日本の諸問題はすべて哲学不が原因だというコンセプトのもとnoteで書き始めていますがこの問題に関してはいろいろと思うところがあるので広い共有を求めてミラーリング(複製)しておきます。
哲学とはひたすら論理的思考でものごとをつきつめる思考実験であり、ディベートといういわば「弁護士ごっこ」のフォーマットで被告側・原告側の両方を演じて結論を見出す努力をすること。 ふわちゃんのことは好きというわけでもないし、むしろ苦手なほうだけど、そんな私だから彼女について時には中立的に論じることは意義があるのではないかしらん。
根本的な問題として言葉の意味についての認識ということがある。と思う。 そもそものやす子さんのつぶやきからして、おじさんの私にはいまひとつよくわからない部分がある。 今、開催されている五輪にむけて勝った人も負けた人も素敵ですよといっているのか、私から見ればみなさん素敵ですよといっているのか。 「人間は生きているだけで価値があるのです」というニュアンスとはちがう?。 二番目の場合だと、中にはあんたが審査委員長かよとモヤモヤする人もいるかもしれない。具体的に「審査員かよ」と言葉に昇華できている状況はまだマシで、言語化できないまま「なんだかもやもやする」みたいな状態がいちばんキケンだ。
さて、私が気になったのはコトバの意味的な等価問題だ。 それは送信側と受信側とそれを見ている方々が同じプロトコルで通信できているか?つまり共通辞書を使っているかという問題だ。
そのむかし「ごきげんよう」という番組があった。小堺一機氏がMCをつとめ毎回三組のゲストが1日ずれで三日づつ出演する(ABC➡BCD➡CDEてな感じ)というトーク番組だ。この出演パターンについてはどうでもいいだろと思われるかもしれないが、おなじ人が三日づつ居つづけるということは、あるいは影響していたかもしれないので。たまに小堺氏がことわざや慣用句などを織り交ぜて感想などを言ったあとに、「そんなことないですよ!」と若いゲストがキレ気味なリアクションをしている場面をみかけた。 どうも若者は意味を勘違い(逆の意味にとった)しているわけなのだが、そういう場合、小堺氏は若者の無知については指摘せずにあわてて違う言い方で言いなおしてきりぬけていた。 このことはいくつかの問題を示唆している。まず単純に「齟齬による誤解」はけっこうあるという問題。もうひとつはシンプルに語彙が年々減ってしまっているのではないか問題。言葉が変遷するのは人の世の常だとしても、語彙がへってしまった場合には、少ない言葉で広い意味世界をカバーすることになる。たとえば「ヤバい」はいまや、肯定にも否定にも使われるが、どちらの使われ方も強調的に使われるのでいきちがいが起きたときの破壊力も大きい。 あと仮に先述の若者ゲストが言葉を知らなかったとしてもカメラが回っているところで大先輩にかみつくか?ともシンブルに思った。 逆に言葉の齟齬は常に起こるものだと意識すれば話が噛みあってないと感じた時に「あれ?なんか俺が勘違いしてる?」と立ち止まることができたはずなのに。こういう逆ファイティングポーズ常にとっておけば、万が一、本当にディスられてた場合でも一呼吸おけるので無用なトラブルを回避できる。
齟齬といえばマルハラ問題とかで思うのは、意味の変遷の結果生じる齟齬というのはお互いさまだという意識で各世代、または各属性が対応すればいいのではということ。ハラスメントという命名は一方を加害者と決めつけた表現でフェアじゃない。マルハラ問題はマルハラハラ問題でもあるということ。
さて、ことばの意味の変遷問題をもうひとつ。ことばのインフレという問題がある。 つまり同じベクトルではあるけど矢印の長さが違う。つまり意味はおなじだけど重みがかわってくるという状態。
今年の4/25「秘密のケンミンSHOW」ことばという視点でみると神回だった。東京の人間が大阪に行ったら正解がないんだよね関西弁使ったらちがう東京弁使ったら気取ってるじゃあ大阪俺行かね~よとMCの爆笑問題・田中氏が言い切ったのはありそうでなかったテレビの、あるいはお笑い界の画期的なことだった。
これはひょっとするとダウンタウン松本人志氏の「退場」と関係があるのではないかと薄々思っている。 ここにきて急に「子供のころ好きだった番組」という話題で「笑う犬の生活」や「ワンナイ」やとんねるずをあげる人が目立ってきた。(ブレイキンの選手のルーツがゴリエやオカザイルだったという話題もよく聞くようになった) ブラックマヨネーズの小杉氏がとんねるず好きというのは前々から表明していたけど、西川きよし氏がゲストの回にもかかわらずビデオを消した弟にブチ切れたエピソードまで交えていかに好きだったか熱弁したというのは特筆すべきことだ。当然のように「なんやキミよしもとちがうんか」とつっこまれていた。
