この週末も関東は全域で雨になったが、各地のモニタリングポストは通常の降雨時を超える反応は示していない。
福島や茨城と比べれば都内や南関東の空間放射線量なんて鼻くそみたいなレベルだが、それでも放射性物質が現実に地表に存在し続けていることは間違いない。
いくら空中の放射線量が低くても、数度の降雨と風に吹かれて、「放射性物質の吹きだまり」になっているような場所は確実に存在する。こういう所への注意は確実に必要だろう。
強い雨が降る度に、放射性物質は地表から洗い流されて、時間はかかるだろうが放射線量は減っていくはずだ。もっとも、これは原発がこれ以上原子炉・核燃料由来の爆発・火災を起こさないことが条件であって、さらなる大気への放出が起こればこんな仮定は全部ご破算になる。現在、さらに爆発が起こるような要素は無くなったと思われるが、最悪なのは溶融した核燃料が漏れ出した原子炉の地下で「痔ろう」のように事実上の第二の原子炉をつくってしまい、ここで爆発が起こることだ。
いずれにしろ、これまでに流出した放射性物質の量を考えれば、今後の最大の脅威は海からやってくると思われる。
その前に、今後起こることを考えてみる。
かつて原発の安全性をアピールする際によく出ていたフレーズに、「放射性物質を閉じ込める5重の壁」というものがあったが、あっけなくすべて突破された。
そして、6番目の壁、すなわち「汚染された物質を外の地域に持ち込ませない」については、政府自治体はどうやら全く守る意図は無いようだ。むしろ「風評被害を許すな」「差別を許すな」というスローガンのもと、汚染地域からあらゆる物品を積極的に全国津々浦々に移送することを推奨しているかのようでさえある。
まるで壮大な人体実験をやっているかのようだ。
汚染地帯からの避難者にスクリーニングが推奨されるのは、内部被爆をしている人が他者に影響を及ぼす="ピカの毒が伝染る"?とかいうアホな理由からではなく、(他人に影響を及ぼすくらいに内部被爆していたら急性症状で他地域までたどり着けないだろう)、ほとんど着の身着のままで脱出してきた場合、身につけてきた物や持ち込んだ品物が危険なレベルで汚染されている場合がありうるからである。その場合に危険なのはむしろ当人である。
風評被害とは、ありもしないものをさもあるように扱って忌避することを指しているが、今の日本で政府や自治体が言う風評被害とは、「放射性物質で汚染された食品を食べないのは根性が足りない。風評被害だ!」という倒錯した事態になっている。
今後、原発20km圏内の住人の人たちの「一時帰宅」が行われる予定になっているが、持ち出した物をどう扱うのか、事前に重度に汚染されている場所には近づけさせない方策などは一体どうなっているのか。
東電の事故対応もそうだが、どうも「こうしたらこうなる、だから事前にこう準備して、その準備のために必要なものは…」ということを考えることができない、「段取りを考えられない人」の仕事の進め方を見せられているようだ。
もはや、将来何が起こるかなど、責任を持って言える人は存在せず、基本的にはすべて自己責任という状態になっている。数年後数十年後になってから、
「大学の先生が大丈夫だと言ってたのに…」
「政府の偉い人が大丈夫だと言ってたのに…」
などと言ったところで、言った当人はすでに今現在爺さんだから死んでるだろうし、政府も「因果関係は認められない」と突っぱねて救済せず、裁判なんぞ起こしたところで判決が出る頃には寿命が尽きているだろう。
さて、ここから本題。
最近、東電の新入社員と思われる人物が、「誰のおかげで電気が使えると思ってるのか?」というような意味のことをネットに書いて批判されるということがあった。
世の中の社会的な仕組みというものはどれもみな「誰かのおかげ」で成り立っているのであって、「誰のおかげで」なんてなことを言い始めたら、「誰のおかげでお前の給料が出てると思ってんだ」などとなって収拾がつかなくなる。だから、普通の、常識のある人ならばこういう物言いを他者に向かってすることはしない。
しかしながら、身内や親しい知り合いに「原子力村」の村民が居る人ならば、知っているはずだ。
「原発に反対するなら電気を使うな」
とか、
「文句があるなら電気を使うな」
という物言いをする者が、いわゆる”原子力村”には結構多いということを。
一般には、この種の物言いは、超安定インフラ独占企業エリートの傲慢さと受け止められているが、ちょっと別の面もあるのではないかと思う。
その前に、まずは一般人が原発に対して抱いていたイメージを考えてみるべきだ。
原子力施設や原発というものは、一般の国民にとっては、恩恵と危険性を併せ持つ存在として認識しつつも、実はあまり関わりたくないケガレのようなものだったんじゃないか、と思う。
