スポイチ編集長日誌

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なぜ中学生は絶望し、老人は「まさか、夢にも…」と連発するのか

2012年07月29日 | 社会
中学生や、あるいは小学生までもが、学校でのいわゆる「いじめ」行為などを苦にして自殺した、というニュースに触れると、大人たちは口々に「まだ若いのに」「生きていればこれから先の人生いいことがあるのに」などと言う。

しかし、当の小中学生の視点に立てば、「学校生活」は、期間的にも人生の大部分を占める長さであり、一人の人間を絶望させるには十分な割合をもってのしかかっているということが分かる。


 誕生    幼稚園  小学校  中学校
0歳――――|――――――――――――15歳
          ↑人生の大部分が学校生活
                          →将来も同じような人生が続くように思い込む


今までの人生のうちの約7割が「学校生活」をしていた期間なのだから、「人生のほとんどすべてが学校中心」という感覚に陥ってしまうのはある意味当然だ。
仮に、そのほとんどの期間がいじめを受けていた期間と同じだったならば、人生のほとんどがいじめを受けていた期間となり、その先の人生も同じだと思い込んで絶望するのは無理からぬことなのではないか。

■時間が経つ感覚は年齢とともに加速していく
人間が年齢を重ねるにつれ、「一年が過ぎるのが早くなる」感覚に襲われるのは、自分の人生の中に占める「一年間」の割合がどんどん低下していくからだ。
義務教育の期間は、体感的に異常に長く感じられるものだ。小学校など、永遠に続くかと思ったぐらいだ。
しかしそれは、自分が生きてきた年数の中に占める小学校生活の期間が常に50%近くを占めることから来る錯覚だ。

もしも、苦しい学校生活を送っている子供がいたとして、そのただ中にいる時には、苦しい時間が永遠に続くように思われるだろうが、生き延びて卒業してしまえば、時間とともに人生の中に占める「学校生活」の期間は相対的に低下していく。
ましてや公立の義務教育レベルであれば、よほど仲が良くない限りは卒業後のつき合いなんか続かない。
これは時間の経過とともに、学校生活時代についての心の中の重みも低下していくことを意味する。
あまりにも昔の、ほんの数年の期間における出来事など、今が忙しくてどうでもよくなるのだ。
だから大人は、「たかがいじめぐらいで」と簡単に言う。


■自分の成功体験しか見ない者が「まさか、まさか」と連発する
一方、3.11と原発事故以降、未曾有の惨害を前にして、老人たちは口々に「まさか、まさか…」「夢にも思わなかった」「想定外」などと繰り返した。
市井の人間ならともかく、地位と責任のある者までもがこれらの言葉を繰り返す様は、まったく見苦しいものだった。
人生経験豊富なはずの老人たちの口から、なぜこのような言葉が漏れるのか。
これは、そういう言葉を発する者の多くが「自分の生きて来た間の自分の体験」からしか物を見ていないからだ。
個人が一生のうちに体験する経験など、人類史の蓄積の上から見れば、お話にもならないレベルの量でしかない。


         →時間の経過
――――――――――――――――人類の歴史
                       ・個人の人生における体験


人類が誕生してから200万年程度と言われており、人類の歴史は古代文明が誕生してから4000年ぐらいとされている。
一人の人間が自分の体験として過去を遡れるのはせいぜい50~60年程度だ。
そのたかだか5、60年程度の経験から得られた己の成功体験だけをもとにして、「この程度の想定で十分」だと、自ら想像力を縛ってしまう。
これをすなわち、愚者と言う。



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