「秘密のケンミンSHOW」では杉村太蔵氏が「東京に魂を売った」と言っている大阪人のVTRを見て「魂を売ったなんて余程の憎しみがなければ出ない言葉」と熱弁すると一同から笑いが起こった。 だがもともとはそういうことなので、正しいのは杉村氏のほうなのだが、インフレ(デフレかもしれないが)してしまった意味の軽さになれてしまった人たちにとっては真顔で熱弁する氏が変人のように映るのだろう。
前にも言ったけど日本においてはテレビはいまだ最強のインフルエンサーだ。番組の打ち上げのビンゴ大会でクルマが当たったり、スタジオですむような山瀬まみさんのカッパのCMをわざわざオーストラリアで撮ったりなどというバカげたことがなくなっただけで、テレビ局員や大手の広告マンは高給取りのままだ。 何が言いたいのかという多くの日本人はいまだにテレビっ子的価値観に支配されているということだ。
松本人志という名前が出たが、ダウンタウンと共に関西文化も押し寄せてきた。恵方巻もその代表のひとつだけど、なにより言葉は地味だが実は影響は大きかったのではないか。 たとえば「輩」。もともとは英語で言うところのguyくらいの意味だったはずだが、なぜか反社やチンピラみたいな意味が広まってしまった。 「おとこまえ」も元々ある言葉だけど、若者が日常使うような表現ではなかった。 そして「死ね」だ。
千原ジュニア氏はコンプライアンスがきつくなって「死ね」という言葉がダメになったらしいなどと嘆いていた。そのトークの中で言うには関西では日常的に挨拶のように使われるということだった。 個人的にはそれを聞いてすこしひっかかった。というのも以前、桐谷健太くんが、「食わず嫌い王決定戦(2016/2/4)」に出演した際に番宣の映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』にひっかけて石橋貴明氏が「若くして死ぬぞっ!」と茶化した。 すると「うわっ、めっちゃ怖い。なんでそんなん言うんですか...言霊ってあるんですから、やめてください」と真顔でビビった表情をしていた(ああここにもとんねるず!)。 同じ関西人でも若者世代には期待していいのかとおもったら、あいみょんの歌「貴方解剖純愛歌」。言霊というか字ズラでも見たくない言葉だ。思わず親指を隠してしまう。(両親もういないけどね)
コトバというのは国・地域以外でも、テレビ、ラジオ、あるいは芸人界などいろいろな「文化圏」で独特の進化をしているものではある。 たしかに「死ね」を未だに連呼する関西芸人はいる。そして関西弁優位のお笑い文化支配はまだ続いている。(やーれんずは特異な例外か?はたまた明るい未来のきざしか? )
さて今回の問題も「死」という言葉の強さにあったのではないだろうか。一方で関西文化、とくにお笑い文化の中では「死」はヘリウムなみの重量しかないようだけど、それに合わせて、とりあえず「死」を無毒化して再代入してみたら見え方もずいぶんと変わってくるのではないだろうか?
どちらかというとフワちゃんは苦手といったが、やす子さんも同じくらい苦手だ。理由はあまり笑えない毒を吐くから。 国本梨紗さんとあるイベントのサポーターの座をかけてのラップバトルというていの対決企画では、国本さんが、「やす子さんは忙しくてつかれすぎて最近はボケるのも忘れているようだけし、私はスケジュールもあいているので代わって」というよう内容でしかけたら、「私はいっぱい稼いでウハウハ、お笑いだけで困らないくらい稼いでるけどお前はフジテレビのこの番組でしか見たことない、スケジュールスカスカ、日本テレビでいっしょになったけど全然活躍してなかった」とほぼほぼ自慢と中傷だった。こういう場合はすごくうまくラップをするか、笑いをとるかのどちらかが正解なのだと思うがどちらでもなかった。こういうキャラなのに稼いでることを前面に出しちゃうんだと少しばかり引いた。 冗談めかして国本さんが「勝ち負けはいいから一発殴らせろ」といったのは半分は本心だったのかもしれない。
哲学とはひたすら論理的思考でものごとをつきつめる思考実験であり、ディベートといういわば「弁護士ごっこ」のフォーマットで被告側・原告側の両方を演じて結論を見出す努力をすること。 ふわちゃんのことは好きというわけでもないし、むしろ苦手なほうだけど、そんな私だから彼女について時には中立的に論じることは意義があるのではないかしらん。
