いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

聖書物語ーイエスは信じないトマスに現れる

2020-09-15 21:42:47 | 賛美の心

聖書物語ーイエスは信じないトマスに現れる

弟子たちに現れる
    その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 


イエスは信じないトマスに現れる
    十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

    イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

<style type="text/css"></style>

聖書の言葉


日本語ゴスペル「待ち焦がれて」私たちは主イエスの再臨を待ち焦がれている

2020-09-14 21:53:18 | 賛美の心

日本語ゴスペル「待ち焦がれて」私たちは主イエスの再臨を待ち焦がれている
世は悪魔が制す
果て無く続く夜
神を信じ、命求める道は険しい
中共が神の民を弾圧し
逮捕し、迫害する
家族には分らない
隣人に嘲罵され
世間から拒絶される
苦痛に耐え、主に呼びかける
我を強めたまえ
導きたまえ
闇にいる時、そばにいたまえ
主が信仰を強めれば
耐え拔き、救われる
主よ、サタンから救いたまえ
あなたへ戻れるよう
主の再来を待っています 天国へ行き
永遠にあなたと暮らす
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


聖書の言葉-主イエスの教え・正直な人こそが天国に入れる

2020-09-13 20:15:51 | 賛美の心

聖書の言葉-主イエスの教え・正直な人こそが天国に入れる

 聖書の言葉
 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。

マルコによる福音書10:15

 この聖句から、神様は幼な子のような素朴で、率直で正直な人を好み、このような人こそ天国に入れることが分かりました。それでは、私たちはどのように追い求めれば正直な人になれるのでしょうか。

 1、祈る時に正直でなければなりません。主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。正直な人になることの第一歩は祈りから始まり、祈りは心の中にある言葉を神様に言い、本当の状態、現実の困難を神様に示すことであり、ひびきの良い言葉や不本意な言葉を言って神様を欺くのではありません。

 2、正直な人になることは本当の事を言い、嘘を拒絶することから入るべきです。主イエスは言われました。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書5:37)。主イエスは私たちにありのままを言い、正確で混じりけのないように求められています。このようにしないと、悪を行う者なのです。

 3、本分を尽くすことにおいていい加減に神様に対応したり、神様を欺こうとしたりしないように達すべきです。主イエスは私たちにこのように求められています。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。』」(マタイによる福音書22:37-38)主の言葉から分かったのは、クリスチャンの一人として、私たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主のために費やし、さらに多くの人を神様の前に連れてきて、全身全霊でできる限りの努力をし、いい加減に神様に対応しないようにしなければなりません。

 4、正直な人になることは心を真実に神様に捧げなければなりません。これは正直な人になるための最も肝心なことです。主イエスは言われました。「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。」(マルコによる福音書7:6-7)この中から分かったのは、神様は口先の信仰と礼拝を求めず、自分の心を完全に神様に捧げ、どんな環境に臨んでも、神様の支配と采配に従い、自分の言い訳と条件を言わず、自分の利益や損得を考えないことを求められるのです。

 


言葉は肉において現れる第二章

2020-09-12 15:12:10 | 賛美の心

第二章

    フィラデルフィアの教会が形を整えたが、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が無数の聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路においてよろめくことがない。聖徒たちは、唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それは聖霊によって確証され、山のように揺るぎない! そしてそれが変わることはない!

    ああ、全能神よ! 今日あなたは私たちの霊の目を開き、盲人を見えるようにし、足の不自由な者を歩けるようにし、重い皮膚病の者を癒やした。あなたは天の窓を開き、私たちに霊の世界の奥義を見せた。あなたの聖なる言葉に満たされ、サタンに堕落させられた人間性から救われること。これがあなたの計り知れないほど偉大な働き、計り知れないほど偉大な憐れみである。私たちはあなたの証人である!

