■普通に犯罪です
例の大津市の「いじめ自殺」事件に言及するのはなんだか気が進まないのだが、結論から書いておくと、あの事件についてはもはや「いじめ」などという曖昧なごまかし言葉でなく、
ただの「暴行」、ただの「恐喝」
として、粛々と法執行機関マターにしてしまえばいいんじゃないですかね。
海賊の武装化・凶悪化が進んで沿岸警備隊の戦力で対応しきれなくなれば、海軍が出る。それだけのことかと。
今回騒ぎが大きくなったのは、普通に法執行機関が介入するケースであると思われるのに、周囲の自治体組織すべてが隠蔽・加害者擁護のような動きを見せたことによるものでしょう。
以下は蛇足です。
■「いじめ」も「喧嘩両成敗」も組織維持のための官僚語
そもそも「いじめ」って言葉自体が、「転進」(撤退)とか「公的資金」(税金)みたいなのと一緒で、問題を矮小化して見せるための、役人(教員)による言い換え言葉の一つですよね。あと、「万引き」(窃盗)とか「いたずら」(強制わいせつ)なんかも同じ使われ方をしますね。
「喧嘩両成敗」ってよく言いますけど、こんなのはその起こりから組織維持のための方便だったことは明白で、先制攻撃で嫌がらせを受けた側が「我慢」さえしていれば、表面上は組織全体(この場合はクラス全体)の秩序は維持されるわけです。今回の事件の担任もそういう意味のことを言っていたみたいですしね。
すなわち、「いじめ」とは学級を経営する側にとって、「多少の問題はあるが、重大な問題は起きていない」と上に報告するための官僚的な言い換え用語にすぎない。この教員も「アイツが我慢しさえすればいいのに自殺なんかしやがって!」と本気で思っていることでしょう。
だから、ダメな教員(教師とか先生とは言わない)は、いじめ(一方的な挑発・攻撃行為)を見ても知らん顔をしますけど、いったんケンカになると飛んできますよね。だってケンカになると「交戦」の事態は周囲に明明白白で、放置すれば教員自身が「上」から怒られて管理能力が無いとされて人事査定が下がりますから。
ケンカなんて、どちらかが凶器を持ち出さない限りは止めなくていいっつの。止めなきゃいじめっ子って意外とヘタレで打たれ弱いことが多いよ。
■定期的に「消費」されてきた「いじめ自殺」
「いじめ」とか言いつつ、その内実は暴行恐喝強要窃盗器物損壊詐取名誉棄損のどれかに該当するんだから、とっとと法執行機関を介入させればいい。要はヘンに学校を聖域化するなってことです。どうせ学校の自治とか教育の自由とかエラそうに言ってるヤツラはろくなもんじゃない。
こういう動きになると、一部の「教育改革派」が大喜びで乗り出すだろうが、知ったことではない。この事件にはあまり関わりたくない。
あまりこの事件に触れたくないと思うのは、登場人物が真グソと愚か者ばかりというどうしようもなさの他に、もう一つ。今現にいじめられている人に、自殺すればみんなが気づいて同情してくれるという間違ったメッセージを送ることにもなりかねないからだ。でもね、自殺したって、普通はベタ記事にもならないし、今回だってどうせみんなすぐに忘れるよ。
これまでにも定期的に「いじめ自殺」事件というのがマスコミを騒がせ、それに対し知識人やらネット界隈で対策だ原因分析だ体験談だと得々と語られはするが、結局のところ時事の話題として「消費」されるだけされて、いつの間にか話題にもならなくなり、そしてまた数年後に同じような悲惨な事件をきっかけに…というパターンを繰り返している。
前回は2006年頃、あるいじめ自殺事件をきっかけに、文科省などへの「自殺予告」が相次いだ。当時は安倍内閣が教育基本法改正を目指していた頃で、教育委員会のダメっぷりなどを指摘する「予告」にうさんくさいものを感じたが、今回も消費税アップや原発再稼働などの大きな事件はみんなこの自殺事件によってすっ飛んでしまった。しかも事件自体は昨年起こったもので、今からどう言おうと被害者は生き返らない。
