いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

聖書物語ーイエスの逮捕

2020-09-20 08:16:22 | 賛美の心

聖書物語ーイエスの逮捕

イエスの逮捕

    そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

大祭司はイエスを尋問する
    さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。

イエスがピラトに渡された
    夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

イエスは死刑に処せられた

    さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。 ときに、バラバという評判の囚人がいた。それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

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主イエス様は終わりの日にどのように再臨されるのか

 


讃美歌-「神の真の愛」主を賛美する ハレルヤ

2020-09-19 22:13:29 | 賛美の心

キリスト教讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」

神の愛は私の心を溶かした

あなたの呼びかけを聞いて
私は御前に帰る
御言葉は私を照らし
自らの堕落を悟る


私はあなたに冷たく
あなたを傷つけ 悲しませた
頑なに反抗して あなたを独りにした
人間への愛は何故 痛みで報われるのか?
自分の頑なさと ひどい堕落を私は憎む
私は あなたに会う価値もなく
その愛にも価しない
私はこんなにも 反抗的な人間なのだ
どのようにして私は あなたの心を知り
どのようにして私は あなたの愛を悟れようか?
あなたの愛は真実で
私は多くの借りがある


あなたは誰のために
肉となり恥を忍ばれたのか?
人間の拒絶に苦しみ 惨めな生活だったが
あなたは一度も 不平を言われなかった
あなたは天から来て
頭を休める場所さえない
世の楽しみを 味わったこともなく
ただ人々を救い
心を得るために静かに真理を表わす
私が罰せられる時 あなたはそばにいて下さり
精錬される時 あなたの心は痛む
私が悲しい時 あなたはそこにおられる
私に欠けるところを あなたは埋めて下さり
愛に直面する時 心は引き裂かれる
あなたの愛は心を溶かし
私の心は変わった


どうして待ち続け 遅らせることが出来ようか?
御心を思いやり 愛に報い
精錬と 苦痛に耐え
満足させるために証ししよう!
あなたを愛し生きるため 私の心は覚まされた
真理を追求し 御言葉によって生きよう
あなたを愛し ついて行き
永久に証ししよう!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


真の悔い改めとは何か

2020-09-18 20:33:01 | 賛美の心

真の悔い改めとは何か

    主イエスは言われました。悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)では、真の悔い改めとは何か。多くの人は主に祈って罪を認め、主の御言葉によって寛容し、へりくだり、忍耐し、苦しみを受けて十字架を背負い、多く福音を伝え、良い行いがたくさんあれば、これは真の悔い改めだと思っています。しかし、事実は本当にこのようなものでしょうか。


良い行いは真の悔い改めを表すのか
    主に従ってから、確かに私たちの行いの変化は少しあり、へりくだり、寛容し、忍耐し、多くを放棄し、自らを費やし、福音を伝えて主を証しすることができました。しかし、否認できないのは、私たちは常に嘘をつき、欺き、金銭を追い求め、邪悪を崇め、傲慢で横柄、利己的で貪欲なサタン的性質の中に生きています。神様が私たちの家族を平安で、すべての事において順調であるように祝福してくださるとき、私たちの心の中には神様に感謝し、賛美します。仕事の不調、結婚の失敗、生活の貧しさに臨むとき、私たちは神様に不平を言い、祈った後に神様の祝福を感じない時に、私たちは神様を否認し、神様に背くさえできます。主が私たちに自分を愛するように他人を愛し、人を許し、忍耐するように求められているが、自分の大きな利益に及ばない時に、しぶしぶ実行できますが、自分の大きな利益を失うことに直面する時に、私たちは自分を制御できずに、利益を奪い、他人を傷つけ、外側の良い行いさえ実行できません。自分は主を信じる前に、家族との関係がとても悪くて、よく怒り出し、 家族と喧嘩していました。主を信じた後、私は主が私たちに人を愛するように求められていることを知ってから、主の御言葉によって、寛容し、忍耐し、それから聖書を読み、祈り、集会し、主のために働き始めます。外側から見れば、主を信じる前と異なりますが、実生活の中で、あらゆることにおいて、家族が自分の言うことを聞くように求め、家族が聞かない時に、私は怒ってしまいます。その後、私は自分の以前の行いは皆抑制していて、本当に主の御言葉を実行できたのではないと気づきました。私たちは罪を犯した後に、主の御前で罪を告白し、悔い改めるが、後にはまた罪を犯してしまうのです。もし良い行いがあることで真の悔い改めを表すことができるなら、私たちは再び罪の中で生きることはないと証明できるが、なぜ私たちはまた常に罪を犯して神様に抵抗しているのですか。なぜまた昼間に罪を犯し、夜になると告白する循環の生活を送っているのですか。ここから分かったのは、規則に従い、外側で少しの良い行いがあり、行動では少しの変化があるのは、真の悔い改めを表すことではありません。パリサイ人、律法学者、祭司のように、彼らの外見は敬虔で、律法を暗記し、年じゅう聖書を読み、説教し、福音を伝え、常に神様に捧げものを捧げ、自分の過ちを認め、私たちから見れば、彼らは最も神様に称賛されると思っているが、なぜ彼らは切望していたメシアを生きたままで十字架につけたのですか。これは何を証明していますか。外側の良い行いがあって、外側の規則だけに従うのは、罪を犯さず、神様に抵抗しないことを表すことがではなく、私たちは真摯に悔い改めていなければ、また罪を犯すことを証明しています。主イエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。」(ヨハネによる福音書8:34−35)主の御言葉に基づき、私たちは自分の罪を認め、外側では少しの行いがあるだけで、真の悔い改めの効果に達していないので、天国に入ることができません。

