以前は喫茶店だったが、今はもう店を閉めていて、工務店の事務所になっている。
当時、職場から歩いて300m程の所に喫茶店が在った。
吾は専ら昼飯は喫茶店でハンバーグ定食だった
職場の同僚等も数人此処の常連だった。
此のハンバーグ定食が美味かった。
其れと同時に、此の喫茶店に看板娘と云うか、マスターの奥さんである。
年齢は、当時の吾と変わらない。
若くして店を始めたと聞いていた。
此の奥さんが此れ又、別嬪だった。
愛想が在り、声も透き通っていて、容姿も申し分無い。
ハンバーグ定食を食いたさに通っていたと云うより、奥さんを見に行っていたと云う方が正しいかも知れない。
マスターも柔和な雰囲気で、お似合いの夫婦と云った所か。
そして、マスターの母親もいて、三人で回していた。
マスターの母親も丁寧で、店を出る時、手を合わせて「ありがとうございます。ありがとうございます。又お越し下さい」
少し過剰な感じではあったが、嫌味は無かった。
或る日の事。
近々、此の喫茶店が店を閉めるのだと噂で聞いた。
其れを聞いてショックだった。
もうあのハンバーグ定食が......いや、あの綺麗な奥さんの顔が見れぬのかと思うと残念だった。
人妻ではあるが.....。
「今月末まで店は開けます。勝手ながらすみません」
とマスター。
宣言通り、月開けには店はやっておらず、静まり返っていた。。
吾は当時、今後マスター夫婦はどうするんだろうと、余計なお世話を焼いていた。
其れから数年経った頃、閉め切っていた喫茶店に何処かのリフォーム会社の作業員が訪れて内装工事が始まった。
此のリフォーム工事が中々終わらなかった。
長い期間に渡り工事をやっていた。
暫くしてリフォームが終わった様で、作業員が来なくなった。
間も無くして工務店の看板が設置された。
或る日、工務店から一人の男性が出て来た。
よく見ると、マスターではないか。
最初、眼を疑ったが、矢張りマスターである。
忙しく車に乗り込み何処かへ向かった。
「え?マスターは飲食店を辞めて工務店を始めたのか? 此れ又、畑違いの業種なのに」
と独り言を云った。
と云う事は、あの美人の奥さんも一緒に始めたのだろうか?
事務でもやっているのだろうか。
又、顔を見れるかも知れないと、妄想を膨らませた。
だが、あの奥さんの姿を見る事は無かった。
時は経ち、吾も老いさらばえてさえ尚、薄給稼ぎにあくせくしている或る日の事だった。
工務店に疲れ果てた年配の女性が入って行くのが見えた。
髪は白髪、体型は腹が出て尻は垂れ、顔は化粧をした様子も無い。
「まさか、あの奥さんなのか?」
残念ながら奥さんだった。
当時の初々しく素敵な笑顔の面影は無かった。
其処に在るのは、人生の辛酸を通り抜けて疲れ果てた様な姿だった。
此処迄、人は容姿の見分けが付かぬ程に変わるのか.....。
苦労を全身に漂わせていた。
時の経過と共に、人も老いて容姿は変化する。
だが、未だそんな齢ではない筈だ。
複雑な思いの儘帰宅して、何気なく鏡を覗いてみた。
鏡の中の己の顔をじっと見詰めた。
吾も他人をどうこう云えぬ程の衰えが表情に表れている。
まあ、あの奥さん程ではないが、寄る年波は隠せない。
鏡を覗き込む度に、シミとシワが増えている事に気付く。
出来る事なら、何時迄も若くいたい。
若く体力が在れば、何でも出来る。
若さは特権である。
少々は無理をしても、眠れば次の日には回復している。
齢を重ねると、昨日の疲れを2、3日引きずる。
回復が遅くなった。
齢を重ねて今思う、若く体力が在ったあの頃、何故もっと色んな事に取り組まなかったのかと.....。
そうしていれば、色んな選択肢が開けていた筈である。
自分で勝手に限界線を設けて、蓋をして楽な道ばかりを選んで歩んで来た。
其れが此の末路である。
何の技術もスキルも身に付けず、己の不努力を棚に上げて、不満を垂れてばかりである。
後悔先に立たず。
人生が二度在ればと、井上陽水の歌に在る詩を口ずさんではみたものの、始まらない。
何が正しいのか、正しくないのか.....。
誰のせいでもない、其の都度現れたであろう分岐点で、何方に進もうかと選んだのは己自身である。
話を戻すが、あそこまで老けて変わり果てた奥さんは、己の人生にどの様な希望と夢を見出したのだろうか。
もう此処迄来たのなら、どれが正解かではなく、正解にして行くしか無い。