■鬱や自殺へと追い詰めるのは今のところ犯罪でない
「いじめ自殺」で加害者が逮捕されたりすることがあるのは、その過程において行なわれた暴行や恐喝が立件されたからにすぎません。精神的に追い詰めて「自殺という選択をさせたこと」に対する罪は刑法上は無いのです。
ブラック企業でも、「社員を自殺させた」上司や経営者が、「自殺させた罪」に問われることはない。
今回唯一よかったのは、普段偉そうにしている教員委員会だの校長だののおっさん連中が、ただのつまらない無能なおっさんで、教員もただの公務員で保身とか安定した地位とか退職金しか頭にないということが満天下に示されたことだ。不敬老社会万歳。
■あれビョーキだよビョーキ
まあ今回の事件の加害者は、その執拗かつ桁外れの嗜虐性から見て、裁判になれば何がしかの精神疾患をお持ちであるとして罪や賠償を逃れようとするのではと予想されます。多分ASとかアスペルガーとか共感性欠如とかそういう名前が取り沙汰されるでしょう。そうなればしめたもので、一度そう診断されたら将来就職時に大手からは回避されるでしょうから、何年間も不毛な裁判をやるよりも、将来をぶち壊しにする方法に誘導してさしあげた方が、より喜ぶ人が多いのではないかと。
それともう一つ。安易に「いじめ自殺」の被害者に肩入れするのが危険なのは、ついこないだまで「いじめる側」だったくせに、立場が逆転した途端に「あてつけ自殺」をする「元いじめっ子のいじめられっ子」が結構いるからだ。だから、単純に「自殺したいじめられっ子=正しい被害者」として肩入れすることはできない。今回のは違うと思うけど。
しかし、これだけ携帯電話とかデジカメとかICレコーダーとかが普及してるのに、何一つ証拠も残せないような愚か者とはあまり関わりたくない。何?考える力が無くなっているから仕方ない?余計に関わりたくない。
九条教徒なのかなんなのか分かりませんが、状況を覆せない、かと言って証拠も残せない時点で、それは力も知恵も無いってことだからね。
知恵ってのは「がっこのべんきょ」とは無関係ですよ。
■逃げる時はよく考えて
「自殺なんかしないでとにかく逃げろ」とか、「味方は必ずいる」と善意で説く人がいる。
正しい意見だとは思う。
ただし、本当のことも教えておくべきだ。
今の日本の社会では、学校というしくみから一度ドロップアウトしたらその後は大変だ。履歴書の空白期間を突っ込まれて、まず普通のルートで就職することをまず諦めることになる。
一度逃げグセがつくと、不登校→ニート→引きこもり→高齢引きこもりのコースは安定しており、結局行き着くところは同じでした…ってことにもなりかねない。
で、学校生活レベルで悲惨だったなら、企業(会社)ではもっと悲惨です。営業成績とか結果が出せない仕事が出来ないということを以て罵倒やハブ行為や給料カットといういじめが正当化されるから。
自分を自殺させるほどのいじめグループからついに離れられなかった被害者というものは、しばしば友達付き合いと被虐待の区別も出来ていなかったようなので、そういうブラック企業による虐待いじめも「期待の表れ」とか勘違いをして、社畜道に邁進しちゃうんじゃないでしょうか。で、破断界を超えたらうつ自殺と。
結局、そういう人には明るい未来は見えてこないんで、より多くの地獄に直面する前に、自分で自分にケリをつけるという決断をしたことをむやみに否定しきれないというのが正直なところなんですよ。
こういう、常に他力本願・他人の言に流される他者依存の人間は、その時は自殺を思いとどまったとしても、後になって境遇がより悲惨になれば、安易に「逃げろ」と言った人間や世間を逆恨みするようになる。そして数年~十数年の後、全く無関係の繁華街や、とうに当時のいじめっ子や担任なんか誰も居なくなった小学校に乗り込んで刃物を取り出すような愚かなまねをしたりする。
通り魔やスプリーキラーに元自殺企図者が結構多いことは日々のニュースで確認済みだろう。
■ビョーキだからいじめ行為に走る
常に「いじめられる側」が指導の対象になりがちなんだけど、問題があるのは「いじめのきっかけを作る奴」のほうだと思う。
「口を開けば他人の悪口・陰口しか言わない人間」ってどこにでもいますけど、コイツラって一種のビョーキ、はっきり言うとASの汚言症みたいなやつなんじゃないかと思ってます。
このタイプって、小学校中学校高校前の職場とどこでも回りにだいたい一人ずつくらい居ましたけど、みんながみんな同じような顔の造作してたもの。
アイツラって、ほんとに無抵抗とか反撃してこない人間を見つけ出すのがうまいんだよね。で、逆に言うと「敵に回しちゃいけない人間」を見抜くのもうまいってことだから、なかなか潰されない。それどころか、そこそこの地位に昇る奴も多い。あくまでもそこそこ、だけど。
これから必要なのは、こういうクササー(他人のくさししか能の無い精神疾患者)を見つけ出して、適切に処置するノウハウだろう。
めんどうくさいので単純に書くと、
「いじめをする奴はアスペルガーとか何かの精神疾患です」
これでいいと思う。
というのはさ、いじめの対策とか書いてもね、結局「いじめをする側」だけが悪用して知恵つけてどんどん悪質・陰湿になっていくだけで、意味が無いのよ。だから、「いじめをする奴=ビョーキ」という社会的コンセンサスを作る。これが一番効くと思う。
で、そいつの親が抗議に出て来て、「ウチの○○ちゃんをビョーキだなんてキィーッ!」とか始めたら、「遺伝ですなぁ」とオチをつけてあげれば完璧。
■社会や学校の流動性が低いのも原因
教室には人が多すぎてストレスフルな環境だし、田舎だと有力者の子は学校でも有力者ヅラをしているってケースは多い。
鶏とかウサギとかメダカだって、多数を狭い場所に押し込めておくと、すさまじい殺し合いを始めますよね。それと同じことです。
これは思考実験ですけど、もし仮に、満員の通勤電車が、座席や立ち位置も指定制で決められていて、しかも毎日同じ人と乗り合わせる仕組みになっていたとしたらどうなるか?おそらく、すさまじい規模で嫌がらせやいじめ行為が発生すると思いますよ。だって、一人でもいじめ抜いて追い落として出社拒否に追い込めば、その分隙間ができるからね。座っている奴を追い落とせば、自分が座れるかもしれないし。
通勤電車内において、他人は協力すべき仲間でなく、座席とスペースを奪い合うライバル・敵なのです。学校の教室もこれと近い状態になっていると考えられるし、実は社会そのものがイスの奪い合いという面があります。その本質を、譲り合いとか敬老とかいたわりとか「他人からよく見られたい」という虚飾で覆っているにすぎない。
椅子が欲しいか?ならば腕ずくで奪い取れ。それが世の真理。
■日本人の本質とは…「臆病」「強い者の味方」
「いじめ」に相当する行為は日本だけでなく、外国どころか動物にも見られますけど、ここ数日のネットやマスコミの狂騒を見てれば分かるように、結局みんな自分が安全な位置から一方的に狙撃できるなら戦争も大歓迎なんですよ。
包囲戦が好きだ。追撃戦が好きだ。殲滅戦が好きだ。掃討戦が好きだ。芋砂キャンパーは心が躍る。自分が傷つかないで済むありとあらゆる戦争が大好きだ、って具合で。
とくに日本人のいじめが大集団vsひとりになりがちなのも、この心理によるものでしょう。
この国では、たとえ加害者になろうとも、決して被害者になってはならない。
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例の大津市の「いじめ自殺」事件に言及するのはなんだか気が進まないのだが、結論から書いておくと、あの事件についてはもはや「いじめ」などという曖昧なごまかし言葉でなく、
ただの「暴行」、ただの「恐喝」
として、粛々と法執行機関マターにしてしまえばいいんじゃないですかね。
海賊の武装化・凶悪化が進んで沿岸警備隊の戦力で対応しきれなくなれば、海軍が出る。それだけのことかと。
今回騒ぎが大きくなったのは、普通に法執行機関が介入するケースであると思われるのに、周囲の自治体組織すべてが隠蔽・加害者擁護のような動きを見せたことによるものでしょう。
以下は蛇足です。
■「いじめ」も「喧嘩両成敗」も組織維持のための官僚語
そもそも「いじめ」って言葉自体が、「転進」(撤退)とか「公的資金」(税金)みたいなのと一緒で、問題を矮小化して見せるための、役人(教員)による言い換え言葉の一つですよね。あと、「万引き」(窃盗)とか「いたずら」(強制わいせつ)なんかも同じ使われ方をしますね。
「喧嘩両成敗」ってよく言いますけど、こんなのはその起こりから組織維持のための方便だったことは明白で、先制攻撃で嫌がらせを受けた側が「我慢」さえしていれば、表面上は組織全体(この場合はクラス全体)の秩序は維持されるわけです。今回の事件の担任もそういう意味のことを言っていたみたいですしね。
すなわち、「いじめ」とは学級を経営する側にとって、「多少の問題はあるが、重大な問題は起きていない」と上に報告するための官僚的な言い換え用語にすぎない。この教員も「アイツが我慢しさえすればいいのに自殺なんかしやがって!」と本気で思っていることでしょう。
だから、ダメな教員(教師とか先生とは言わない)は、いじめ(一方的な挑発・攻撃行為)を見ても知らん顔をしますけど、いったんケンカになると飛んできますよね。だってケンカになると「交戦」の事態は周囲に明明白白で、放置すれば教員自身が「上」から怒られて管理能力が無いとされて人事査定が下がりますから。
ケンカなんて、どちらかが凶器を持ち出さない限りは止めなくていいっつの。止めなきゃいじめっ子って意外とヘタレで打たれ弱いことが多いよ。
■定期的に「消費」されてきた「いじめ自殺」
「いじめ」とか言いつつ、その内実は暴行恐喝強要窃盗器物損壊詐取名誉棄損のどれかに該当するんだから、とっとと法執行機関を介入させればいい。要はヘンに学校を聖域化するなってことです。どうせ学校の自治とか教育の自由とかエラそうに言ってるヤツラはろくなもんじゃない。
こういう動きになると、一部の「教育改革派」が大喜びで乗り出すだろうが、知ったことではない。この事件にはあまり関わりたくない。
あまりこの事件に触れたくないと思うのは、登場人物が真グソと愚か者ばかりというどうしようもなさの他に、もう一つ。今現にいじめられている人に、自殺すればみんなが気づいて同情してくれるという間違ったメッセージを送ることにもなりかねないからだ。でもね、自殺したって、普通はベタ記事にもならないし、今回だってどうせみんなすぐに忘れるよ。
これまでにも定期的に「いじめ自殺」事件というのがマスコミを騒がせ、それに対し知識人やらネット界隈で対策だ原因分析だ体験談だと得々と語られはするが、結局のところ時事の話題として「消費」されるだけされて、いつの間にか話題にもならなくなり、そしてまた数年後に同じような悲惨な事件をきっかけに…というパターンを繰り返している。
前回は2006年頃、あるいじめ自殺事件をきっかけに、文科省などへの「自殺予告」が相次いだ。当時は安倍内閣が教育基本法改正を目指していた頃で、教育委員会のダメっぷりなどを指摘する「予告」にうさんくさいものを感じたが、今回も消費税アップや原発再稼働などの大きな事件はみんなこの自殺事件によってすっ飛んでしまった。しかも事件自体は昨年起こったもので、今からどう言おうと被害者は生き返らない。
■鬱や自殺へと追い詰めるのは今のところ犯罪でない
「いじめ自殺」で加害者が逮捕されたりすることがあるのは、その過程において行なわれた暴行や恐喝が立件されたからにすぎません。精神的に追い詰めて「自殺という選択をさせたこと」に対する罪は刑法上は無いのです。
ブラック企業でも、「社員を自殺させた」上司や経営者が、「自殺させた罪」に問われることはない。
今回唯一よかったのは、普段偉そうにしている教員委員会だの校長だののおっさん連中が、ただのつまらない無能なおっさんで、教員もただの公務員で保身とか安定した地位とか退職金しか頭にないということが満天下に示されたことだ。不敬老社会万歳。
■あれビョーキだよビョーキ
まあ今回の事件の加害者は、その執拗かつ桁外れの嗜虐性から見て、裁判になれば何がしかの精神疾患をお持ちであるとして罪や賠償を逃れようとするのではと予想されます。多分ASとかアスペルガーとか共感性欠如とかそういう名前が取り沙汰されるでしょう。そうなればしめたもので、一度そう診断されたら将来就職時に大手からは回避されるでしょうから、何年間も不毛な裁判をやるよりも、将来をぶち壊しにする方法に誘導してさしあげた方が、より喜ぶ人が多いのではないかと。
それともう一つ。安易に「いじめ自殺」の被害者に肩入れするのが危険なのは、ついこないだまで「いじめる側」だったくせに、立場が逆転した途端に「あてつけ自殺」をする「元いじめっ子のいじめられっ子」が結構いるからだ。だから、単純に「自殺したいじめられっ子=正しい被害者」として肩入れすることはできない。今回のは違うと思うけど。
しかし、これだけ携帯電話とかデジカメとかICレコーダーとかが普及してるのに、何一つ証拠も残せないような愚か者とはあまり関わりたくない。何?考える力が無くなっているから仕方ない?余計に関わりたくない。
九条教徒なのかなんなのか分かりませんが、状況を覆せない、かと言って証拠も残せない時点で、それは力も知恵も無いってことだからね。
知恵ってのは「がっこのべんきょ」とは無関係ですよ。
■逃げる時はよく考えて
「自殺なんかしないでとにかく逃げろ」とか、「味方は必ずいる」と善意で説く人がいる。
正しい意見だとは思う。
ただし、本当のことも教えておくべきだ。
今の日本の社会では、学校というしくみから一度ドロップアウトしたらその後は大変だ。履歴書の空白期間を突っ込まれて、まず普通のルートで就職することをまず諦めることになる。
一度逃げグセがつくと、不登校→ニート→引きこもり→高齢引きこもりのコースは安定しており、結局行き着くところは同じでした…ってことにもなりかねない。
で、学校生活レベルで悲惨だったなら、企業(会社)ではもっと悲惨です。営業成績とか結果が出せない仕事が出来ないということを以て罵倒やハブ行為や給料カットといういじめが正当化されるから。
自分を自殺させるほどのいじめグループからついに離れられなかった被害者というものは、しばしば友達付き合いと被虐待の区別も出来ていなかったようなので、そういうブラック企業による虐待いじめも「期待の表れ」とか勘違いをして、社畜道に邁進しちゃうんじゃないでしょうか。で、破断界を超えたらうつ自殺と。
結局、そういう人には明るい未来は見えてこないんで、より多くの地獄に直面する前に、自分で自分にケリをつけるという決断をしたことをむやみに否定しきれないというのが正直なところなんですよ。
こういう、常に他力本願・他人の言に流される他者依存の人間は、その時は自殺を思いとどまったとしても、後になって境遇がより悲惨になれば、安易に「逃げろ」と言った人間や世間を逆恨みするようになる。そして数年~十数年の後、全く無関係の繁華街や、とうに当時のいじめっ子や担任なんか誰も居なくなった小学校に乗り込んで刃物を取り出すような愚かなまねをしたりする。