真の悔い改めとは何か
    「ヨハネの黙示録」22章14節にこう書かれています。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」また「マタイによる福音書」3章8節にこう書かれています。「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」「レビ記」11章45節にこう書かれています。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」神様は聖なる者であり、人の罪を憎み、そのため、私たちは真の悔い改めの基準は、罪深い性質が変化し、再び罪を犯さず、悪を行って神様に抵抗することもなく、つまり私たちの内の利己的、欺瞞的、高慢的な堕落した性質が清められ変化し、生まれ変わるに達することであるのを確定できます。どんな環境に臨んでも、私たちは神様に従順になり、もはや罪を犯して神様に抵抗せず、いくらサタンにどう誘惑されても、私たちはサタンの策略を見破って証しに立ち、悔い改める態度と現れがあり、これこそ本当に悔い改める人であり、天国に入る資格があります。

    聖書に記載されたダビデのように、最初彼はウリヤの妻をわがものとして、淫乱の罪を犯してしまい、神様の懲罰が彼に臨み、ダビデは自分の行いが神様に背いたことを知り、神様に祈り自分の罪を認め、自ら進んで神様の懲罰を受け入れ、従順になりました。ダビデは自分の行いを後悔し、この事を思い出す度に苦しくて涙を流し、まさに「詩篇」6章6節に「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」と記載されている通り、ダビデはどれほど後悔したことでしょうか。ダビデが晩年の時、寒く感じて、大臣たちは美しい少女を彼の懐に送っても、彼は触らなく、これはダビデの真の悔い改めの現れです。もし私たちは自分が悔い改めたと言った後の行いが、古い自我の様で、依然として罪を犯しては告白するなら、悔い改めとは言えません。なぜなら、悔い改めは人が自分のサタンに堕落させられた真相に対して、本当の認識と憎しみを持ち、本当の変化に達し、もはや神様に抵抗せず、神様に逆らわないことを含み、これこそ真の悔い改めです。

どのようにして真の悔い改めに達すことができるのか
    私たちは真の悔い改めに達したいなら、また神様の進んだ一段階の救いの働きを受け入れる必要があります。主イエスはこう預言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書16:8)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)また聖書のほかの預言にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)ここから分かるのは、終わりの日に、神様はまた来られて一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、言葉を語り、私たちが理解していないすべての真理を語り、これによって私たちの内の罪を裁き、清めるのです。私たちは神様の裁きの言葉を受け入れた後に、自分のサタン的性質を本当に認識し、憎み、真の悔い改めに達し、神様に神様の国に導き入れられます。そのため、私たちは堕落した性質から解放され、真の悔い改めに達したいなら、終わりの日に神様がなさった裁きの働きを受け入れるべきです。裁きの中で清められる人こそ真摯に悔い改める人なのです。


