書評:遠藤誉著『卡子(チャーズ)――中国建国の残火』
書評というよりも、単なる読書記録、感想文に過ぎない。
この本の著者である遠藤誉氏は1941年(昭和16年)中国の吉林省長春市で生まれた。個人がいつどこで生まれるかは、その個人の宿命とも言えるもので、この本の著者もそうであるように、生まれた土地と時代が、その個人の命運を決定することになる。
著者の生まれた中国北東部には、当時すでに満洲国が建国されており、日本の強い影響力のもとにあった。というよりも日本の行政指導のもとで社会基盤が整備され「五族協和」の「王道楽土」をスローガンに、めざましく国造りが行われていた。
この満洲国の権益を巡る日本、アメリカ、ロシアの争いが、後の太平洋戦争の原因となった。日本に比較的に同情的な立場にあったポルトガル人で後に日本に帰化した作家で、もと駐日ポルトガル外交官だったヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えたという。
日本国の満洲国への関与については、太平洋戦争の敗北の結果、GHQやマルクス主義から道徳論で善悪の立場から論じられることは多いが、当時の価値観や国際情勢から多面的に考察される必要はあるだろう。
それはとにかく、アメリカ合衆国をモデルに建国されたという満洲国における日本の利権と主導に対して、アメリカを始めとする欧米諸国が複雑な感情を抱いたことは想像できる。遅れて欧米の列強に割り込み始めた日本人に対する偏見や憎悪がそこになかったとはいえない。満洲国の建設の様子はすでに映像に記録されていてyoutubeなどに見ることもできる。
当時の満洲国の独立の承認をめぐって日本は国際連盟を脱退し、後に戦争へと至る道を歩み始めていたが、国際的に完全に孤立していたわけでもなく、ドイツやイタリアなどのいわゆる枢軸国やバチカンからの承認を得ていた。
当時の日本の国策についての検討もいずれ行いたいと思うけれど、とにかく日本とアメリカとの矛盾と利害対立は、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を端緒としてついに太平洋戦争として頂点に達した。著者は戦争の始まったこの年に生まれていたことになる。著者が満洲国に生を享けるに至ったいきさつについては、本書に次のように述べられてある。
「中国大陸にはアヘンやモルヒネ中毒患者が大勢いる。中国に渡ってギフトールを製造すれば多くの人を苦しみから救うことができる。父はこの仕事を天から授かった使命と受け止め、1937年(昭和12年)に中国に渡った。父四八歳、母二九歳、そして二人の間には、父の先妻の子である十六歳の男児が一人と、父と母との間にできた一歳の女の子が一人いた。」(s.25)
現在の中国吉林省長春市は著者が生まれた当時は、満州国の国都として「新京」と呼ばれていた。そして著者が生まれてからわずか五年後には日本は大東亜戦争に敗北し、日本がその建国を主導した満州国は1945年8月18日に皇帝溥儀が退位して滅亡する。
著者の父が従事して大きな収益を得ていた製薬業も日本の敗戦と満洲国の滅亡にともなって入ってきた蒋介石の国民党によって中国の企業として改編された。製薬技術は当時の中国民衆にとっても重要であり、製薬技術者として著者の父は中国国民党によって留用されたのである。その結果として満州在留の多くの日本人が祖国に引き揚げていったのに著者の家族は中国にとどまることになった。
その後1946年になって中国大陸には毛沢東の指導する中国共産党と蒋介石の指導する国民党との間に内戦が発生した。本書のテーマでもある、著者の遠藤氏が巻き込まれ体験することになった「卡子の悲劇」は、まさにこの中国国内の国共内戦のさなかに起きた事件である。
