晴耕雨読

晴れの日は耕し、雨の日は読む。

あけましておめでとうございます

2024年01月04日 | 平安京

 

2024(令和6)年01月04日(木)雨のち晴

あけましておめでとうございます🧍
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 

 

※追記20240120

龍字賛
無学絶宗

無学絶宗(一七〇九~九五)は、江戸中期の曹洞宗の禅僧。華厳曹海の法を嗣ぐ。諸師に参学し、その数一五三人といい、歴住地は越前の永建寺をはじめ一〇ヶ寺に及んだ。
 本資料は、「龍」の字を大書した墨蹟。永建寺の歴代記である『曹紹山歴住伝燈録』に、「常採毫書龍字、道俗尊信多(常に毫を採り龍字を書す、道俗の尊信多し)」と記されるほど、絶宗は龍字を好んで書した。
詳細
 • タイトル: 龍字賛
 • 作成者: 無学絶宗
 • 実際のサイズ: 総丈H135.5×W72.1本紙H40.0×W55.0
 • 媒体/技法: 紙本墨書


龍字賛 - 無学絶宗 — Google Arts & Culture https://is.gd/lZtbKT

 

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明けましておめでとうございます

2022年01月03日 | 平安京

 

 

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

Pèlerinage de Saigyō au mont Yoshi   西行物語絵巻  吉野山への西行巡礼。江戸時代の写し。Saigyō monogatari emaki —Wikipédia  https://cutt.ly/FUJBz2h  Auteur inconnu Unknown author • Public domain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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桓武天皇3

2017年10月09日 | 平安京

治世

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂藤原小黒麻呂北家)らの提言もあり、気学における四神相応土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

また蝦夷を服属させ東北地方を平定するため3度に渡る蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入した事で百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、結果として無政府状態を招いた。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄空海から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど歴代天皇の中でも稀に見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位が、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

 

 

 

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桓武天皇2

2017年10月09日 | 平安京

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日781年4月30日) - 延暦25年3月17日806年4月9日))。

略歴

白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。

父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家藤原百川による擁立があったとされる[1]

天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日5月12日)に即位を宣した。延暦2年4月18日783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。

延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。

在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。


 

 

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桓武天皇1

2017年10月09日 | 平安京

 

桓武天皇

4月9日 806年 781年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桓武天皇
 
桓武天皇像(延暦寺蔵)

元号 天応
延暦
先代 光仁天皇
次代 平城天皇

誕生 737年
崩御 806年4月9日
平安宮正寝柏原大輔
陵所 柏原陵
山部
別称 柏原帝
日本根子皇統弥照尊
天國押撥御宇柏原天皇
父親 光仁天皇
母親 高野新笠
皇后 藤原乙牟漏
夫人 藤原旅子
藤原吉子
多冶比真宗
藤原小屎
子女 平城天皇
嵯峨天皇
淳和天皇
伊予親王 ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居 平城宮長岡宮平安宮
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桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日781年4月30日) - 延暦25年3月17日806年4月9日))。

略歴

白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。

父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家藤原百川による擁立があったとされる[1]

天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日5月12日)に即位を宣した。延暦2年4月18日783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。

延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。

在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。

治世

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂藤原小黒麻呂北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

また蝦夷を服属させ東北地方を平定するため3度に渡る蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入した事で百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、結果として無政府状態を招いた。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄空海から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど歴代天皇の中でも稀に見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位が、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

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書評:遠藤誉著『卡子(チャーズ)――中国建国の残火』

2016年10月09日 | 書評

書評:遠藤誉著『卡子(チャーズ)――中国建国の残火』


書評というよりも、単なる読書記録、感想文に過ぎない。
この本の著者である遠藤誉氏は1941年(昭和16年)中国の吉林省長春市で生まれた。個人がいつどこで生まれるかは、その個人の宿命とも言えるもので、この本の著者もそうであるように、生まれた土地と時代が、その個人の命運を決定することになる。

著者の生まれた中国北東部には、当時すでに満洲国が建国されており、日本の強い影響力のもとにあった。というよりも日本の行政指導のもとで社会基盤が整備され「五族協和」の「王道楽土」をスローガンに、めざましく国造りが行われていた。

この満洲国の権益を巡る日本、アメリカ、ロシアの争いが、後の太平洋戦争の原因となった。日本に比較的に同情的な立場にあったポルトガル人で後に日本に帰化した作家で、もと駐日ポルトガル外交官だったヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えたという。

日本国の満洲国への関与については、太平洋戦争の敗北の結果、GHQやマルクス主義から道徳論で善悪の立場から論じられることは多いが、当時の価値観や国際情勢から多面的に考察される必要はあるだろう。

それはとにかく、アメリカ合衆国をモデルに建国されたという満洲国における日本の利権と主導に対して、アメリカを始めとする欧米諸国が複雑な感情を抱いたことは想像できる。遅れて欧米の列強に割り込み始めた日本人に対する偏見や憎悪がそこになかったとはいえない。満洲国の建設の様子はすでに映像に記録されていてyoutubeなどに見ることもできる。

当時の満洲国の独立の承認をめぐって日本は国際連盟を脱退し、後に戦争へと至る道を歩み始めていたが、国際的に完全に孤立していたわけでもなく、ドイツやイタリアなどのいわゆる枢軸国やバチカンからの承認を得ていた。

当時の日本の国策についての検討もいずれ行いたいと思うけれど、とにかく日本とアメリカとの矛盾と利害対立は、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を端緒としてついに太平洋戦争として頂点に達した。著者は戦争の始まったこの年に生まれていたことになる。著者が満洲国に生を享けるに至ったいきさつについては、本書に次のように述べられてある。