根本的な問題として言葉の意味についての認識ということがある。と思う。 そもそものやす子さんのつぶやきからして、おじさんの私にはいまひとつよくわからない部分がある。 今、開催されている五輪にむけて勝った人も負けた人も素敵ですよといっているのか、私から見ればみなさん素敵ですよといっているのか。 「人間は生きているだけで価値があるのです」というニュアンスとはちがう?。 二番目の場合だと、中にはあんたが審査委員長かよとモヤモヤする人もいるかもしれない。具体的に「審査員かよ」と言葉に昇華できている状況はまだマシで、言語化できないまま「なんだかもやもやする」みたいな状態がいちばんキケンだ。
さて、私が気になったのはコトバの意味的な等価問題だ。 それは送信側と受信側とそれを見ている方々が同じプロトコルで通信できているか?つまり共通辞書を使っているかという問題だ。
そのむかし「ごきげんよう」という番組があった。小堺一機氏がMCをつとめ毎回三組のゲストが1日ずれで三日づつ出演する(ABC➡BCD➡CDEてな感じ)というトーク番組だ。この出演パターンについてはどうでもいいだろと思われるかもしれないが、おなじ人が三日づつ居つづけるということは、あるいは影響していたかもしれないので。たまに小堺氏がことわざや慣用句などを織り交ぜて感想などを言ったあとに、「そんなことないですよ!」と若いゲストがキレ気味なリアクションをしている場面をみかけた。 どうも若者は意味を勘違い(逆の意味にとった)しているわけなのだが、そういう場合、小堺氏は若者の無知については指摘せずにあわてて違う言い方で言いなおしてきりぬけていた。 このことはいくつかの問題を示唆している。まず単純に「齟齬による誤解」はけっこうあるという問題。もうひとつはシンプルに語彙が年々減ってしまっているのではないか問題。言葉が変遷するのは人の世の常だとしても、語彙がへってしまった場合には、少ない言葉で広い意味世界をカバーすることになる。たとえば「ヤバい」はいまや、肯定にも否定にも使われるが、どちらの使われ方も強調的に使われるのでいきちがいが起きたときの破壊力も大きい。 あと仮に先述の若者ゲストが言葉を知らなかったとしてもカメラが回っているところで大先輩にかみつくか?ともシンブルに思った。 逆に言葉の齟齬は常に起こるものだと意識すれば話が噛みあってないと感じた時に「あれ?なんか俺が勘違いしてる?」と立ち止まることができたはずなのに。こういう逆ファイティングポーズ常にとっておけば、万が一、本当にディスられてた場合でも一呼吸おけるので無用なトラブルを回避できる。
齟齬といえばマルハラ問題とかで思うのは、意味の変遷の結果生じる齟齬というのはお互いさまだという意識で各世代、または各属性が対応すればいいのではということ。ハラスメントという命名は一方を加害者と決めつけた表現でフェアじゃない。マルハラ問題はマルハラハラ問題でもあるということ。
さて、ことばの意味の変遷問題をもうひとつ。ことばのインフレという問題がある。 つまり同じベクトルではあるけど矢印の長さが違う。つまり意味はおなじだけど重みがかわってくるという状態。
今年の4/25「秘密のケンミンSHOW」ことばという視点でみると神回だった。東京の人間が大阪に行ったら正解がないんだよね関西弁使ったらちがう東京弁使ったら気取ってるじゃあ大阪俺行かね~よとMCの爆笑問題・田中氏が言い切ったのはありそうでなかったテレビの、あるいはお笑い界の画期的なことだった。
これはひょっとするとダウンタウン松本人志氏の「退場」と関係があるのではないかと薄々思っている。 ここにきて急に「子供のころ好きだった番組」という話題で「笑う犬の生活」や「ワンナイ」やとんねるずをあげる人が目立ってきた。(ブレイキンの選手のルーツがゴリエやオカザイルだったという話題もよく聞くようになった) ブラックマヨネーズの小杉氏がとんねるず好きというのは前々から表明していたけど、西川きよし氏がゲストの回にもかかわらずビデオを消した弟にブチ切れたエピソードまで交えていかに好きだったか熱弁したというのは特筆すべきことだ。当然のように「なんやキミよしもとちがうんか」とつっこまれていた。
「秘密のケンミンSHOW」では杉村太蔵氏が「東京に魂を売った」と言っている大阪人のVTRを見て「魂を売ったなんて余程の憎しみがなければ出ない言葉」と熱弁すると一同から笑いが起こった。 だがもともとはそういうことなので、正しいのは杉村氏のほうなのだが、インフレ(デフレかもしれないが)してしまった意味の軽さになれてしまった人たちにとっては真顔で熱弁する氏が変人のように映るのだろう。