国民党は旧満洲国の首都であった新京、長春を死守しようとし、毛沢東の中国共産党の八路軍は、都市を農村が包囲するという戦略を取って、著者の暮らしていた長春を包囲する。国民党軍は空輸によって食料品などを確保していたが、著者家族たちや一般民衆は食糧もなく飢餓で苦しみ死に絶えてゆく。そうしたおぞましい環境の中に、まだ幼い著者は暮らさざるを得ず、そこでの体験が著者の精神に深い傷としてトラウマとして刻まれることになる。その体験が克明に本書に記録されている。
「卡子(チャーズ)」とは、長春市域にあって国民党軍と八路軍に挟まれた中間地帯で、鉄条網で二重に囲まれたところである。多くの難民はそこに閉じ込められ、どこにも脱出できずに多くの民衆がそこで餓死してなくなった。後にになって著者が調査したところによれば、その死者は30万人にも及ぶという。しかし、この事件については今日においても中国共産党政府は公式には認めていないという。
一時は共産党八路軍は長春に侵入してきたがすぐに国民党軍が市街に戻り、八路軍は市を取り巻いて持久戦に持ち込むという膠着状態が続く。そこで飢えから兄や弟を失った著者の家族は長春を脱出することを決意する。特殊な製薬技術者であった父は八路軍にも重用され「卡子(チャーズ)」という生き地獄から出ることを許されて、すでに共産主義勢力の手に落ちていた延吉に向かう。途中傷病で死の淵に沈みかけた著者を救ったのは、かって父の工場で働いていてその時は八路軍の衛生兵になっていた若い中国人だった。
新しく移動した朝鮮系の住民の多い延吉もすでに共産主義主義社会の生活圏で、そこで著者家族たちも共産主義の洗礼を受ける。
「私たちが延吉に着いた時には、終戦時の混乱や人民裁判はすでに下火になっており、代わりに洗脳の嵐が吹きまくっていた。」「延吉に住む日本人の間では、週に三回、夜の学習会というものが開かれていた。洗脳のための学習会だ。共産主義思想で日本人の脳を洗い直す。」(s.13)
毛沢東の中国共産党が支配権を確立し始めた中国における共産主義運動の現実の姿が体験的に描写されている。
「もう、やるだけのことはやりました。この上は両腕両足を切断する以外にありませんが、切断したところで、それで助かるという保証があるわけではないですからねえ・・・・・。ま、せめて何か本人の欲しがるものでも食べさせてあげてください」(s.229)
著者は大衆病院の熊田先生から臨終を宣言されるが、父親の奔走で手に入れたストマイでかろうじて一命を取り留める。その蘇生と時を同じくして、著者は共産主義中国の建国と運命をともしてゆく。この時1949年、著者は8歳になっていた。
その地で小学校に入学した著者は共産主義教育を受ける。そこでの経験を次のように記録している。
「勉強だ、勉強だ。歌を歌い、歌のリズムに合わせて右手、左手と交互に握り直しながら、校庭にしゃがんで炭団を作っている。教室の中からは別の歌声が流れる。「民衆の旗、赤旗は」で始まる曲だ。校舎に入ると頭の上に三枚の肖像画がかけてある。中央がスターリン、その両隣が毛沢東と徳田球一である。」(s.252)
しかし、そこでかすかに芽生えはじめた著者の未来への期待を裏切るかのように1950年昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。延吉に住む日本人にも疎開さわぎが及んでくる。そうしたときに、かって著者の父の製薬会社に雇われたことがあり、その時は事業に成功していた中国人から天津に招かれるという僥倖に恵まれる。天津は中国上海と並んで都市文化の色彩を色濃く残した大都会である。
天津というイルミネーションの洪水が夜空いっぱいを駆けめぐる大都市にたどり着いてはじめて、かっての長春での豊かな生活を思い出し、10歳足らずの女の子にはあまりにも過酷なそれまでの逃避行での体験からも癒されてゆく。天津での豊かで美しい都市生活の様子が文学者のような筆致で描かれている。