    あなたは長きにわたり、沈黙して謙虚に隠れていた。あなたは死からの復活と磔の苦しみ、人間として生きる喜びと悲しみ、迫害と苦難を経験した。人の世の痛みを経験してそれを味わい、時代に見捨てられた。受肉した神は神自身である。あなたは神の旨のために私たちを汚物の山から救い、右手で私たちを持ち上げ、思うままに私たちに恵みを施した。労を惜しまず、私たちにあなたのいのちを注いだ。あなたが血、汗、涙で払った代価は聖徒たちの上に凝縮している。私たちはあなたの血のにじむような努力の産物であり、あなたが払った代価である。

    ああ、全能神よ! あなたの慈愛と憐れみ、義と威厳、聖さと謙遜ゆえに、すべての民はあなたの前にひれ伏し、永遠にあなたを拝する。

    今日、あなたはあらゆる教会、フィラデルフィアの教会を完全なものとし、それにより六千年にわたる経営(救いの)計画を実現した。聖徒たちはあなたの前で謙虚に従うことができ、霊において互いに繋がり、愛の中で互いに伴い、泉の源に繋がっている。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れた泥水をすべて洗い流し、あなたの神殿を再び清くする。私たちは実際の真なる神を知るに至り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のために自分を費やすべく、あらゆることを行なってきた。あなたの旨が私たちの中で妨げられることのないように、私たちはあなたの前で静まるたび、聖霊の働きに留意しなければならない。聖徒たちのあいだには互いへの愛があり、力ある聖徒が他の聖徒の弱みを補う。聖霊による啓きと照らしを受け、聖徒たちは常に霊の中を歩くことができる。真理を理解するとすぐに実践し、新たな光に歩調を合わせ、神の足跡に従う。

    積極的に神に協力しなさい。神に支配をゆだねることは、神とともに歩むことである。私たちの考え、観念、意見、世俗の束縛はすべて煙のように空中に消える。私たちは霊において神に至高の統治を委ね、神と歩み、それにより超越を得、世に打ち勝ち、私たちの霊は自由になって羽ばたく。それが、全能神が王になったときの結果である。どうして踊りと歌で褒め讃え、讃美と新しい賛歌を捧げずにいられようか。

    神を讃美する方法は確かにいくつもある。神の名を呼ぶ、神に近づく、神ことを考える、祈りを唱える、交わる、黙想する、熟考する、祈る、讃美歌を歌う。このような讃美の行為には喜びがあり、また聖別がある。讃美には力があり、また重荷もある。讃美には信仰があり、新たな識見がある。

    積極的に神に協力し、協調して奉仕を行ない一つになり、全能神の旨を満たし、急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、サタンの運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現われる。


ヨブについて(1)

2020-09-11 21:37:34 | 賛美の心

ヨブについて(1)

 

    ヨブの経験した試練を学んできたわけだが、あなた方の大半はヨブ自身についてもっと知りたくなっただろう。特に、神から称賛される秘訣は何であるかを知りたいだろう。ではこれからヨブについての話をしよう。

    ヨブの日々の生活に完全さ、正しさ、神への畏れ、悪を避ける生き方を見ることができる

    ヨブについて語ろうとするならば、「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない。」という神自身の言葉によるヨブの評価をまず知らなくてはならない。