通り魔やスプリーキラーに元自殺企図者が結構多いことは日々のニュースで確認済みだろう。
■ビョーキだからいじめ行為に走る
常に「いじめられる側」が指導の対象になりがちなんだけど、問題があるのは「いじめのきっかけを作る奴」のほうだと思う。
「口を開けば他人の悪口・陰口しか言わない人間」ってどこにでもいますけど、コイツラって一種のビョーキ、はっきり言うとASの汚言症みたいなやつなんじゃないかと思ってます。
このタイプって、小学校中学校高校前の職場とどこでも回りにだいたい一人ずつくらい居ましたけど、みんながみんな同じような顔の造作してたもの。
アイツラって、ほんとに無抵抗とか反撃してこない人間を見つけ出すのがうまいんだよね。で、逆に言うと「敵に回しちゃいけない人間」を見抜くのもうまいってことだから、なかなか潰されない。それどころか、そこそこの地位に昇る奴も多い。あくまでもそこそこ、だけど。
これから必要なのは、こういうクササー(他人のくさししか能の無い精神疾患者)を見つけ出して、適切に処置するノウハウだろう。
めんどうくさいので単純に書くと、
「いじめをする奴はアスペルガーとか何かの精神疾患です」
これでいいと思う。
というのはさ、いじめの対策とか書いてもね、結局「いじめをする側」だけが悪用して知恵つけてどんどん悪質・陰湿になっていくだけで、意味が無いのよ。だから、「いじめをする奴=ビョーキ」という社会的コンセンサスを作る。これが一番効くと思う。
で、そいつの親が抗議に出て来て、「ウチの○○ちゃんをビョーキだなんてキィーッ!」とか始めたら、「遺伝ですなぁ」とオチをつけてあげれば完璧。
■社会や学校の流動性が低いのも原因
教室には人が多すぎてストレスフルな環境だし、田舎だと有力者の子は学校でも有力者ヅラをしているってケースは多い。
鶏とかウサギとかメダカだって、多数を狭い場所に押し込めておくと、すさまじい殺し合いを始めますよね。それと同じことです。
これは思考実験ですけど、もし仮に、満員の通勤電車が、座席や立ち位置も指定制で決められていて、しかも毎日同じ人と乗り合わせる仕組みになっていたとしたらどうなるか?おそらく、すさまじい規模で嫌がらせやいじめ行為が発生すると思いますよ。だって、一人でもいじめ抜いて追い落として出社拒否に追い込めば、その分隙間ができるからね。座っている奴を追い落とせば、自分が座れるかもしれないし。
通勤電車内において、他人は協力すべき仲間でなく、座席とスペースを奪い合うライバル・敵なのです。学校の教室もこれと近い状態になっていると考えられるし、実は社会そのものがイスの奪い合いという面があります。その本質を、譲り合いとか敬老とかいたわりとか「他人からよく見られたい」という虚飾で覆っているにすぎない。
椅子が欲しいか?ならば腕ずくで奪い取れ。それが世の真理。
■日本人の本質とは…「臆病」「強い者の味方」
「いじめ」に相当する行為は日本だけでなく、外国どころか動物にも見られますけど、ここ数日のネットやマスコミの狂騒を見てれば分かるように、結局みんな自分が安全な位置から一方的に狙撃できるなら戦争も大歓迎なんですよ。
包囲戦が好きだ。追撃戦が好きだ。殲滅戦が好きだ。掃討戦が好きだ。芋砂キャンパーは心が躍る。自分が傷つかないで済むありとあらゆる戦争が大好きだ、って具合で。
とくに日本人のいじめが大集団vsひとりになりがちなのも、この心理によるものでしょう。
この国では、たとえ加害者になろうとも、決して被害者になってはならない。
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