11/2、3、4は三連休となった。
此の三連休を利用して、11/2(土)にETCを取り付けた。
30分で取付けを終え、ETCカードを差し込んで認識。
センサーの向きを間違えていなければ、料金所もスムーズにパス出来る。
一般レーンよりも割安なのが良い。
暫し小休止。
付図、「明日、出雲大社へ参拝に行こうか」と何時もの如く俄かに思い立ち、決めた。
翌日の9:00に自宅を出発。
宿の手配はしていない。
出雲大社周辺の宿の空き状況をネットで見ると、此の三連休は何処も満室。
まぁ、なんとかなるだろう。
料金所に近付いて来た。
果たしてバーが上がってくれるのか、其れとも上がらず閉鎖されるのか.....。
前を走行する車に付いて減速する。
料金が表示されバーが上がる。
ドキドキしながらも無事に通過した。
山陰自動車道の斐川又は出雲ICで下りる。
出雲大社への直通のシャトルバスか、大鳥居から本殿迄の参道の途中に一畑電車の駅が在るので便利である。
遠方から来るのであれば、無理をせずバスか電車が良い。
途中、高速での大きな渋滞にも遭わず、何とか島根県入りして出雲に到着。
大鳥居の前にセブンイレブンが在り、他県のナンバーが駐車場を占拠していたが、一台分の空きスペースが在り飛び込んだ。
時刻は13:00を過ぎていて、現地に無事に到着して安心したのか、其れ迄感じなかった空腹感を覚えた。
時間は充分に在る。
急く事も無いので、セブンイレブンで昼食休憩。
快晴で少々汗ばむ程に暖かい。
30分程の休憩を終え、向かった。
流石に三連休ともなれば参道は参拝客で溢れ返っていた。
右側、左側通行は皆無で、人の間を縫う様にして本殿に向かった。
蒼空は未だ早いので、抜ける様な青空に社が神々しい。
出雲大社では、伊勢系統とは違い、礼拝の仕方が違う。
二礼(拝)四拍手 一礼(拝)
他にも正式な参拝方法が在るらしいが此れが結構煩雑.....?煩雑などと云えば不謹慎だが面倒。
以下、「実は知らない出雲大社の真実〜参拝方法のタブーからグルメまで徹底解説〜 – いずも庵ブログ」から引用させて頂きました。
ご利益の「砂」はどこでいただくのか?
縁結びのご利益同様、出雲大社にはもう一つ有名な慣わしがあります。
それは「お砂の交換」です。出雲大社では、古くから神社の砂を持ち帰る習慣があったそうで、今でも「お清めの砂」として多くの参拝者が持ち帰っています。
しかしその砂、ただ持ち帰るだけではダメです。
出雲大社の近くにある稲佐の浜の砂を持っていき、それと「交換する」というのが正しい作法になります。
手ぶらで砂だけを持ち帰る行為はNGなので、是非覚えておいて下さい。
そして、砂の交換ができる場所は、境内の最北に位置する「素鵞の社(そがのやしろ)」です。
その軒下に砂箱が用意されており、そこで持ってきた砂を交換することができます。
また、砂を交換するタイミングは「参拝後」が望ましいと言われているため、稲佐の浜から参拝を経て交換となると、あまりに大量だと持ち運びが大変です。
ビニール袋に大人の拳二つ分程度あれば問題ないそうなので、節度を守って採取しましょう。
と在る。
境内では、幾つもの社が祀って在り、漏れなく参拝しようにも、各社に行列が出来ており、其れに並んで待つ気にならず、社に向かって一礼だけして一周した。
ごった返す参拝客に揉まれて歩いていると、色々な声が聞こえて来る。
「正統派の参拝を知らない奴が多過ぎる....云々」
とか.....。
「古事記では出雲は......」
とか.....。
「鳥居に差し掛かっ時は、行きも帰りも一礼するのが.....」
とか.....。
「四拍手の時は、手を合わせた時に左手が前に出る様に重ねるのが.......」
とか.....。
こう云う名の知れた場所では、蘊蓄や作法を得意気に講釈を垂れる者が必ず居る。
当ブログにも以前に書いたが、余部鉄橋に行った時もリアス式の場所は気温が低くてどうたらこうたらと講釈を垂れる奴が居た。
ごちゃごちゃ大声で喋らずに、神聖な場所なんだから、厳かに参拝する方がいい。
こう云うイキリ野郎は何処に行っても、実生活に於いても知識をひけらかしている。
そんな上辺の事よりも、
「遠い地ではあったが、今日はご縁を頂けて、お参りさせて頂く事が出来て有り難かった」
と嬉しい気持ち、感謝の気持ちで参拝出来る事が大事である。
住職や神職等の方々は、神仏の代理としてのやくだから、正式な儀礼は行わなければならない。
吾々は、必要最低限の作法で神仏に向かえばいいのではないかと吾は思う。
読経や祝詞を読誦するのが上手い下手等を極度に気にする事はない、
神仏がいらっしゃるのなら、ただ、「有り難い」の気持ちにのみお応えになるのではないだろうか。
幼子(児)が母親の乳房に顔を埋めるが如く、素直な心で神仏の御胸に飛び込めたら、どれだけ幸せだろうか.....。
信仰とはそう云うものである。