    まずヨブの完全さと義について学ぶとしよう。


    あなたは「完全」そして「正しい」という言葉をどのように理解しているだろうか。あなた方はヨブが責められるところのない人で、高潔であったと思うだろうか。勿論これは「完全」そして「正しい」の文字通りの解釈である。ヨブのことを真に理解するためには実生活から離れてはいけない――言葉、書籍、理論だけでは、答えを見つけることはできない。まずヨブの家庭生活、日々の生活はどのようなものだったかを検討しよう。そうすることで彼の人生における原則と目的、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからだ。それではヨブ記1:3の最後の部分を読む。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するところは、ヨブの地位と立場は非常に高く、彼が多くの財産を所有しているからと言って、または彼が完全であり正しく、神を畏れ悪を避ける人間であるからと言って東方で最も偉大な人間であったかどうかは分からないにしても、とにかくヨブの地位と立場が非常に尊ばれていたということである。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れ悪を避ける完全な人で、非常に多くの財産と尊敬される地位にいたということである。そのような環境と条件の下で生きている普通の人間であるヨブの食生活、生活水準等の日常生活はいったいどのようなものであったのか、それが大方の人間の注目するところである。続けて聖句を読む。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記1:4-5)。この聖句から2つのことが分かる。ヨブの息子娘達は定期的に宴会を催し、飲み食いをしていたということ。2つ目は、ヨブが度々息子娘達のために全焼のいけにえを捧げていたということである。ヨブは自分の息子娘達が罪を犯したり、心の中で神を呪ったりしてはいないかと心配していたのである。この聖句の中に、2種類の全く異なる種類の人間が描かれている。まず、ヨブの息子娘達は裕福であり、贅沢に暮らしていた。心ゆくまで豪華な食事を楽しみ、物質的な豊かさがもたらす高水準の暮らしを享受していた。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神の怒りを招くことは避けられなかったが、それでも彼らは自らを清めたり、全焼のいけにえを捧げたりすることはなかった。そこから分かるのは、神は彼らの心の中に居場所はなく、彼らが神の恵み、神の怒りを招くことに対する畏れなどを思うこともなく、ましてや神を放棄することを恐れてなどいなかったことが分かる。もちろん、わたしたちがいま問題としているのはヨブの子ども達ではなく、そのような子ども達を目の当たりにしたヨブがどうしたかである。これが、この聖句に書かれているもうひとつの問題であり、ヨブの日常生活と彼の人間性の本質と関わりがある。ヨブの息子娘達の宴会について書かれている聖句では、ヨブには言及していない。ヨブの息子娘達がしばしば宴会を催し、飲み食いしていたとだけ書いてある。言い換えれば、ヨブが宴会を催した訳ではなく、ヨブはそこで一緒に贅沢に飲み食いもしていないのである。彼は富んでおり、多くの資産としもべとを所有していたが、ヨブは贅沢な暮らしはしていなかった。ヨブは贅沢な生活環境を楽しむことなく、肉の楽しみを貪ることもなく、富むが故に全焼のいけにえを捧げ忘れるということもなく、ましてや徐々に神を自分の心から遠ざけるというようなことはしなかった。明らかにヨブはその生活に自制心を持っており、貪欲でも快楽主義でもなく、神からの祝福による高い生活水準に固執することもなかった。むしろ、彼は謙虚で慎み深く、そして神の前に注意深く慎重であった。しばしば神の恵みと祝福に思いをめぐらせ、常に神を畏れた。ヨブは度々朝早く起きて、息子娘達のために全焼のいけにえを捧げた。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子ども達も同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていた。物質的な豊かさがヨブの心の一部分でも占めることはなく、物質的な豊かさがヨブの心にある神に取って代わることもなかった。自分自身のためであれ子ども達のためであれ、ヨブの習慣は全て神を畏れ悪を避けることに直結していた。ヨブの神への畏れは言葉によるものだけではなく、行動で現され、彼の日常生活のあらゆる場面に反映されていた。このようなヨブの振る舞いから、ヨブが正直で、その本質は義を愛し、善を愛するものであったことが分かる。ヨブはしばしば息子娘達を送って清めたということは、彼が自分の息子娘達の振る舞いを認めておらず、良しとしてはいなかったということである。むしろ、その心は子ども達の行いにうんざりしており、非難していた。ヨブは自分の子ども達の行いがヤーウェ神に喜ばれていないと結論付けた。それ故、彼は頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に出て罪を告白させたのである。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見える。それは、ヨブは罪を犯す者達と決して歩まず、彼らから遠ざかり、避けたということである。たとえそれが自分の息子娘達であれ、ヨブは彼らのために自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃したりはしなかった。むしろ子ども達に、罪を告白してヤーウェ神の寛容を受け、快楽に対する貪欲さ故に神を捨ててはならないと警告した。ヨブの周囲の人々に対する接し方の原則は、神を畏れ悪を避けるという原則と切り離すことはできない。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が拒絶する物事を憎んだ。神を畏れる心を持つ人々を愛し、神に対して悪を行なったり罪を犯したりする人々を憎んだ。ヨブの日々の生活がその愛と憎しみを語っており、正にその愛と憎しみが、神の目に映ったヨブの正しさそのものであった。当然これが、周囲の人々との関わりの中におけるヨブの真の人間性の現れであり生き様であり、わたしたちは是非これについて学ぶべきである。

    試みの中でのヨブの人間性の現れ(試練の中でのヨブの完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避ける生き方を理解する)

    ここまで、ヨブが試みに遭う前に彼の日常生活に見られた人間性の側面について話してきた。これらを理解することにより、ヨブが正しく、神を畏れ悪を避けることの初歩的知識と理解を得るこができ、確認することができたことは間違いないだろう。「初歩的」と言ったのは、大半の人がまだヨブの人間性を真に理解しておらず、彼がどれほど神に従い神を畏れる道を求めたかを真に理解していないからである。つまり、大半の人のヨブに対する理解は、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、そして「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という聖句が与える幾分ヨブに好意的な印象の域を出ることがないのである。したがって、ヨブが神から試練を受けた後に見せた彼の人間性を理解する必要が大いにある。そうすることで、ヨブの真の人間性が全て明らかになるのである。

