スポイチ編集長日誌

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セクハラヤジが呼び起こした学級崩壊義務教育の記憶

2014年06月27日 | 社会
今は勉強して進学校に行って大学を出たとしても、必ず経済的に報われるとは言いがたい時代だ。
いや、昔から大学以降の人生で失敗するような者は山ほどいたのだろう。
実際俺も安月給で給料上がらず、「アベノミクス?何それ?」状態で人生の決断を迫られている。

だけれども、俺が「一応は勉強しておいて良かった」あるいは「ちゃんと勉強した人たちが進むような学校に行って良かった」さらには「それなりに勉強した人でないと採用されないことが多い職種に就いて良かった」と心から思える点の一つは、相手が初対面であっても、公然の場でいきなり粗野で下品で失礼な言葉を、おちょくるようなからかい半分の調子で投げつけてきたり、いきなり横柄な態度と言動で上下関係を固定化させようと目論んでくる(いわゆるマウンティングを仕掛けてくる)ような人間が、自分の周囲から完全にいなくなったことである。


俺の義務教育までのクラスには、不登校が発生するほどの酷いいじめや校内暴力等は無かったものの、それなりに荒れており、女性教師や「おとなしい」タイプの男性教師の授業は、客観的に見て成立していなかった。
授業はもはやクラスの不良――というほど悪いやつらじゃなかったし、ツッパリと言うほど突っ張ってもいなかったし、DQNでは言葉が悪すぎるので、せいぜい「学校の勉強に意義を見出せなくなった、勉強することをあきらめた生徒」たちとでも書いておく――と教員との間の口喧嘩、ないしは雑談タイムと化していた。
これではどうしようもないので、受験に必要な勉強は自分で教科書を読むか、それでも足りない分は塾に通っていた。よって、正直言って学校の授業の内容がどんなだったかあまり記憶が無い。

それでも時おり、授業中にそういった生徒らが、教員や女の子やおとなしいタイプの生徒を野次るという形でからかったりして、言われた側が泣き出すということが何度かあった。ということを思い出した。

もちろん、例の都議会の「セクハラヤジ」騒動のおかげでだ。
今まですっかり忘れていたが。

あの都議と同じように、クラス皆の面前で、辱めるような侮辱の言葉を投げつけられた生徒も、多くの場合は曖昧にヘラヘラと笑っているだけだった。いや、笑うしかなかったのだろう。
野次られるような生徒は、自分に向けられた中傷の言葉と周囲の生徒らと、時には教師も含めた嘲笑の渦に、一瞬何が起きたのか理解できず硬直し、どうしていいのか分からずに、ただ周囲に合わせてヘラヘラと曖昧な笑みを浮かべ、すべてが終わった後になってから泣き出したりすることが多かった。もしかしたらその場では曖昧に笑っていても、後でその時の悔しさや屈辱を思い出して家で泣いたり夜眠れなくなったりしていたのかもしれない。
一方、野次った生徒は、教師から「諦められている」故にか大した注意もされず、それどころか、泣きだした生徒に対して「いつまで泣いているんだ」などと怒り出す教師もいるような有り様だった。

相手が泣きだしたり怒ったりすると、「最初は笑っていたじゃないか!」と逆ギレする。そして、いざ問題になりそうになると、まず発言自体を否定し、それが不可能となると本人や周辺の同調者たちが、「冗談なのに本気にした」「言われる側にも問題がある」「俺らに軽口を叩かれても仕方ない奴なのだ」と言い訳する。同じだ。いつも。

一応言っておくが、当時下品なヤジを飛ばしていた連中も、決して「悪いやつ」ではなかった。
当人にはまったく「悪気」は無く、「ほんの冗談のつもり」で「気の利いた」ヤジや軽口程度だと思って、周囲を巻き込んで笑わそうともしていた。そこがまた深い断絶でもあった。

そういえば、この間長崎の修学旅行で「案内役」を野次った生徒も、他の生徒に「拍手しろ」などと言ったそうだが、「周囲に同調を強制する」のも、ああいう階層の特徴である。


こういう「からかい半分の野次」は、たいていは容姿などの属性に対して行なわれる。
これは、中傷された当人だけの問題ではなく、同じ属性をもつ者すべてに対する攻撃行動である。


私が「うへえ」と思ったのは、今回の「ヤジ事件」が、自分とはとっくに縁が切れたと思っていた、地方のこういう義務教育時代のクラスの惨状を否が応でも思い出させてくれたからだ。

差別的な言辞や下品な言葉を「ヤジ」という形で相手にぶつけるという「文化」が、地方議会では脈々と息づいていたのだ。
学級崩壊状態だった田舎の義務教育の世界は、どっこい地方議会として現代にも生きていたのであった。
と言っても、地方議会が地方D(略)N社会の合わせ鏡になっていることは、議会制民主主義のルールから見れば、それはむしろ正常なことなのだろう。

今度の都議会の問題については、かつて授業中に野次を飛ばすような階層に近かった人たちにとっては、単なる軽口・ヤジなのに何怒ってんの?ぐらいにしか思わないだろうし、「言われた側にも問題がある」式の「喧嘩両成敗」的な議論とは実に親和性が高いのだろう。いやそもそもケンカにさえなってないし。
だから、今回の問題は、下手に発言すると、発言者の義務教育時代の立ち位置がバレる、すなわち「お里が知れて」しまうのだ。だから下手に関わらないほうがいい。もう手遅れだが。

上位のソーシャルクラスでは、陰口はあったとしても、公然の場で直接あのようなことを口に出して言うことは多くはない。
一方で、そういうボトムなレベル感の人々が、地方議会で議員をやっていた。そこに改めて驚いた人が多かったのだろう。
そりゃ人数としては彼らのほうが圧倒的に多いのだ。近頃の「マイルドヤンキー論」を見れば分かる通り、議会制民主主義と選挙制度が正しく機能している限り、議会は「彼らの価値観を代表するもの」が多数派を占め、政治と社会を動かしているのがむしろ正常なのだ。

また、ネットやマスコミで「言論」をなしているとついつい忘れがちだが、「普通の人」はそれほど本や新聞や活字を読まない。その情報源はもっぱらテレビの「報道系ワイドショー」である。

授業中に、教科書をつっかえつっかえしながらやっと読んでいた同級生はどうなった?おそらくはそのままだろう。

だからアメブロ等の「芸能人ブログ」はやたらと改行が多く、「漢字にするか、ひらがなにするか」という選択ではひらがなにしていることが多い。普段活字を読まない読者層に頭痛を起こさせないためと、こ難しい言葉を並べていると「上から目線だ」などと反発を受けてしまうからだ。

そういう人たちが議員を選び、「世論」と「世間」を構成している現実がある。これは「上から目線」とかそういう問題ではなく、単なる事実だ。

一方、SNSの発達によって、これほどまでに多くの「普通の人々」が、「文章を読む/書く」機会の多い時代はかつてなかったことである。
漢字が多めの3行以上の文章を苦もなく読み進めることができる時点で、十分に社会の上位なのだ。


今回の問題、もはやどう転んでも女性や社会的弱者、あるいは「結婚できない人」への理解が進むことや地位の向上には寄与しそうもない。

はじめ「被害者」だった議員が調子に乗って、政争化などで利己的な地位向上を目論むなどやりすぎるのであれば、また例によって抑止力が動き出し、これを惨滅せずにはおかないだろう。

それはもはやどう関わっても「汚れ仕事」になるということだ。せめて下品な野次を飛ばしたり、そういう言葉を前にしても、周囲に流されて同調してヘラヘラ笑うような行動はとりたくないものだ。



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