「中国大陸にはアヘンやモルヒネ中毒患者が大勢いる。中国に渡ってギフトールを製造すれば多くの人を苦しみから救うことができる。父はこの仕事を天から授かった使命と受け止め、1937年(昭和12年)に中国に渡った。父四八歳、母二九歳、そして二人の間には、父の先妻の子である十六歳の男児が一人と、父と母との間にできた一歳の女の子が一人いた。」(s.25)

現在の中国吉林省長春市は著者が生まれた当時は、満州国の国都として「新京」と呼ばれていた。そして著者が生まれてからわずか五年後には日本は大東亜戦争に敗北し、日本がその建国を主導した満州国は1945年8月18日に皇帝溥儀が退位して滅亡する。

著者の父が従事して大きな収益を得ていた製薬業も日本の敗戦と満洲国の滅亡にともなって入ってきた蒋介石の国民党によって中国の企業として改編された。製薬技術は当時の中国民衆にとっても重要であり、製薬技術者として著者の父は中国国民党によって留用されたのである。その結果として満州在留の多くの日本人が祖国に引き揚げていったのに著者の家族は中国にとどまることになった。

その後1946年になって中国大陸には毛沢東の指導する中国共産党と蒋介石の指導する国民党との間に内戦が発生した。本書のテーマでもある、著者の遠藤氏が巻き込まれ体験することになった「卡子の悲劇」は、まさにこの中国国内の国共内戦のさなかに起きた事件である。

国民党は旧満洲国の首都であった新京、長春を死守しようとし、毛沢東の中国共産党の八路軍は、都市を農村が包囲するという戦略を取って、著者の暮らしていた長春を包囲する。国民党軍は空輸によって食料品などを確保していたが、著者家族たちや一般民衆は食糧もなく飢餓で苦しみ死に絶えてゆく。そうしたおぞましい環境の中に、まだ幼い著者は暮らさざるを得ず、そこでの体験が著者の精神に深い傷としてトラウマとして刻まれることになる。その体験が克明に本書に記録されている。

「卡子(チャーズ)」とは、長春市域にあって国民党軍と八路軍に挟まれた中間地帯で、鉄条網で二重に囲まれたところである。多くの難民はそこに閉じ込められ、どこにも脱出できずに多くの民衆がそこで餓死してなくなった。後にになって著者が調査したところによれば、その死者は30万人にも及ぶという。しかし、この事件については今日においても中国共産党政府は公式には認めていないという。

一時は共産党八路軍は長春に侵入してきたがすぐに国民党軍が市街に戻り、八路軍は市を取り巻いて持久戦に持ち込むという膠着状態が続く。そこで飢えから兄や弟を失った著者の家族は長春を脱出することを決意する。特殊な製薬技術者であった父は八路軍にも重用され「卡子(チャーズ)」という生き地獄から出ることを許されて、すでに共産主義勢力の手に落ちていた延吉に向かう。途中傷病で死の淵に沈みかけた著者を救ったのは、かって父の工場で働いていてその時は八路軍の衛生兵になっていた若い中国人だった。

新しく移動した朝鮮系の住民の多い延吉もすでに共産主義主義社会の生活圏で、そこで著者家族たちも共産主義の洗礼を受ける。

「私たちが延吉に着いた時には、終戦時の混乱や人民裁判はすでに下火になっており、代わりに洗脳の嵐が吹きまくっていた。」「延吉に住む日本人の間では、週に三回、夜の学習会というものが開かれていた。洗脳のための学習会だ。共産主義思想で日本人の脳を洗い直す。」(s.13)

毛沢東の中国共産党が支配権を確立し始めた中国における共産主義運動の現実の姿が体験的に描写されている。

 「もう、やるだけのことはやりました。この上は両腕両足を切断する以外にありませんが、切断したところで、それで助かるという保証があるわけではないですからねえ・・・・・。ま、せめて何か本人の欲しがるものでも食べさせてあげてください」(s.229)

著者は大衆病院の熊田先生から臨終を宣言されるが、父親の奔走で手に入れたストマイでかろうじて一命を取り留める。その蘇生と時を同じくして、著者は共産主義中国の建国と運命をともしてゆく。この時1949年、著者は8歳になっていた。

その地で小学校に入学した著者は共産主義教育を受ける。そこでの経験を次のように記録している。

「勉強だ、勉強だ。歌を歌い、歌のリズムに合わせて右手、左手と交互に握り直しながら、校庭にしゃがんで炭団を作っている。教室の中からは別の歌声が流れる。「民衆の旗、赤旗は」で始まる曲だ。校舎に入ると頭の上に三枚の肖像画がかけてある。中央がスターリン、その両隣が毛沢東と徳田球一である。」(s.252)

しかし、そこでかすかに芽生えはじめた著者の未来への期待を裏切るかのように1950年昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。延吉に住む日本人にも疎開さわぎが及んでくる。そうしたときに、かって著者の父の製薬会社に雇われたことがあり、その時は事業に成功していた中国人から天津に招かれるという僥倖に恵まれる。天津は中国上海と並んで都市文化の色彩を色濃く残した大都会である。

天津というイルミネーションの洪水が夜空いっぱいを駆けめぐる大都市にたどり着いてはじめて、かっての長春での豊かな生活を思い出し、10歳足らずの女の子にはあまりにも過酷なそれまでの逃避行での体験からも癒されてゆく。天津での豊かで美しい都市生活の様子が文学者のような筆致で描かれている。