    ヨブが、財産を奪われ、息子と娘達が命を失い、しもべ達が殺されたと聞いた時のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、…」(ヨブ記1:20)という聖句に示されている。この言葉はひとつの事実をわたしたちに示している。知らせを聞いたヨブは動揺することもなく、泣くこともなく、知らせを持ってきた使いの者を責めることもせず、ましてや現場を検証してなぜどのようにしてそのようなことが起きたのか、詳細を確認しようなどとは考えなかった。彼は所有物を失ったことに対して一切の痛みや後悔を見せることもなく、愛する子供たちを失ったことで泣き崩れることもなかった。それどころか、ヨブは自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して神を礼拝した。ヨブの行動は普通の人間の行動とは全く異なっていた。ヨブの行動に多くの人は混乱し、ヨブの「冷血さ」を心の中で叱責した。所有物を突然失えば、普通の人間であれば悲しくなり、落胆する。人によっては深い絶望感を感じるだろう。人にとって財産は人生の長い苦労の結晶であり、生きる支えであり、生きる望みであるからである。財産を失うということはそれまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということである。これが普通の人の財産に対する考え方であり、普通の人はそれほど深く財産と関わっているのである。人の目には、財産とはそれほど重要なのである。そのような訳で、財産を失っても冷静でいられるヨブに大半の人々は困惑するのである。ここではヨブの心の中を理解することにより、そのような人々の困惑を払拭する。

    常識的に考えるならば、神から与えられた膨大な財産を失ったのだから、ヨブは恥じるべきだと言われるだろう。財産をきちんと管理できず、神に与えられた財産を手放さずに持っていることができなかった訳であるから。財産が奪われたと知った時、ヨブは現場に赴いて失った財産を記録し、それを神に報告し、もう一度神の祝福が得られるようにすべきであったと。だがヨブはそのようなことはしなかった。ヨブにはそうしない理由が当然あった。ヨブは、自分の所有物は全て神から与えられており、自分の労働から生まれたものではないと深く理解していた。故に神からの祝福を資本とするものとは考えず、自分の生きるべき道からどんなことがあっても離れない様、その原則に全力で留まったのである。ヨブは神に与えられた祝福を大切にし、感謝した。だがその祝福に心を奪われることはなく、更に祝福を求めることもしなかった。それがヨブの財産に対する彼の姿勢である。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、また、神からの祝福が欠けるとか失うということを心配したり悩んだりすることもなかった。神から祝福を受けることで荒っぽくなったり、有頂天になることもなく、繰り返し享受する祝福に神の道を無視するようになったり、神の恵みを忘れたりすることもなかった。財産に対するヨブの姿勢は、人々に彼の真の人間性を示すものとなった。その理由の1つ目は、まず、ヨブは欲深い人間ではなく、その生活において物質的に多くを求めることはしなかった。そして2つ目は、神が全てを取り上げることをヨブは心配したことが一度もなかった。これはヨブの神への従順を現している。つまりヨブは、神が彼の財産を取り上げるかどうか、そして取り上げるのであればいつならば良いかというような注文をつけたり不服を言ったりすることは一切なく、何故取り上げたかその理由を聞くこともなく、ひたすら神の計画に従うことだけを求めたのである。3つ目の理由は、ヨブは自分の財産が自分の労によるものだとは決して思わず、神に与えられたものだと信じていた。これがヨブの信仰であり、彼が確信するものの現れである。ヨブの人間性と日々追い求めていたものが今述べた3つのポイントで理解できただろうか。ヨブが財産を失っても冷静に振る舞うためには、彼の人間性と彼が追い求めてきたことが不可欠だった。神からの試練の中にあっても、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言うことのできる背丈を持ち、確信に立っていることができたのは、ヨブが日々追い求めていたものがそのようなものであったからである。ヨブのこの言葉はひと晩のうちに言えるようになるものでもなく、ヨブの思いつきで言った言葉でもない。ヨブの長い人生経験から生まれたものである。神の祝福ばかり求め、取り上げられることを恐れ、取り上げられることを嫌い、取り上げられれば不平を言う人達と比較すると、ヨブの従順さは実に本物ではないだろうか。神の存在は信じるが神が全てを支配するとは決して信じない人達と比較すると、ヨブは非常に正直で正しかったと言えるだろう。

『言葉は肉において現れる』より