前にも言ったけど日本においてはテレビはいまだ最強のインフルエンサーだ。番組の打ち上げのビンゴ大会でクルマが当たったり、スタジオですむような山瀬まみさんのカッパのCMをわざわざオーストラリアで撮ったりなどというバカげたことがなくなっただけで、テレビ局員や大手の広告マンは高給取りのままだ。 何が言いたいのかという多くの日本人はいまだにテレビっ子的価値観に支配されているということだ。
松本人志という名前が出たが、ダウンタウンと共に関西文化も押し寄せてきた。恵方巻もその代表のひとつだけど、なにより言葉は地味だが実は影響は大きかったのではないか。 たとえば「輩」。もともとは英語で言うところのguyくらいの意味だったはずだが、なぜか反社やチンピラみたいな意味が広まってしまった。 「おとこまえ」も元々ある言葉だけど、若者が日常使うような表現ではなかった。 そして「死ね」だ。
千原ジュニア氏はコンプライアンスがきつくなって「死ね」という言葉がダメになったらしいなどと嘆いていた。そのトークの中で言うには関西では日常的に挨拶のように使われるということだった。 個人的にはそれを聞いてすこしひっかかった。というのも以前、桐谷健太くんが、「食わず嫌い王決定戦(2016/2/4)」に出演した際に番宣の映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』にひっかけて石橋貴明氏が「若くして死ぬぞっ!」と茶化した。 すると「うわっ、めっちゃ怖い。なんでそんなん言うんですか...言霊ってあるんですから、やめてください」と真顔でビビった表情をしていた(ああここにもとんねるず!)。 同じ関西人でも若者世代には期待していいのかとおもったら、あいみょんの歌「貴方解剖純愛歌」。言霊というか字ズラでも見たくない言葉だ。思わず親指を隠してしまう。(両親もういないけどね)
コトバというのは国・地域以外でも、テレビ、ラジオ、あるいは芸人界などいろいろな「文化圏」で独特の進化をしているものではある。 たしかに「死ね」を未だに連呼する関西芸人はいる。そして関西弁優位のお笑い文化支配はまだ続いている。(やーれんずは特異な例外か?はたまた明るい未来のきざしか? )
さて今回の問題も「死」という言葉の強さにあったのではないだろうか。一方で関西文化、とくにお笑い文化の中では「死」はヘリウムなみの重量しかないようだけど、それに合わせて、とりあえず「死」を無毒化して再代入してみたら見え方もずいぶんと変わってくるのではないだろうか?
どちらかというとフワちゃんは苦手といったが、やす子さんも同じくらい苦手だ。理由はあまり笑えない毒を吐くから。 国本梨紗さんとあるイベントのサポーターの座をかけてのラップバトルというていの対決企画では、国本さんが、「やす子さんは忙しくてつかれすぎて最近はボケるのも忘れているようだけし、私はスケジュールもあいているので代わって」というよう内容でしかけたら、「私はいっぱい稼いでウハウハ、お笑いだけで困らないくらい稼いでるけどお前はフジテレビのこの番組でしか見たことない、スケジュールスカスカ、日本テレビでいっしょになったけど全然活躍してなかった」とほぼほぼ自慢と中傷だった。こういう場合はすごくうまくラップをするか、笑いをとるかのどちらかが正解なのだと思うがどちらでもなかった。こういうキャラなのに稼いでることを前面に出しちゃうんだと少しばかり引いた。 冗談めかして国本さんが「勝ち負けはいいから一発殴らせろ」といったのは半分は本心だったのかもしれない。
ともあれ「死」というのが、タブーだったという判断ならそれは正しいとは思う。ならどうかこれを機に芸人のネタからも消えてほしいものだ。
とりあえずフワちゃの件は西高東低な芸人文化のなかで語感ボキャブラリーがバグってたということかもしれない。それを世間がどう扱うかはわからないが、ことばをとりまく事情については全国民がアタマにいれておいたほうがいい。
いまなぜか人気の粗品氏の「ネタ」の中に「身長」を揶揄したやつがあるけどあれはシンプルにアウトだと思う。 私たちの世代は人の身体的なことを言ってはいけませんと教えられたものだが、今は違うということなのか。北野武のかつらKGBのDNAか?
どちらにせよ、人は人をうかつに裁かないほうがいい。結局、芸能人の行く末は広告代理店の価値観で決まってしまうのだからヘタに騒ぐとそれに加担することになる。
ネットニュースでは最近やたら「持論」や「私見」を披露する芸能人がいるのも気になる。
ネットニュースでは最近やたら「持論」や「私見」を披露する芸能人がいるのも気になる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます