おも〜か〜じ(面舵)‼︎

どうにもならぬ、先の出来事

昨晩、独り湯船に浸かりながら回想していた。

あの時の状態は、今の此の状態の原因だったのか。

色んな場面でそう思う事が多い。

「あの時、対処していれば.....」

だが、不思議な事に、何故か其の時は行動に移せないのである。

朝家を出る前、「今日は何だかいつもと違う」

「あの時、何か調子悪そうだったなぁ」

だが、時既に遅し。

何故、防げなかったんだろう。

あの時も、普通じゃなかったと気付いていたのに。

ちょっと息苦しそうだったのに.....。

後悔先に立たずではあるが、そう思う事がしょっちゅう在る。

先を予見出来れば、先に起こるであろう出来事を未然に防ぐ事が出来るのではないか。

だが、其れは不可能である。

未来は変えられると云うが、未だ起こってもいない未確定で、不確定な実態の無い未来を「変える、変えられる」と云う言葉は適切では無い。

こんな事を云ってしまえば身も蓋も無いのだが。

人の運命は妙である。

自然災害が起きた時、皆が一心不乱に逃げ惑う。

普段からハザードマップに従って安全とされる場所へ避難しようと向かって其処で被害に遭い、逆にパニックに陥って、其方へ逃げては危険だとされる方角へ向かって助かった例が在る。

人の生き死には、誰もコントロール出来ない。

世の中に正解は無い。

日頃から、正直に生きて、心優しく、他を利する高邁な精神で生きている人も此の世には居る。

災害は人間の善悪を見計らって悪行を重ねている人に対して、ピンポイントに起こす事は無い。

だが、世の中には、善行を積んで徳を積みさえすれば災難から逃れられる等と云い触らす奇特な輩がいる。

では、何の為に神仏を敬うのか。

皆が勘違いしているが、現世利益の為では無い。

穏やかな心を持てる様に、神仏の御前で心を開く。

毎日を悔いる事無く過ごせる自分自身になれる様に、神仏の御前で手を合わす。

一日の無事に対して感謝する。

只、其れに尽きる。

他を幸せにする為に、周りを幸せにする為にとの自己犠牲は尊い。

だが、そんな人はほんの一握りである。

余程の正義感と使命感である。

大体、其れが出来る人は、或る程度自分自身の人生(経済的、人間的)をしっかりと確立した人である。

自分自身の人生に迷走している者が、宗教の教義をちょっと齧った程度で、他を救えると勘違いしている者が多い。

創価学会の信者が吾の家に、入信しないかと折伏に来た事が在った。

5人だった。

内、2人は親子で、其の母親は足が悪いと云っていた。

玄関で、滔々と創価学会が素晴らしいとか、日蓮聖人はどうでこうで。

法華経は釈尊が説いた教えの中で最勝の教えである等々.....。

創価学会に入信すれば幸せになり救われるとか、お題目を数千、数万回唱えれば病気も治るとか.....。

其処で吾は云った。

「あんたの其の足が治ってないのは何故か。あんたの其の足が医者に罹らず、信仰だけで完治して、医者の診断の見立てが証明出来れば、吾はいつでも入信してやる」

と。

すると、彼等はそそくさと出て行った。

其れ依頼、あの連中が来る事は無かった。

そりゃそうだろう。

身体が悪ければ、薬を飲み、医者に診てもらえばいい。

話が脱線した。


じゃあ、正しく心を持たずに生きていてもいのかと反論が飛んで来そうだが、そんな事を云っているのではない。

善人でも病に罹るし、怪我もするし自然災害に遭って命を落とす。

胸騒ぎ、虫の知らせ。

だが、其の時に何が起こるのか予見出来ぬし、其の出来事を止める事は出来ぬ。

何時も吾々は、事後に後悔する。

吾は、あの時こうしておけば良かったと、後悔の毎日である。






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