「気がつくと、私たちはあるレストランの前に立っていた。私たち一家をこの天津に招いてくれた張佑安さんが経営する「克林餐庁」というロシア料理の店である。ガラス戸の向こうに、金ボタンのついた赤い服を着た、痩身の少年が二人立っている。服とお揃いの、金糸の縁取りのついた赤いアーミーハットを斜めにかぶったそのドアボーイたちはおもちゃの兵隊を思わせる。まるで機械仕掛けのように両開きのドアを中心に面対称に動いている。二人はドアを開けながら揃ってお辞儀をし、白い手袋で私たちの行き先を差し招いてくれた。白手袋の先には幅一メートル半ほどの真紅の絨毯が続く。天井にはガラスの雫を無数にぶら下げたような大きなシャンデリアが燦然と輝く。透明な雫は虹色に乱反射して、今にもしたたり落ちてきそうだ。」(s.290)
そうした生活のなかでやがて著者は感情の正常な発露を取り戻してゆく。その一方で新しく始まった天津での裕福な階層としての学校生活の中で、中国にとっては敵国人であった残留日本人として、著者は社会のもう一つの現実を思い知らされながら生きることになる。そこでの体験は次のように描写されている。
「華安街七号に日本人が住んでいるという噂はすぐに広まったらしい。そして顔も覚えられてしまったようだ。学校の行き帰りに、近所の子供に、「日本鬼子!(日本の鬼め!)」「日本狗!(日本の犬畜生!)」と罵られ、石を投げつけられるようになる。唾を吐き吐きかける者もいれば、手鼻の鼻汁を吹きかけるものもいる。学校いる間はもっと肩身が狭い。授業はすべて政治学習であるといっていいほど、思想教育が徹底しているからだ。いかに毛沢東が偉大であるか、いかに中国共産党がすばらしいか、日本帝国主義の侵略によっていかに中国人民が苦しんだか、しかし人民はいかにして勇敢に抗日戦争に立ち上がったか、その先頭に立った人民解放軍はいかに輝かしい軍隊であるか・・・。これらがくり返しくり返し語られる。日本帝国主義、日本の中国侵略、三光作戦、南京大虐殺、抗日戦――。」
「かって裕福な家庭の子女であったとは言え、彼らの身の上にも侵略戦争の爪痕が残されていないわけではない。もう十七歳になる、片足をなくした子、日本軍によって親を失った子、そんな生徒たちも中にはいる。そういう人たちの目の中には嘲りではなく、あからさまな憎しみがある。まるで、こうなったのもすべてお前のせいだ、と言わんばかりだ。日本人であることは、ここでは、それだけで罪人であることに等しい。十歳の女の子が、あの「侵略戦争」の全責任を負わされ、八十個あまりの瞳の責めを一身に担わなければならない。」(s.315)
「・・・その学期はただただ、戸惑いと屈辱と、日本人であることへの謂れなき罪悪感と劣等感の中で終わった。しかし、それらにびくつきながらも、学期の終わりには私はすでに中国語をほとんど理解するようになっていた。それでも試験の対象からは外された。夏休みに入ると私はこっそりと、そして猛然と発音練習に励んだ。中国人と寸分たがわぬ発音をしなければならない。発音の違いはすなわち日本人であることの証となり、それはすぐさま激しい非難といじめにつながる。学校という社会において私を守ってくれるものは何もない。」
(s.317)
このように戦争が、中国、朝鮮、アメリカ、日本などの国家間の政治的な、歴史的な軋轢が、まだ10歳になるかならぬかという少女の生活や心に深刻な影を刻み込んでゆく。
1953年(昭和28年)3月になってスターリンが死に、7月に朝鮮戦争が休戦になると、在留日本人の帰還が取り上げられ、また、ソ連からの産業技術の導入が始まると、中国は日本人技術者の留用から転じて引き揚げを勧告するようになった。そうした環境の変化の中で著者の父が帰国を決意させるようなった動機について次のように書いている。このとき1953年昭和28年著者は11歳である。
「私は日本に向かう船の甲板に立っていた。三反五反運動の中で、父と母が特に目をかけていた女性が父を突き上げる側にまわったことが、父に帰国を決心させたからだ。・・・常に他人を攻撃していなければその日が無事に送れないような、こんな体制の中では、人の道を全うすることができない。父は、そう見極めたらしい。中国人民への服務を、自らに課した終身の掟として公安局の帰国勧誘を断ってきた父だが、この一件があってから突然気持ちを変えた。」(s.357)