聖書の終わりの日のしるしに関する預言ー主の再来を迎える道を見つける

2020-09-17 19:59:09 | 賛美の心

聖書の終わりの日のしるしに関する預言ー主の再来を迎える道を見つける

    今世界各地で地震、飢饉、疫病、洪水、干ばつなどの災害が絶え間なく頻発し、しかもますます深刻になり、聖書の中の主の再来の預言は既に実現され、主が戻られる日が既に到来しています。私たちは主の終わりの日の出現と働きをどのように尋ね求め、どのようにして主の再来を迎えることができますか。かつて主は明確に預言されました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)ここから、終わりの日に主が再来される時に、主に言葉を語られて人に戸を叩くことが分かります。それらの神様の声を聞いて主を迎える人は、災いの前に神様の前に携挙されて主と共に宴席に着くことができます。次の文章を閲読して、さらに多くの細かいところと実践する道を理解しましょう。


    1、聖書の終わりの日のしるしに関する預言

    マタイによる福音書24:3
    またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

    マタイによる福音書24:7-8
    民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

    マタイによる福音書24:37-39
    人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

    ヨエル書2:30-31
    その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。マタイによる福音書24:21
わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

    ヨハネの黙示録6:12-13
    小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。

    関連する真理:

    終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。「実践(2)」より

    あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第六十五章」より

    すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。しかしわたしの子らは安らかに休むことができる。あなた方の上にひとつの災害も降りかかることはなく、わたしはあなた方を守る(つまり、あなた方はその後、肉ではなく、体の中で生きるので、どんな災害の苦痛も受けない)。あなた方はただわたしと一緒に王として支配し、すべての国とすべての民を裁き、宇宙の隅々で永遠にわたしと素晴らしい祝福を楽しむだろう。これらの言葉はすべて成就され、間もなくあなたの目の前で達成されるだろう。わたしは一刻、一日も遅れることなく、驚くほど迅速に事を行う。心配したり心を騒がせたりしてはならない。わたしがあなたに与える祝福は、誰もあなたから奪うことのできないものだ――これがわたしの行政命令である。わたしの業の故に、すべての人々がわたしに従順になるであろう。彼らは歓呼し続けるだけでなく、さらに喜んで跳び上がり続けるだろう。キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第九十二章」より

    2、どのようにして災いの前に携挙されて主と共に宴席に着くことができるか
    ルカによる福音書12:40
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

    ヨハネの黙示録3:20
    見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

    ヨハネの黙示録3:3
    もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

    ヨハネの黙示録16:15
    見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。

    ヨハネの黙示録2:11
    耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

    ヨハネによる福音書10:27
    わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

    マタイによる福音書7:7-8
    求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

    関連する真理:

    神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

    このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「序文」より

    神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より

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私は神様の名前はなぜ変わるかやっと分かりました


キリストの再臨と携挙-「危うく引き上げられる」

2020-09-16 21:41:36 | 賛美の心

キリストの再臨と携挙-「危うく引き上げられる」

 趙志剛は中国のある地方教会の長老です。大勢のクリスチャンと同じように、彼の最大の願望は、生きたまま天に引き上げられ、主と出会って共に王権を握ることでした。1999年に、宗教のリーダーたちは「2000年に主は必ず再来され、信徒が生きたまま天に引き上げられる」という情報を流しました。それを聞いて、彼はいたく感激し、もっと熱心に追い求め、揺ぎない信念を持ってその日の到来を待ち望んでいました……しかし、2000年は過ぎてしまい、彼の希望がはずれ、教会も空前の危機に見舞われました。そこで、彼は自分の歩んでいる道が正しいかどうか反省するようになりました。
全能神の王国降臨の福音が地方教会に伝えられた後、趙志剛と同労者たちは、彼らが地方教会で長年主を信じながら固く守ってきた観点の下で、全能神教会の説教者たちと深く交わり、いろいろ弁論を繰り広げました⋯⋯最後に趙志剛は、宗教界の反キリストが人を惑わす真相を見通し、はっと悟って、全能神の働きを受け入れ、とうとう神様の玉座の前に引き上げられました。彼は感激のあまり、「私は本当に危うく引き上げられた」と言いました

もっと見る:

キリスト教映画「滅びゆく都」神からの終わりの日の警告