は今も、私たちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまった視力を急いで取り戻そう。境界を越えないように、ここで歩みを止めよう。口を閉ざして神の言葉の中を歩み、自分の損得のために争うことをやめるのだ。ああ、俗世間と富への欲深い愛を手放せ。ああ、夫や息子、娘たちへの愛着から自らを解放せよ。ああ、独自の見解や偏見に背を向けよ。ああ、目を覚ませ、時間がないのだ。霊の中から見上げ、神に支配を委ねなさい。何があっても、ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられるのはなんと惨めなことか。ああ、なんと惨めなことか! ああ、目を覚ましなさい!

<style type="text/css"></style>

聖書預言の成就は私たちの想像に合致するのか

2020-09-24 21:33:30 | 賛美の心

聖書預言の成就は私たちの想像に合致するのか

    聖書に記されている、主の再来に関する預言がたくさんあります。どのクリスチャンもこれらの預言をよく知っています。特に主の再臨を切に待ち望んでいるわたしたちは、主の再来に関する預言を正確に理解し、認識したいと強く思っています。主の再来を見られるように。天の国に入りたいという望みを実現できるように。こういうわけで、どのように預言を扱うかは非常に重要です。これは、わたしたちが主の再来を見られるかどうかにかかわります。


    主イエスが来て働かれた時、イスラエル人は旧約聖書の預言を根拠としていて、メシアの到来をしきりに待ち望んでいました。彼らは聖書にこう預言されているのを見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:6-7)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:2)。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味、およびメシアの到来に対する想像、推理に基づいて断定的判断を下しました。「主は来られる時、きっとメシアと呼ばれる。彼はきっと王宮や、貴族の家や、権勢のある富貴の家や、或いは地位の高い家に生まれる。その容貌はきっと立派で人並み優れていて、堂々としていて、非凡だ。彼はダビデのようにイスラエルの王となり、しかもイスラエル人を導いてローマ政府の支配から脱する」と。

    しかし、事実はどうでしょうか。神は彼らの観念、想像によってこれらの預言を成就しませんでした。主が来られた時、メシアと呼ばれず、イエスと呼ばれました。彼は王宮や貴族の家、王の家に生まれたのではなく、飼い葉桶の中に生まれました。彼は高い地位を持つどころか、かえってヘロデ王に追跡されました。イエスの容貌は彼らが想像しているように人並み優れていて、非凡であるのではありません。イエスの容貌はとても普通で正常でした。

    しかも主イエスの働きは彼らの観念に反撃しました。主イエスは彼らの想像するようには彼らをローマ政府の支配から救い出しませんでした。むしろ逆に、人に罪を告白し、悔い改めるように要求し、人に寛容で我慢し、敵を愛し、人を七十七回赦すように教えられました。彼は神殿の中で働かず、かえって神殿から出て来ました。彼は安息日を守らないだけでなく、また安息日に人のために病気をいやし、悪霊を追い出しました。彼の弟子たちは空腹になった時、麦の穂を摘んで食べました。……実現した預言はいずれもイスラエル人の想像に合致しません。主イエスの仕事は律法の時代でなされたことがないものです。それは律法の基礎の上でなされた新しい仕事です。

    実は、当時主イエスは多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、完全に神の権威と力を明らかにされました。しかし、当時のパリサイ人は彼らの観念、想像と合致しないこれらの働きに直面している時、全然真理を求める心を持たず、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探しました。最終的に、彼らは主イエスを十字架につけて、この上なく大きな罪を犯し、そのため国の滅亡のつらさを味わいました。

    この残酷な事実はわたしたちに次のことを教えています。パリサイ人はメシアの到来を切に待ち望んでいるが、到来したメシアを捨て、到来したメシアに逆らいました。彼らの頭の中はメシアに関する預言に対する幻想、観念、想像でいっぱいになりました。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味に基づく認識を頑なに守り、自分の推理、想像によって神の働きに対して断定的判断を下しました。だから、預言が成就する時、それが彼らの観念、想像に合致しないので、彼らは極力主イエスに逆らい、主イエスを罪定めしました。彼らの愚かさと無知は彼らを葬り去りました。最終的に、彼らは神に逆らう人になってしまい、神に淘汰され、捨てられました。だが、自分の観念と想像を捨てられて、主イエスの働きと言葉を探求し、調べる人たちは、主イエスが来たるべきメシアだと確信しました。だから、彼らはすべてを捨てて主イエスに従うことができました。そのため、彼らは主に良しとされました。

    聖書にこう書かれています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか』」(ロマ11:33-34)。神は造物主であり、わたしたちは被造物、土の塵です。神の知恵、全能、霊妙さは、わたしたちが永遠に計り知ることができません。預言の中に、神の霊妙さと知恵があり、奥義もあります。預言がどのように成就して事実になるかは、わたしたちが計り知ることができません。それでは、わたしたちはどうして神の働きを計り知り、神の相談相手になることができるでしょうか。コリントの信徒への手紙二第3章6節で「文字は殺しますが、霊は生かします」と書いてあります。聖書のこれらの言葉とパリサイ人の失敗の事実から見れば、預言の成就はわたしたちが想像しているように簡単ではなく、預言は聖書の文字どおりの意味によって成就するはずがありません。実は、主イエスの到来はすでに預言を成就しました。しかし、預言は人の想像、観念によって成就したのではありません。主はすでに降誕しました。彼は処女マリアから生まれ、ベツレヘムに生まれ、そしてヘロデ王に追跡されました……。これらは預言が成就したことを証明しています。しかし、パリサイ人はメシアを迎える上では、自分の考え、想像を信じ、聖書の字句の表面上の意味によって理解し、推理するのでした。そういうわけで、彼らは必然的に、永遠にメシアの到来を見られません。

    今、世の終わりがもう来ました。わたしたちはどのように主の再来に関する預言を扱うべきですか。もし主がわたしたちが望み、想像するようには再来しないなら、わたしたちはどのようにこの現実に直面すべきですか。この問題は私たちが深く考えに値します。

<style type="text/css"></style>

教会音楽「神との正しい関係の築き方」歌詞付き

2020-09-23 22:41:40 | 賛美の心

教会音楽「神との正しい関係の築き方」歌詞付き

教会音楽「神との正しい関係の築き方」歌詞付き
神との正しい関係は
心を静めることからはじまる
たとえ理解できなくても
その使命を果たしなさい
神の意志が明らかにされ
それを為すに遅くない
神との関係が正しい時
他の関係も良くなる
神との正しい関係は疑いなく
それは神の業に逆らわない
正しく神の座の前に来なさい
自分をわきに置いて
神の探りを受け入れ 従い
神の家族に仕えるように努めれば
神との関係は正しくなる

全てが建て上げられる岩である
神の言葉を食し飲みなさい
要求に従い 反抗・妨害してはならない
兄弟姉妹の益とならないなら
行動してはならない
恥となることをせずに
全てを神に相応しく行いなさい
神との正しい関係は疑いなく
それは神の業に逆らわない
正しく神の座の前に来なさい
自分をわきに置いて
神の探りを受け入れ 従い
神の家族に仕えるように努めれば
神との関係は正しくなる

肉が弱くとも神の家族に仕えられることを
最も大切なこととして損失を顧みず
私欲を捨て 義をもちなさい
神との正しい関係は疑いなく
それは神の業に逆らわない
正しく神の座の前に来なさい
自分をわきに置いて
神の探りを受け入れ 従い
神の家族に仕えるように努めれば
神との関係は正しくなる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


聖書とはどのような書物か、どのように形成されたか、あなたは知っているのか

2020-09-22 20:23:39 | 賛美の心

聖書とはどのような書物か、どのように形成されたか、あなたは知っているのか

    神の御言葉による答え:

    旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。「聖書について(1)」より


    恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。「聖書について(1)」より

    聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。「聖書について(1)」より

    当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。…彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。「聖書について(3)」より


第2節 神に祈り、神を崇拝することについて

2020-09-21 23:09:05 | 賛美の心

第2節 神に祈り、神を崇拝することについて

    425. (神の言葉の一篇より)

    祈りの実践について

    あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

    真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

    また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。私は本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。私はただ時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつも私の内で働き、絶えず私を照らし啓きますように。私にあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠が私たちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私たちの中であなたが栄光を受け、私たちからなるこの集団による証しをあなたが喜んでくださるように、私は自分の全存在をただあなたに捧げます。私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私の目標として追求することができるように、私たちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

    あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、私の心はあなたを真に愛することができません。私はあなたを愛したいのですが、私にはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心を動かしますように。私があなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、私の全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたが私をどのように試そうと、私は用意ができています。今私は自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、私の運命もあなたの手の中にあり、私の一生そのものもあなたの手の中にあります。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、私はあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

    真の祈りにどのように入っていくのか。

    祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

    祈りの重要性とは何か。

    祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

    祈りが達成するべき成果とは何か。

    人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

    祈りの最も基礎的な知識

    1)何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

    2)祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

    3)祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。あなたの祈りは神の現在の言葉に関するものでなければならず、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

    4)集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

    5)あらゆる人が取りなしの祈りを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

    個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのちの性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

    祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

    正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。

『言葉は肉において現れる』より

426. 神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信することが不可能であるように神が命じた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十七章」より引用

    427. 祈りはある種の儀式ではありません。それは人と神との真の交わりであり、そこには深い意義があります。人々の祈りから、人が直接神に仕えていることが分かります。もしあなたが祈りを儀式として捉えるなら、あなたが神にしっかり仕えていないのは確実です。あなたの祈りが熱意や誠実さを伴わないなら、神の観点からは、あなたは人として存在していないと言えます。そうであれば、どうしてあなたが聖霊の働きを受けられるでしょうか。結果として、あなたはしばらく働いたあと、疲れ果ててしまいます。今からは、祈りなしでは働くことはできません。働きをもたらすのは祈りであり、奉仕をもたらすのは祈りなのです。もしあなたが指導者であり神に仕える者でありながら、祈りに専念することも、真剣に祈ることもなかったならば、あなたの仕え方はいずれはあなたを躓かせます。……頻繁に神の前に出て神に祈ることができるならば、それはあなたが神を神として扱っていることを証明します。しばしば祈りを怠り、一人で物事を行ないがちであり、神に隠れてあれこれするならば、あなたは神に仕えておらず、自分の営みに携わっているに過ぎません。それでは断罪されないでしょうか。表向きは何かを妨害したようにも、神を冒涜したようにも見えませんが、あなたは単に自分のことをしているだけです。そうすることで、あなたは邪魔をしていないでしょうか。たとえ表向きはそう見えなくても、本質的には神に抵抗しているのです。

『キリストの言葉の記録』の「祈りの意義と実践」より引用

    428. 宗教儀式の祈りほど神が軽蔑するものはありません。神への祈りは、誠実であるときにのみ受け入れられます。言うべき誠実なことが何もないなら、黙っていることです。いつも偽りの言葉を語り神の前でむやみに誓いを立てて、神を欺こうとしたり、どんなに神を愛しているか、どんなに神に忠実でありたいかと語ったりしてはなりません。自分の願望を達成することができないなら、その決意と霊的背丈を持っていないのなら、いかなる状況下にあろうと、神の前でそのように祈ってはなりません。それは嘲りです。嘲りとは、誰かをからかったり軽くあしらったりすることです。そのような性質をもって神の前で祈るなら、それは控えめに言っても欺瞞です。そんなことを度々しているなら、最悪の場合、あなたの人格はまったく卑劣なものなのです。仮に神があなたを非難したとすれば、それは冒涜だと言われるでしょう。人々は神に対する畏敬の念を持っておらず、神を畏れる術も、愛し満足させる術も知りません。人が真理を明らかに理解していなくても、その性質が堕落していても、神は放っておくことでしょう。それでも彼らはそのような人格を神の前にさらし、未信者が他人を扱うように神を扱うのです。さらに、祈るときには厳かに神の前に跪き、甘い言葉で神を試みおだてて、祈り終えても自責の念にかられないだけでなく、自分の行為の深刻さを感じることもありません。そのような状態で、神が彼らと共にいるでしょうか。神の臨在をまったく得ていない人が、啓かれ照らされることがあるでしょうか。真理によって啓かれることができるでしょうか。(いいえ、できません。)では、そういう人は問題に陥ることになります。あなたはそのような祈りを何度もしていますか? よくそのような祈りをしますか? 外的世界で長く過ごしすぎると、人は社会の悪臭を放つようになり、下等な本性が増大し、サタン的な毒と生き方に満たされてしまいます。その口から出てくるのは偽りと欺瞞の言葉ばかりで、彼らは考えもせずに語るか、そうでなければ自分自身の動機や目的しか含まない言葉ばかりを語り、正しい動機を持つことはまずありません。これは深刻な問題です。このようなサタン的な考え方や生き方を神の前に持ち出したら、神の性質に背くことになるのではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「自分を知って初めて真理を追い求めることができる」より引用

    429. 神の言葉を享受しているとき、あなたの霊が感動し、自分は神を愛さないわけにはいかない、あるいは自分の中に大きな力があり、自分に捨てられないものは何もないと感じることがある。このように感じるならば、あなたは神の霊によって感動し、心が神へと完全に立ち返ったのである。そしてあなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたによって予定され、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、自分が神の民の一人であることを光栄に感じさせます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げてあなたの御旨を行ない、私のすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」。このように祈るとき、あなたの心には神への果てしない愛と真の服従がある。あなたはこのような経験をしたことがあるか。神の霊によって頻繁に感動すると、人は祈りの中で特に進んで自分を神に捧げようとする。「神よ、私はあなたの栄光の日を見ること、あなたのために生きることを望みます。あなたのために生きること以上に価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという願望は少しもありません。今日あなたのために生きられるようにしてくださることで、あなたは私を引き上げてくださいます」。このように祈るとき、自分は神に心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ないまま死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのような祈りを唱えると、あなたの中には尽きせぬ力があり、あなたはその力がどこから来るのかわからない。あなたの心の中には無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があるという感覚をもつ。神によって感動するとこのようになる。こうした経験をした人はみな神によって感動したのである。神によって頻繁に感動する人には、いのちに変化が起こる。彼らは決意することができ、自ら進んで完全に神を得ようとする。心の中で神への愛がさらに強くなり、心は完全に神へと立ち返り、家族、世間、複雑な人間関係、そして自分の未来を顧みることがなくなり、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊によって感動した人はみな真理を追い求める人であり、神によって完全にされる希望をもつ人である。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より引用

    430. 今、ペテロがどんな道を歩んだのか、あなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きを確信するようになり、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを切望したりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを体験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めることはなかった。彼は現世の利益、幸福、名声、富などを求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。それは神の愛に報い、彼にとって貴重この上ないものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば次のような言葉で祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを尊敬し、お慕いし、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした」。彼は常に決意するために祈り、絶えずイエスの言葉によって励まされ、それらの言葉をやる気へと変えたのである。しばらくの経験の後、イエスは、ペテロがイエスをもっと慕うように促して、あえてペテロを試した。ペテロは言った。「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛にお応えすることができません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私を必要とされるのでしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつあなたの御顔をもう一度拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。またこれ以上反抗することも望んではいません。私が持っている全ての物をできるだけ早くあなたに捧げる用意ができています。そして、あなたをこれ以上悲しませたくありません」。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、彼にはまだ分からなかった。ペテロが試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ、言った。「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとするわたしの働きの結晶として、あなたが一つの実となり、わたしの喜びとなるためである。あなたはまことにわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれども、わたしを生かし出したのか。わたしのために何をしたのか。あなたは自分がわたしの愛にふさわしくないことを認めたが、わたしのために何をしたのか」。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことを悟り、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わなくなり、その後の彼の祈りはさらに素晴らしくなった。ペテロはこう言って祈った。「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の誰よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、また私に託してくださったことなど、私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きでもって、私は最善を尽くしました。あなたは私ができることを御存知で、私が果たせる役割はもっとご存知です。私はあなたの指揮に服従することを望み、持っている全てのものをあなたに捧げます。私があなたにできることは、あなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗しましたが、あなたはこのような過ちを犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。私はあなたに私の全生涯を捧げたいのです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行なうことを望むだけです。私はあなたの苦い杯から飲み、あなたの命じられるとおりにします」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より引用

    431. わたしは何度もペテロに試練を与え、そのため、もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることはなく、それまでと同じように、わたしを実際的なやり方で愛するために自分の信念を貫き続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後にはサタンの手中に投げ込む、と言った。そうした試練の只中、それは肉への試練ではなく、言葉による試練であったのだが、ペテロはそれでもわたしに祈った。「おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが私に憐れみをお示しになりたいとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は困難に苦しんでも、私の霊は慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知った後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、私に神のお姿を見させることを真に望んでおられないということではないでしょう。まことに、私は神の裁きを受けるのにふさわしくないということではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか」。このような試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正確に把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となった。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、わたしがなぜペテロのことをこれほど詳しく語っているのか、あなたがたはよくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動原則としなければならない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第六章」より引用

    432. ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、私はあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。……晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もし私の余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたが私のために用意された時が来ました。私はあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、私にとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もし私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、私はあなたを愛するでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されます。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が私には一層明らかになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛することができ、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。私の人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、私はまだ満足していません。なぜなら、私はあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。私は人生において私のすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、私があなたに報いなかった全ての愛を償うために、私にはこの瞬間しかありません」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用