いや、穢れとか言うよりも、”荒ぶる神”のほうがイメージには近いか。つまり普段の平穏で便利な生活を送っていくためには必要だけれど、その存在(負の面)を意識したくなくて、無意識にというより半ば意識的にその存在を無視してきたものではないのだろうか。
実際、原発についてある程度知っている者にとっては常識でもある”被爆労働”について、今回の事故が起こるまで「知らなかった」という人が多いのも意外だった。
言葉を変えると、原発の存在というものは、「軍隊」とか「警察の武装」に近いのではないかと思う。
自衛隊は今でこそ災害出動やPKO等でその活動に理解がされるようになってきたものの、かつては給料泥棒のような言われ方をされていた時代もあった。警察もまた、交通取締りや冤罪事件等だけを見た市民からは怨嗟の的にされることが多い。また、彼らの扱う「兵器」や「武器」に対しては無条件に忌避を示す人が多い。
しかし実際には、その理由のすべてが武器によるわけではないが、「軍」の存在や兵器の存在によって平和が保たれ、警察の存在やその装備する武器によってこの社会の平穏や治安が維持されている側面があるというのもまた否定できない事実である。
電力会社や原子力関係の社員もまた同じで、「原発に反対するなら電気使うな」とか「誰のおかげで電気(ry」みたいな発言も、彼ら「中の人」の傲慢さの表れと言うよりは、原発は現に消費される電力の少なからぬ部分を担っているにもかかわらず、自分たちの仕事がなかなか一般人から顧みられず、社会から評価もされないどころか、日々反対運動にさらされ、一旦軽微な事故が起これば猛烈な批判を浴びるという憤懣を自嘲気味に表現したものだったのではないか。
そういう愚痴を仲間内に語っているうちに、その辺りの機微を感じ取れない人たちが、何も考えずに同じ言葉を外界に向かって発してしまったが故に叩かれたのだろうと思う。
原子力村の問題は、この言葉さえ共有できない閉鎖性であり、仮に国有化などしたところで主役が電力会社役員から官僚に代わるだけで、また全く同じ事を繰り返すだけだろう。
ではなぜ原子力村が閉鎖的で独善的な体質に陥ったのか、安全を無視して楽観論に支配されるようになったのはなぜなのか、その答えは既に歴史上にいくつも転がっている。
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福島や茨城と比べれば都内や南関東の空間放射線量なんて鼻くそみたいなレベルだが、それでも放射性物質が現実に地表に存在し続けていることは間違いない。
いくら空中の放射線量が低くても、数度の降雨と風に吹かれて、「放射性物質の吹きだまり」になっているような場所は確実に存在する。こういう所への注意は確実に必要だろう。
強い雨が降る度に、放射性物質は地表から洗い流されて、時間はかかるだろうが放射線量は減っていくはずだ。もっとも、これは原発がこれ以上原子炉・核燃料由来の爆発・火災を起こさないことが条件であって、さらなる大気への放出が起こればこんな仮定は全部ご破算になる。現在、さらに爆発が起こるような要素は無くなったと思われるが、最悪なのは溶融した核燃料が漏れ出した原子炉の地下で「痔ろう」のように事実上の第二の原子炉をつくってしまい、ここで爆発が起こることだ。
いずれにしろ、これまでに流出した放射性物質の量を考えれば、今後の最大の脅威は海からやってくると思われる。
その前に、今後起こることを考えてみる。
かつて原発の安全性をアピールする際によく出ていたフレーズに、「放射性物質を閉じ込める5重の壁」というものがあったが、あっけなくすべて突破された。
そして、6番目の壁、すなわち「汚染された物質を外の地域に持ち込ませない」については、政府自治体はどうやら全く守る意図は無いようだ。むしろ「風評被害を許すな」「差別を許すな」というスローガンのもと、汚染地域からあらゆる物品を積極的に全国津々浦々に移送することを推奨しているかのようでさえある。
まるで壮大な人体実験をやっているかのようだ。
汚染地帯からの避難者にスクリーニングが推奨されるのは、内部被爆をしている人が他者に影響を及ぼす="ピカの毒が伝染る"?とかいうアホな理由からではなく、(他人に影響を及ぼすくらいに内部被爆していたら急性症状で他地域までたどり着けないだろう)、ほとんど着の身着のままで脱出してきた場合、身につけてきた物や持ち込んだ品物が危険なレベルで汚染されている場合がありうるからである。その場合に危険なのはむしろ当人である。
風評被害とは、ありもしないものをさもあるように扱って忌避することを指しているが、今の日本で政府や自治体が言う風評被害とは、「放射性物質で汚染された食品を食べないのは根性が足りない。風評被害だ!」という倒錯した事態になっている。
今後、原発20km圏内の住人の人たちの「一時帰宅」が行われる予定になっているが、持ち出した物をどう扱うのか、事前に重度に汚染されている場所には近づけさせない方策などは一体どうなっているのか。
東電の事故対応もそうだが、どうも「こうしたらこうなる、だから事前にこう準備して、その準備のために必要なものは…」ということを考えることができない、「段取りを考えられない人」の仕事の進め方を見せられているようだ。
もはや、将来何が起こるかなど、責任を持って言える人は存在せず、基本的にはすべて自己責任という状態になっている。数年後数十年後になってから、
「大学の先生が大丈夫だと言ってたのに…」
「政府の偉い人が大丈夫だと言ってたのに…」
などと言ったところで、言った当人はすでに今現在爺さんだから死んでるだろうし、政府も「因果関係は認められない」と突っぱねて救済せず、裁判なんぞ起こしたところで判決が出る頃には寿命が尽きているだろう。
さて、ここから本題。
最近、東電の新入社員と思われる人物が、「誰のおかげで電気が使えると思ってるのか?」というような意味のことをネットに書いて批判されるということがあった。
世の中の社会的な仕組みというものはどれもみな「誰かのおかげ」で成り立っているのであって、「誰のおかげで」なんてなことを言い始めたら、「誰のおかげでお前の給料が出てると思ってんだ」などとなって収拾がつかなくなる。だから、普通の、常識のある人ならばこういう物言いを他者に向かってすることはしない。
しかしながら、身内や親しい知り合いに「原子力村」の村民が居る人ならば、知っているはずだ。
「原発に反対するなら電気を使うな」
とか、
「文句があるなら電気を使うな」
という物言いをする者が、いわゆる”原子力村”には結構多いということを。
一般には、この種の物言いは、超安定インフラ独占企業エリートの傲慢さと受け止められているが、ちょっと別の面もあるのではないかと思う。
その前に、まずは一般人が原発に対して抱いていたイメージを考えてみるべきだ。
原子力施設や原発というものは、一般の国民にとっては、恩恵と危険性を併せ持つ存在として認識しつつも、実はあまり関わりたくないケガレのようなものだったんじゃないか、と思う。
いや、穢れとか言うよりも、”荒ぶる神”のほうがイメージには近いか。つまり普段の平穏で便利な生活を送っていくためには必要だけれど、その存在(負の面)を意識したくなくて、無意識にというより半ば意識的にその存在を無視してきたものではないのだろうか。
実際、原発についてある程度知っている者にとっては常識でもある”被爆労働”について、今回の事故が起こるまで「知らなかった」という人が多いのも意外だった。
言葉を変えると、原発の存在というものは、「軍隊」とか「警察の武装」に近いのではないかと思う。
自衛隊は今でこそ災害出動やPKO等でその活動に理解がされるようになってきたものの、かつては給料泥棒のような言われ方をされていた時代もあった。警察もまた、交通取締りや冤罪事件等だけを見た市民からは怨嗟の的にされることが多い。また、彼らの扱う「兵器」や「武器」に対しては無条件に忌避を示す人が多い。
しかし実際には、その理由のすべてが武器によるわけではないが、「軍」の存在や兵器の存在によって平和が保たれ、警察の存在やその装備する武器によってこの社会の平穏や治安が維持されている側面があるというのもまた否定できない事実である。
電力会社や原子力関係の社員もまた同じで、「原発に反対するなら電気使うな」とか「誰のおかげで電気(ry」みたいな発言も、彼ら「中の人」の傲慢さの表れと言うよりは、原発は現に消費される電力の少なからぬ部分を担っているにもかかわらず、自分たちの仕事がなかなか一般人から顧みられず、社会から評価もされないどころか、日々反対運動にさらされ、一旦軽微な事故が起これば猛烈な批判を浴びるという憤懣を自嘲気味に表現したものだったのではないか。
そういう愚痴を仲間内に語っているうちに、その辺りの機微を感じ取れない人たちが、何も考えずに同じ言葉を外界に向かって発してしまったが故に叩かれたのだろうと思う。
原子力村の問題は、この言葉さえ共有できない閉鎖性であり、仮に国有化などしたところで主役が電力会社役員から官僚に代わるだけで、また全く同じ事を繰り返すだけだろう。
ではなぜ原子力村が閉鎖的で独善的な体質に陥ったのか、安全を無視して楽観論に支配されるようになったのはなぜなのか、その答えは既に歴史上にいくつも転がっている。
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