交差点で信号待ちをしていると、白杖の若い男性が点字ブロックを探りながら横断歩道に向かっていた。
其の日は、小雪が混じる寒風が吹き荒んでいた。
其の男性は傘はさしていなかった。
白杖である為、傘が邪魔になるのだろうか。
其れは解らない。
しきりに信号機を見詰め、一段下の歩行者用のボタンを覗き込んでいた。
完全な盲目ではなく、強度の弱視なのか、明るい暗いは何となく解るが、景色の分別が付かないのかも知れない。
吹き荒ぶ小雪混じりの寒風は、障害者にも容赦無い。
何処へ向かおうとしていたのか。
信号が変わり、吾は其の男性が渡り切ったのを確認して左折した。
其の光景を後にして協力企業さんの所へ向かいながら、切ない気持ちの儘色々と考え込んだ。
「彼は独り暮らしなのだろうか」
「ご家族は居るのだろうか」
「身の回りの事は出来るのだろうか」
と、障害者の方からすれば余計なお世話な事を思い巡らせた。
吾は五体満足である。
此の齢になっても特に身体の悪い所は無い。
悪いのは性根、性格であろうか。
極薄給とはいえ、給金を貰い生活が出来ている。
行きたい所に行ける。
読書も出来る。
テレビも観れる。
ラジオも聴ける。
映画(動画、映画館)も観れる。
エロ動画も観れる。
千摺りに耽る事も出来る(三行半であるが.....)。
悪態も吐ける。
我が儘な位に喜怒哀楽が出せる。
よく考えたら、此れ程有り難く、贅沢な事は無い。
幸せの程度は他人とは比べる事は出来ぬ。
こう云う光景に出会す度に省みるのだが、時間が経つと忘れてしまう。
人の性格や思考が変わるのは稀である。
人生観が変わったとか云うが、これ一度形成され確立された思考や性格は、そう簡単には変わらない。
生死を彷徨う程の大きな衝撃が有れば変わるのかも知れない。
だが「三つ子の魂百まで」との真理から見た時、人の思考や性格が変わる事は絶対無い。
変わった様に見えるのは上辺だけである。
今年は巳年である。
今年の巳年は、此れ迄の努力が実を結ぶらしい。
吾の努力も実を結ぶのだろうか。
小難、大難にも遭わず、曲がりなりにも健康で五体満足に平穏に暮らせている事が既にお陰を受け報われているのではないか。
吾は一体何を求めているのだろうか。
今となっては、此れから家族を形成して団欒を囲む事は叶わない。
せめて欲を言えばもう少し給金が在れば、老後の蓄えが出来る。
此れは贅沢なのだろうか。
多少在った蓄えは祖母の介護費用に全て消えてしまい、葬儀と一周忌、三回忌の費用は借銭をしてしまった。
葬儀と法事を簡単なプランでやっても、借銭をせねば追い付かなかった。
己の器量のキャパシティに応じた出入りなのだと思う。
其れにしても、人間は何と欲深い生き物なのだろうか。
己を見てつくづく思う。