「気がつくと、私たちはあるレストランの前に立っていた。私たち一家をこの天津に招いてくれた張佑安さんが経営する「克林餐庁」というロシア料理の店である。ガラス戸の向こうに、金ボタンのついた赤い服を着た、痩身の少年が二人立っている。服とお揃いの、金糸の縁取りのついた赤いアーミーハットを斜めにかぶったそのドアボーイたちはおもちゃの兵隊を思わせる。まるで機械仕掛けのように両開きのドアを中心に面対称に動いている。二人はドアを開けながら揃ってお辞儀をし、白い手袋で私たちの行き先を差し招いてくれた。白手袋の先には幅一メートル半ほどの真紅の絨毯が続く。天井にはガラスの雫を無数にぶら下げたような大きなシャンデリアが燦然と輝く。透明な雫は虹色に乱反射して、今にもしたたり落ちてきそうだ。」(s.290)

そうした生活のなかでやがて著者は感情の正常な発露を取り戻してゆく。その一方で新しく始まった天津での裕福な階層としての学校生活の中で、中国にとっては敵国人であった残留日本人として、著者は社会のもう一つの現実を思い知らされながら生きることになる。そこでの体験は次のように描写されている。

「華安街七号に日本人が住んでいるという噂はすぐに広まったらしい。そして顔も覚えられてしまったようだ。学校の行き帰りに、近所の子供に、「日本鬼子!(日本の鬼め!)」「日本狗!(日本の犬畜生!)」と罵られ、石を投げつけられるようになる。唾を吐き吐きかける者もいれば、手鼻の鼻汁を吹きかけるものもいる。学校いる間はもっと肩身が狭い。授業はすべて政治学習であるといっていいほど、思想教育が徹底しているからだ。いかに毛沢東が偉大であるか、いかに中国共産党がすばらしいか、日本帝国主義の侵略によっていかに中国人民が苦しんだか、しかし人民はいかにして勇敢に抗日戦争に立ち上がったか、その先頭に立った人民解放軍はいかに輝かしい軍隊であるか・・・。これらがくり返しくり返し語られる。日本帝国主義、日本の中国侵略、三光作戦、南京大虐殺、抗日戦――。」

「かって裕福な家庭の子女であったとは言え、彼らの身の上にも侵略戦争の爪痕が残されていないわけではない。もう十七歳になる、片足をなくした子、日本軍によって親を失った子、そんな生徒たちも中にはいる。そういう人たちの目の中には嘲りではなく、あからさまな憎しみがある。まるで、こうなったのもすべてお前のせいだ、と言わんばかりだ。日本人であることは、ここでは、それだけで罪人であることに等しい。十歳の女の子が、あの「侵略戦争」の全責任を負わされ、八十個あまりの瞳の責めを一身に担わなければならない。」(s.315)

「・・・その学期はただただ、戸惑いと屈辱と、日本人であることへの謂れなき罪悪感と劣等感の中で終わった。しかし、それらにびくつきながらも、学期の終わりには私はすでに中国語をほとんど理解するようになっていた。それでも試験の対象からは外された。夏休みに入ると私はこっそりと、そして猛然と発音練習に励んだ。中国人と寸分たがわぬ発音をしなければならない。発音の違いはすなわち日本人であることの証となり、それはすぐさま激しい非難といじめにつながる。学校という社会において私を守ってくれるものは何もない。」
(s.317)

このように戦争が、中国、朝鮮、アメリカ、日本などの国家間の政治的な、歴史的な軋轢が、まだ10歳になるかならぬかという少女の生活や心に深刻な影を刻み込んでゆく。

1953年(昭和28年)3月になってスターリンが死に、7月に朝鮮戦争が休戦になると、在留日本人の帰還が取り上げられ、また、ソ連からの産業技術の導入が始まると、中国は日本人技術者の留用から転じて引き揚げを勧告するようになった。そうした環境の変化の中で著者の父が帰国を決意させるようなった動機について次のように書いている。このとき1953年昭和28年著者は11歳である。

「私は日本に向かう船の甲板に立っていた。三反五反運動の中で、父と母が特に目をかけていた女性が父を突き上げる側にまわったことが、父に帰国を決心させたからだ。・・・常に他人を攻撃していなければその日が無事に送れないような、こんな体制の中では、人の道を全うすることができない。父は、そう見極めたらしい。中国人民への服務を、自らに課した終身の掟として公安局の帰国勧誘を断ってきた父だが、この一件があってから突然気持ちを変えた。」(s.357)

 



 

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アマゾンレビュー:八幡和郎「本当は分裂は避けられない!? 中国の歴史 (SB新書)」

2016年08月28日 | 書評


アマゾンレビュー:八幡和郎「本当は分裂は避けられない!? 中国の歴史 (SB新書)」

http://amzn.to/2bJE336

『分裂』云々よりも殷王朝から共産党王朝までの歴史概論. 投稿者 LAW人 #1殿堂トップ50レビュアー 投稿日 2015/4/19

形式: 新書
八幡氏の著書は何冊か読んでいるが、本書のタイトルは本書 の趣旨を正しく表象していない。著者は「はじめに」において、「本書のタイトルですが、中国が分裂してくれた方が良いという意味ではありません……史上最 大級の巨大国家でありながら、脆弱性をもった中国の将来が心配……中華国家と中国人を客観的にとらえよう」とする意図を吐露している。概ね時間軸に沿った 中国の歴史を客観的に綴っているものと言うべきで、タイトルや右に言う「脆弱性」の懸念に示唆されるような「分裂」の蓋然性を明確に論じるものではない。 率直な私見を言えば、中国史におけるいわゆる王朝と諸民族の“合従連衡”の繰り返しの歴史性をして、「分裂」の歴史的潜在性を指すものと観るべきか些か迷 うところでもある。けだし著者は「エピローグ」において、「中国などとは関わらない方がよいなどというのはとんでもない暴論……両国の世界における立ち位 置が変わり過ぎて混迷し、互いに気まずくなっている……日本経済が再び活性化すれば、日中関係も自然とよくなる」等とした、(私見では)些か楽観論を展開 しているからである。中国のこのところの“海洋覇権”主義(海軍装備の増強、東・南 シ ナ 海問題ほか)などを鑑みれば、事態は著者の言うほど単純な経済情況で片付くものではないと考える。本書はかかる中国外交・政治論ではないのでこれ以上の右 「エピローグ」の是非は措くとして、殷王朝から共産党王朝までの歴史概論というスタイルである。構成・内容はこのページの「商品の説明」及び「目次を見 る」に譲り、以下個人的に興味を惹いたトピックを紹介したい。

まず全体的に(著者は歴史研究系の履歴は見えないが)、他書にも見えるが (近現代史は格別)史資料の考証・参照に不充分な傾向がある。具体的には、著者の推論・論説においては如何なる史資料に依ったものか、たとい本書が歴史概 論であっても重要トピックでは明示すべきであろう。私が通読する限り、珍説・俗説はないように見えるが、例えば日本人のルーツ論(59〜62頁など)で は、最近のDNA分析による弥生人と縄文人との関係の研究結果(学説)にも言及した方が良いだろう。他方興味深いのが「志 那」の語源(23頁以下)、当事国の意思は別論としても「差別用語」のように扱うのは著者と全く同感である。現に海洋名(東・南)に用いられていることと 整合性が取れない。また「夏王朝」と「二里頭遺跡」(文化)の関連性など議論のあるところだが、懐疑的な筆致はほぼ有力説に従っているが、依拠資料等が明 示されれば説得性の増す論説だろう(52〜55頁)。元王朝(モンゴル民族)の評価についても興味深く、宮崎正勝氏の近著(『空間から読みとく世界史』) と同旨で「モンゴル帝国」の果たした世界史的意義ーー中国・ロシア・インドといった広域における歴史起源性ーーを説いている(160頁以下)。尤も宮崎氏 はより広い「モンゴル帝国」の歴史的意義を考察しており詳しい。本書における著者のスタンスは客観的(中立的)と観て良いだろうが、前記「エピローグ」は 別論として、史資料考証の不充分と近現代史にボリュームの薄さを感じるが、歴史概論としては要所を重点にしており読みやすいと思う。
 
 
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実践・私の中国分析―「毛沢東」と「核」で読み解く国家戦略

2015年01月10日 | カスタマーレビュー

実践・私の中国分析―「毛沢東」と「核」で読み解く国家戦略

単行本 – 2012/12

 

最も参考になったカスタマーレビュー


10 人中、10人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
 
投稿者 閑居人 殿堂入りレビュアートップ50レビュアー 投稿日 2013/2/12

一般には、著者は、特異な中国軍事問題研究者と見なされているであろう。しかし、その独自で的確な予測能力には、誰もが多くの敬意を抱いてきたはずだ。
本書は、二つの部分から成る。一つは、「尖閣」に揺れる西太平洋の覇権問題を含む中国共産党の世界戦略の分析である。そしてもう一つは、「中国分析を可能にする平松メソッド」の検証である。これは後輩たちへ贈る「考えるヒント」であろう。
まず、著者は、現在の「尖閣危機」は、中国海軍の本当のねらいをそらす「陽動作戦」であるという。もちろん弱腰日本をたたけるならいずれ「沖縄併合」まで視野に入るし、何より国民が熱狂する。しかし、中国海軍の本来の目標は「台湾」であり、「西太平洋」だ。
中 国海軍の中期的目標は、「第一列島線」を突破して「第二列島線」に至ることにある。青島や寧波に拠点を置く「北海艦隊」「東海艦隊」は、沖縄と宮古島の間 を抜けて、フィリピンの南のバシー海峡を抜けてきた「南海艦隊」と沖ノ鳥島西方海域で合流して「連合艦隊」を編成する。このことのために日米の世論を「尖 閣危機」に釘付けにしておく。春暁ガス油田もヘリポートがあり、いざというときにミサイル基地化できることが重要である。中国海軍が「第二列島線」まで 「中国の海」にすることが可能ならば、2020年代に、「台湾」の併合は現実化されるだろう。1996年に「李登輝」の総統選を巡って中国とアメリカが台 湾海峡で火花を散らしたが、この海域の中国支配が進めばアメリカは口出しできなくなるだろう。完全に包囲してから、中国は執拗な「話合い」と統一工作で 「中華民国・台湾」を「中華人民共和国台湾省」として平和的に獲得できる。
著者は、「毛沢東の国家戦略」は、もっと注目されるべきであると主張す る。毛沢東が行った「大躍進政策」「人民公社運動」「文化大革命」などは批判の嵐にさらされたが、「核開発」を始めとする「国家100年の計」を1949 年の建国に際して立てたのは毛沢東であり、それがトウ小平以下に引き継がれたのだ。貧しい1950、60年代を「核戦略」と「人民戦争戦術」の併存で乗り 切り、日米と台湾の離間に成功し、アフリカ諸国の支援を得て国連安保理事国の座を奪い、日本のODA援助をかすめ取って1990年代以降の「宇宙戦略」と 「海軍力増強」に向かう。建国以来、毛沢東は、国際戦略の最重要ポイントを確実に把握し、どんな無理をしてでも実現してきた。遠回りしているように見えて も、それが、今、実を結ぼうとしている事実は否定できないのではないか。

一方、日本人の生存と国家の存立を考えたときに、これから少なくとも数十年間の日中関係は、「偶発的局地戦」も視野に入れた神経戦、「日中冷戦」時代に入った。もはや「日米安保」に寄りかかって安心していられる状況ではない。
著者は、現在の日本の防衛政策について、以下の提言をする。
「憲法改正」は自明の前提であるが、少なくとも次の三条件が必要である。「日本の核武装(核ミサイルを搭載した原子力潜水艦の配備)」「日米安保の強化」「最低限の中国との友好関係」。
それに加えて、日本が、今後、「台湾を守るのか」という問題は「現在のシーレーンの確保を日本経済の生命線と捉えるのか」ということと結びついている。受け身でいれば、「中華民国・台湾」は中国に吸収されるだろう。それで本当にいいのかという問題がある。
「尖閣防衛」で事足りる問題ではない。今からでも遅くはないから、宮古島や西表島、尖閣諸島に自衛隊を配置しなければならないと著者は説く。何より日本にも「積極的な中長期的海洋戦略」と「機動的な海上戦力」が必要なのである。
考 えて見れば、1980年代には「シーレーン防衛」は常識であった。それがなし崩しに中国海軍に浸食され、日本の政策が後手後手にまわっている。このことが 本当の危機である。日本が毅然として臨めば、中国からはありとあらゆる罵声が浴びせられ、同時に国内メディアからは「危険な賭」と中傷されるだろう。しか しそこで萎縮すれば、「日本」という国家は無くなってしまう。永遠に変わらない繁栄など無い。中国の属国になって生きることができない以上、「日本」が生 きるか死ぬかの覚悟が必要なのだ。

さて、平松氏の研究方法「平松メソッド」については、直接本書をお読みいただくことが最も効果的だろ う。氏が書かれていることの一例を挙げれば、「人民日報」と「解放軍報」の精読である。基本はこの二つの「一次資料」の徹底的な読み込みである。もちろ ん、著者の履歴や研究歴の中に著者の独自性を育む要因があったことは言うまでもない。著者の個人的履歴も披瀝されていてまことに興味深いものがある。

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投稿者 まちゃまちゃ 投稿日 2014/7/29

 中国軍事の専門家である著者が、どうやって中国を分析してきたかという方法論がまとめられていて非常に興味深い。こういったテーマでまとめられた本は非常に珍しいと思う。
  著者の研究方法は一言で言えば非常にオーソドックス。秘密情報の取得や独自の情報ルートなどを模索せずに、新聞をはじめとする公開情報をコツコツと収集 し、行間に書かれていることを読み解き、パズルを一つずつはめていくことで、中国の目指している方向を導き出して行っている。それはまさに職人の如くであ る。情報に踊らされる学者や評論家が多い昨今、こういった職人的研究者は貴重であろう。
 専門家や研究者は自分独自の方法で事象を分析しているので、著名な人物のメソッドをシリーズ化したらと思う。

 

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図書館検索サイト

2012年04月09日 | 教育・文化

 

「カーリル」という図書館検索サイトがある。それによって、ほとんど日本全国の、どこの図書館に、どのような本があるか、即座にわかるし、また貸し出しの予約も簡単にできるようになっている。とても便利になったと思う。

カーリル
http://calil.jp/

インターネットの普及にする時代になって、たしかに多くの点で実に便利になった。世界中の情報が、世界中の新聞や図書など、もちろん玉石混淆、いかがわしいものから、世界中の古典や名著、珠玉の作品に至るまで、家に居ながらにして閲覧できるようになった。このような情報社会の進展、科学技術の進展こそがもっとも強力な社会変革の条件をなすのだと思う。社会の経済的な基礎的な条件の、マルクス流に言えば「下部構造」の変革に比べれば、特定の個人や思想家、哲学者などの思想は、その社会変革に与えるインパクトも取るに足らない微弱なものでしかないのかもしれない。

一昔も前になるけれども、西尾幹二氏らが「新しい教科書を作る会」等を組織して、いわゆる「自虐史観」の克服を訴えておられた頃、千葉県舟橋市にある公共図書館で、そこに勤務する司書が西尾幹二氏らいわゆる「右派」とされる人たちの著書、図書を一括して廃棄したとして、裁判所に訴えられるという事件があった。

「最高裁(第一小法廷)平成17年07月14日判決」
〔憲法・公共施設・国賠1条-公立図書館司書による特定書籍廃棄と著者の権利/船橋西図書館〕
http://www.hiraoka.rose.ne.jp/C/050714S1.htm

「船橋焚書事件」
http://homepage2.nifty.com/busidoo/Shihou/funnsyo9.htm

たしかに公共の図書館というのは、特定の思想、党派、宗教に偏在することなく、機会均等の全面的な情報開示を原則とすべきだろう。たとい個人がどのような思想的立場にあるとしても、憲法によっても思想信条の自由や、宗教、学問の自由が保障されているように、公共の施設のあり方としては、あくまで公平で公正な図書閲覧の機会均等が保障されるべきだと思う。そうしてこそ、歪められることなく真理が顕らかにされる社会が構成されるのだと思う。

このうような図書検索システムが公衆に広く明らかにされ、その使用も公開されることは、そういった点からも、情報公開の原則と市民的な自由と拡大、強化に、さらに役立つことだろうと思う。

閉塞する時代には、進歩的な歴史観というのは概して軽蔑されがちだけれども、科学技術の、とくに情報技術の発展にともなって情報の開示の原則が深まり、さらに普遍的なものとなりつつあることは、その多くの否定的な側面を乗り越えて、明らかに肯定的に評価できるものだと思う。

 

 

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書評『近代思想と源氏物語 』橡川一朗

2008年03月05日 | 書評

 

書評『近代思想と源氏物語 ―――大いなる否定』橡川一朗
1990年4月15日  花伝社

一昔前に手に入れはしたけれど、とくに気を入れて読みもしなかった本を取り出してもう一度読んだ。あまり生産的な仕事であるとも思えないが、 それでも一応は読んでしまったので、 とりあえず書評というか感想文は書いておこうと思った。

日本の学校では、とくに大学においてさえ、 書評を書いて研究するということなどほとんど教えられていないようなので、ごらんのように「書評」とも言えない単なる感想文のようなものでも、みなさんが「書評」を書く際に反面教師としてでも少しは参考になるかとも思い、恥を省みず投稿しました。

Ⅰ・本書の構成

目次から見ると、本書の構成は次のようになっている。
第一部  西洋の二大思想
  序章  西洋の社会と経済の歴史
第一章  キリスト教と罪の意識
第二章   近代文学における罪の意識と体制批判
第三章  認識論から民主主義へ
 
第二部  日本文化史上の二大思想

序章    日本の社会と経済の歴史
第一章  東洋の認識論
第二章  日本における罪の意識

第三部  源氏物語の思想

第一章  源氏物語の作者の横顔
第二章 源氏物語の思想
第三章 両哲理と批判精神

Ⅱ・内容の吟味

だいたい、本書の構成としては以上のようになっている。私たちが一冊の本を読む場合、まず、著者が 「その本を書いた動機なり目的は何か」を確認する。それと同時に、私が「本書を手にした動機は何か、その目的は何か」ということも確認をしておく。

筆者の本書執筆動機はおよそ次のようなものであると思われる。
まず、時代背景としては、第二次世界大戦における同じ敗戦国である旧西ドイツにおける政策転換の現実がある。

その西ドイツにおけるその政策転換の根拠について筆者は次のように言う。
「ドイツの宗教改革者ルターや哲学者カントの思想が、ドイツで復活しつつあるからではないか、と想像される」。そして、さらに「なぜならばルターの宗教思想の核心は「罪の意識」という徹底した自己否定であり、カントの哲学は、デカルトと同じく、一切を否定する厳しい懐疑から出発している。つまり、ルターもカントも、それぞれ「大いなる否定」を原点とし、したがって発想の転換による民族再生の道を教えることにもなる。」(はしがきp10)

このように書いているように、筆者の言う「大いなる否定」とは――これは本書の副題にもなっているが、――つまるところ、宗教的には「罪の意識」であり、哲学的、認識論的には「懐疑論」のことであった。そして、この両者が民主主義と結びついており、我が国が民主主義国家に転生するためにも、筆者は、この「大いなる否定」(^-^)が必要であり、それを我が国において学び取ることができるのは他ならぬ『源氏物語』であるというのである。それによって、日本人の民主主義が借り物ではなくなるという。そのためにも著者は日本国民に『源氏物語』の読書を勧める。(^-^)

だから、西ドイツにおける民主主義の転換を見て、日本もそれに追随すべきであるという問題意識が筆者にあったことは言うまでもない。この本が書かれた1990年の時代的な背景には、まず東西冷戦の終結があった。そして1920年に生まれた著者は、文字通り戦後日本の社会的な変革を体験してきたはずである。そして、何よりも著者の奉職した都立大学はもともと、マルクス主義の影響を色濃く受けた大学であった。本書の論考において著者のよって立つ視点には、このマルクス主義の影響が色濃く見て取れる。

筆者の本書執筆のこの動機については、おなじはしがきの中にさらに次のようにもまとめられている。

「西ドイツの政策転換は、大革命以来の民主的伝統を誇るフランスとの、和解を目的とした以上、当然、民主国家への転生の誓いを含んでいた。わが日本が諸外国から信頼されるためにも、民主主義尊重の確証が必要である。西洋では、罪の意識も認識論哲学も、ともに大いなる否定(^-^)に発して、万人の幸福を願う民主主義の論理を、はらんでいる。日本の両哲理も、その点で同じはずであるが、それを証明しているのは、ほかならぬ源氏物語である。そして、源氏物語から民主主義を学び取ることは、われわれの日本人の民主主義が借り物ではなくなる保障である。しかも、その保障を文学鑑賞を楽しみながら身につけられるのは、幸運と言うほかあるまい。」(p12)

以上に、筆者の本書執筆の動機はつきていると思う。それを確認したうえで、本書の内容の批判にはいる。

筆者の本書におけるキイワードは、先にも述べたように「罪の意識」と「徹底した懐疑」であり、この二つが、本書の副題となっている「大いなる否定」の具体的な中身である。

そして、筆者は「罪の意識」の事例として、古今東西の宗教家や文学者の例を取り上げる。それは、西洋にあっては、ルターであったり、カルヴァンであったり、ルソーであったり、トルストイであったり、シェークスピアであったりする。わが国ではそれは、釈迦の仏教であり、親鸞や法然であり、源氏物語の紫式部の中にそれを見いだそうとする。

そしてそうした、いわば形而上の問題に加えて、筆者の専門でもあるらしい「社会経済史」の論考が、本書の展開の中で第一部にも第二部においても序章として語られている。第一部の「西洋の二大思想」には序章としては、「西洋の社会と経済の歴史」が、第二部の序章では「日本の社会と経済の歴史」について概略的に語られている。先にも述べたように著者の依拠する思想体系としてはマルクス主義が推測されるが、しかし、ただ筆者はその思想体系の明確な信奉者ではなかったようである。筆者は歴史を専攻するものであって、特定の思想を体系的に自覚した思想家ではなかった。

筆者の意識に存在していて、しかも必ずしも明確には自覚はされてはいない価値観や思考方法に影響を及ぼしているは言うまでもなくマルクス主義である。その思想傾向から言えば、「宗教的な罪の意識」や「厳しい懐疑論」がイデオロギーの一種として、一つの観念形態であると見なされるとすれば、それの物質的な根拠、経済的な背景について序章で論じようとしたものだろうが、その連関についての考察は十分ではない。マルクス主義の用語で言えば、下部構造についての分析に当たる。唯物史観の弱点は、「存在が意識を決定する」という命題が、意志の自由を本質とする人間の場合には、「意識が存在を決定する」といもう一つの観念論が見落とされがちなことである。

著者の専攻は「歴史学」であるらしい(p32)が、著者にとっては、むしろこの下部構造についての実証的な歴史学の研究に従事した方がよかったのではないかと思われる。たしかに、仏教の認識論やロックやデカルトの認識論について、一部に優れた論考は見られはするものの、哲学者として、あるいは哲学史家として立場を確立するまでには到ってはいない。哲学研究としても不十分だからである。哲学論文としても、唯物史観にもとづく社会経済史研究としても、いずれも中途半端で不十分なままに終わっている。この書のほかに著者にとって主著といえるものがあるのかどうか、今のところわからない。

それはとにかく、本書においても、やはり、哲学における素養のない歴史学者の限界がよく示されていると思う。その一つとして、たとえば筆者のキイワードでもある「大いなる否定」がそうである。いったいこの「否定」とはどういうことなのか、さらに問うてみたい。また、哲学的な意義の「否定」であれば「大いなる」もなにもないだろうと思うし、哲学的な「否定」に文学的な表現である「大いなる」という形容詞を付する点などにも、哲学によって思考や論理の厳密な展開をトレーニングしてこなかった凡俗教授の限界が出ている。そこに見られるのは、論考に用いる概念の規定の曖昧さであり、また、概念、判断、推理などの展開の論理的な厳密さ、正確さに欠ける点である。それは本書の論理的な構成についても言えることで、それは直ちに思想の浅薄さに直結する。

筆者のこの著書における立場は、「マルクス主義」の影響を無自覚に受けた、マルクスの用語で言えば、「プチブル教授」の作品というべきであろうか。(もちろん、ここで使用する意味での「プチブル」というのは,経済学的な用語であって、決して道徳的な批判的スローガン用語ではない。)

そのように判断する根拠は、たとえば、イエスの処刑についても、著者の立場からは、「キリストに対する嫌疑の内容としては、奴隷制批判のほかには考えられない」(p37)と言ってることなどにある。著者の個々の記述の詳細についてこれ以上の疑問をいちいち指摘しても仕方がないが、ただ、たとえば第一部の2で、パウロのキリスト観を述べたところで、彼は言う。「革命家キリストが対決したのも人間の「罪」、つまり奴隷制という、社会制度上の罪悪だった」が、その社会的な罪をパウロが「内面的な罪」へ転換した」と。

このような記述に著者の立場と観点が尽きていると言える。ここではキリストが著者によって「革命家」に仕立て上げられている。(p41)誤解を避けるために言っておけば、イエスに対するそのような見方が間違いであるというのではない。それも一つの見方ではあるとしても、20世紀のマルクス主義者の立場からの見方であるという限界を自覚した上でのイエス像であることが自覚されていないことが問題なのである。だから、著者はそれ以上に深刻で普遍的な人間観にまで高まることができない。

Ⅲ・形式の吟味

本書における著者の執筆動機を以上のように確認できたとして、しかし、問題は著者のそうした目的が、本書において果たして効率的に必然的な論証として主張し得ているのかどうかが次の問題である。

まず、本書構成全体が科学的な学術論文として必要な論理構成をもたないことは先に述べた。科学的な学術論文として必要な論証性についても十分に自覚的ではない。その検討に値する作品ではない。そうした点においてこの作品を高く評価することはできない。

第一部で著者は、「西洋の二大思想」として、「罪の意識」と「懐疑論」を挙げているが、その選択も恣意的であるし、そもそも「罪の意識」と「懐疑論」は、一つの概念でしかなく、それをもって概念の集積であるべき思想と呼ぶことはできない。それらは思想を構成すべき、一個の概念か、少なくとも観念にすぎない。この二つの観念が、著者の意識にとっては主要な概念もしくは観念であることは認めるとしても、それが客観的にも西洋思想史において主要な「思想」と呼ぶことはできない。

ちなみに「思想」とは何か。その定義を手近な辞書に見ても次のようなものである。(現代国語例解辞典、林巨樹)「1.哲学で、思考作用の結果生じた意識内容。また、統一された判断体系。2.社会、人生などに対する一定の見解。」と記述され、その用例として、「危険な思想」、「思想の弾圧」「思想家」などが挙げられている。

だから、この用例にしたがえば、少なくとも「思想」と呼ぶためには、「キリスト教思想」とか「民主主義思想」とか「共産主義思想」とか国家主義とか全体主義といった、ある程度の「統一的な判断体系」が必要であって、「罪の意識」や「懐疑論」という観念だけでは、とうてい「思想」と呼ぶことはできない。

ただ、こうした観念は、西洋の思想に普遍的に内在しているから、もし表題をつけるとすれば、「西洋思想における二大要素」ぐらいになるのではないだろうか。このあたりにも、用語や概念の規定に無自覚な「歴史家」の「思想家」としての弱点が出ている。

本書のそうした欠陥を踏まえた上で、さらに論考を続けたい。この著書の観点として「罪の意識」を設定しているのだけれども、ここで問われなければならないのは、どのような根拠から著者はこの「罪の意識」と「懐疑論」を「大いなる否定」として、著者の視点として設定したのかという問題である。

それを考えられるのは、筆者の生きた時代的な背景と職業的な背景である。それには詳しくは立ち入る気も分析する気もないが、そこには戦後の日本の社会的、経済的な背景がある。ソ連とアメリカが東西両陣営に分かれてにらみ合うという戦後の国際体制の中で、我が国内においても、保守と革新との対立を構成した、いわゆる「階級対立」がこの筆者の意識とその著作の背景にあるということである。その社会的、時代的な背景を抜きにして、著者のこの二つの視点は考えられない。そうした時代背景にある「社会的な思潮」の影響が本書には色濃く投影されている。

ただ、だからといって著者は何も階級闘争を主張しているのでもなければ、支配階級の打倒を呼びかけているのでもない。ただ、「罪の意識」から「認識論としての懐疑論」へ、そして、さらにいくぶん控えめに「民主主義」が主張されているにすぎない。そして、それを総合的に学べるものとして、その手段として『源氏物語』の文学鑑賞を提唱するだけである。

ただしかし、問題はこの著者の彼自身に、この「罪の意識」「懐疑論」という視点をなぜ持つに至ったのかという反省がないか、少なくともそれが弱いために、そこで展開される論考も現実への切り込みの浅いものになっている。その結果として、筆者自身はこの「罪の意識」も「懐疑論」も克服(アウフヘーベン)できず、より高い真理の立場、大人の立場に立つことができないまま終わってしまっている。

とにかく、著者はそうした観点から、第一章で「キリスト教と罪の意識」として、キリスト教に「罪の意識」の発生母胎を求めている。たしかに、キリスト教はそれを自覚にもたらせたことは間違ってはいないと思う。しかし、罪の意識は仏教、イスラム教など多くの宗教に共通する観念であって、何もキリスト教独自のものではない。それは人間の本質から必然的に、論理的に生じるものである。キリスト教や仏教における「罪の意識」は、その特殊的な形態にすぎない。

ただ、「罪の意識」の根源に社会制度を、古代ギリシャにおける奴隷制度の存在や、インド仏教の背景として、カースト制度を、また、トルストイの諸作品の社会的背景として、当時のロシアの農奴制度や貴族制度などが認められるのは言うまでもない。文学や宗教もその生活基盤の上に、その経済的な基盤のうえに成立するものだからである。これを明確に指摘したのはマルクスの唯物史観である。もちろん、その意義は認めなければならないが、ただ、この史観の不十分な点は、彼の唯物論と同じく、観念と物質を悟性的に切り離して、その相互転化性を認めなかった点にある。いずれにせよ、そうした点において、文学上に現れた「罪の意識」や「懐疑論」などの「大いなる否定」という観念の社会経済的な基盤との必然的な関連を著者がもっと深く具体的に追求していれば、もっと内容豊かな作品になっていたのではないだろうか。

Ⅳ・本書の社会的、歴史的意義について

本書の論理的な展開やその論証についてはきわめて不十分であり、したがって、科学的な学術論文としては評価はできない。だから、実際に日本人が『源氏物語』を文学鑑賞したとしても、本居宣長流の「もののあはれ」を追認するのみで、果たして「罪の意識」と「懐疑論」を深めることを通じて民主主義の意識の形成に果たしてどれだけ役立つことになるのか疑問である。

たしかに、源氏物語にも、また仏教思想にも、あるいは儒教にすら「民主主義」的な要素は探しだそうとすればあるだろう。しかし、そこから直ちに、民主主義をこれらの宗教や思想から帰結させようとするには無理があるように、源氏物語に「罪の意識」と「懐疑論」を見出して、そこに民主主義の素養を培うべきだという筆者の問題提起には無理があるのではないだろうか。

本書はこのように多くの欠点をもつけれども、示唆される点も少なくはなかった。従来から西洋哲学の方面に偏りがちだった私の意識を東洋哲学へ引きつけることになった。とくに仏教の認識論により深い興味と関心をもつようになったことである。また、「源氏物語」の評価についても、伝統的な一つの権威として、国学者である本居宣長の「ものの哀れ」観の束縛から解放されて、あらためて仏教思想の観点から、今一度この文学作品の価値を検討してみたいという興味を駆り立てられた点などがある。

また、本書において著者自身にもまだ十分に展開することのできていない、ルターやカルヴァン、ルソーやロックといった民主主義思想の教祖たちの思想を、さらに源泉にまで逆上って、その時代と思潮との葛藤を探求してきたいという関心を引き起こされたことである。

ロックやカントやデカルトの認識論についても同じである。そうした方面の探求は、現代の日本における民主主義思想のさらなる充実につながるし、また、歴史的にも巨大な意義をもったドイツ・ヨーロッパにおける観念論哲学の伝統を、わが国に移植し受容し継承してゆく上でも、いささかでも寄与することになると思う。

※もし万一、当該書に興味や関心をお持ちになられたお方がおられれば、図書館ででも本書を探し出して、この「書評」を批判してみてください。

 

 

 

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