以前フジテレビのスーパーニュースにオウム事件の被害者遺族を招いて、オウムの元幹部と中継をつないだことがあった。
元幹部はシャバには出たものの世間の風当たりは強く社会復帰もままならないというような内容のことを言っていた。
それに対して安藤優子が何をいうのかと思ったら遺族に向かって
「いまさら社会復帰しようなんて虫のいいハナシですよね」
というようなことを言って遺族を煽ったのだ。
別に遺族が自発的にそういう内容の発言をするのならまだしもキャスターがそうした発言をするのはいかがなものだろうか?
彼らは、日本の制度上は一応はリセットされているのだから本当は社会復帰しなければならない存在なのだ。それを新たな圧力をかけて出鼻をくじこうとするのは私刑と同じことだ。
最近のマスコミの報道は社会的に「悪」と決定した被告、又は容疑者(←容疑者はまだ容疑者なはずなのに)に対して公開私刑をしているかのように罵声を浴びせているものが多い気がする。
殺人犯の過去の経歴をつついてやれフーゾクでバイトしてたとかなんとか、その人物が悪く見えるようなネタを拾ってきては叩きまくる。しまいにはこいつは悪人になるべくしてなったんだとツバを吐きかける。
あまりに救いのない展開だ。
冒頭の例、多分、視聴者のほとんどは遺族への同情とオウムへの怒りと安藤優子という権威とで画面の中で起こっていることを受け入れてしまったんだろうが…。
でも日本においては人間は法律によって裁かれるべきであって、マスコミによって裁かれるべきものではないはず。
最近の「母子殺し」の裁判も実は検察側の理屈にもほころびが発覚したらしいが大手マスコミはそこらへんについては掘り下げたりしない。(今月号の「サイゾー」は突っ込んでた)
「別に凶悪犯罪者であることにかわりはないんだから大した問題ぢゃないだろ」なんて意見もあるかもしれない。
でも「死刑」という制度も人一人の命を奪うという行為だ。国家が法の下に。しかも一度は死刑でなかったものを死刑にしようとする裁判なのだから慎重を期さなければならないのは当然ではないだろうか?
極悪人であっても手違いや気まぐれや言葉のアヤで死刑になったりならなかったりしてはならないはず。
感情論で煽るマスコミに支配されたこんな状況の中で日本は今、裁判員制度を受け入れようとしている。
凶悪事件(報道)の多い昨今、街頭インタビューをすると死刑廃止論者よりも死刑存続論者のほうが圧倒的に多いんだろうが死刑廃止論についての論議の中身について知る人は少なかったりする。
そこらへんを突っ込むと大抵の人は存続賛成の理由を「抑止力」と言うが、そこで「世界を見るとあまり抑止力にはなってないらしいぜ」とさらに突っ込まれると最後は「でも人、殺してるんだからしょうがないっしょ」となってしまう。
国家が合法的に人の命を奪うという行為がよしとされるのなら、圧政だの民族浄化という虐殺行為に苦しむ人を助ける人道的軍事介入という正義の名のもとに行われる戦闘には日本も積極的に参加すべきだろうか?
よく「更生の余地がないので」というけれど、もしすっかり更生したら遺族の感情は収まってくれるだろうか?
逆に被告が死んだら遺族の感情は収まってくれるだろうか?
死刑廃止論の弁護士が時間稼ぎをしていると揶揄されているようだけど、法律は変わらないままでも判例というか前例を積み重ねていって実質的に死刑が減ってくるという状況も世界ではあることなので、それらが法律の範囲内で行われるのであれば正当性はあると思う。
脱法的なテクを駆使して暴力団の顧問をやっている悪徳弁護士とはワケが違うので懲戒請求までしちゃうのはどうかと思う。
まぁ、薄っぺらなタレント弁護士の売名だろう。
少なくとも近い将来に新たな死者が出るであろう切迫した状況の薬害問題でいちいち控訴して時間稼ぎをしている国よりはマシだ。
死刑ありきでいくんだったら尚更のことその運用基準は厳格にきめられるべきだし、死刑のもつ意義や意味について国民一人一人が再確認しておくべき時だ。
マスコミは来るべき裁判員制度にむけて重い事件をワイドショーのように扱って感情を煽るのではなく、思考停止してしまった視聴者・読者にいまいちど考える機会を与えるような努力をするべきだ。
元幹部はシャバには出たものの世間の風当たりは強く社会復帰もままならないというような内容のことを言っていた。
それに対して安藤優子が何をいうのかと思ったら遺族に向かって
「いまさら社会復帰しようなんて虫のいいハナシですよね」
というようなことを言って遺族を煽ったのだ。
別に遺族が自発的にそういう内容の発言をするのならまだしもキャスターがそうした発言をするのはいかがなものだろうか?
彼らは、日本の制度上は一応はリセットされているのだから本当は社会復帰しなければならない存在なのだ。それを新たな圧力をかけて出鼻をくじこうとするのは私刑と同じことだ。
最近のマスコミの報道は社会的に「悪」と決定した被告、又は容疑者(←容疑者はまだ容疑者なはずなのに)に対して公開私刑をしているかのように罵声を浴びせているものが多い気がする。
殺人犯の過去の経歴をつついてやれフーゾクでバイトしてたとかなんとか、その人物が悪く見えるようなネタを拾ってきては叩きまくる。しまいにはこいつは悪人になるべくしてなったんだとツバを吐きかける。
あまりに救いのない展開だ。
冒頭の例、多分、視聴者のほとんどは遺族への同情とオウムへの怒りと安藤優子という権威とで画面の中で起こっていることを受け入れてしまったんだろうが…。
でも日本においては人間は法律によって裁かれるべきであって、マスコミによって裁かれるべきものではないはず。
最近の「母子殺し」の裁判も実は検察側の理屈にもほころびが発覚したらしいが大手マスコミはそこらへんについては掘り下げたりしない。(今月号の「サイゾー」は突っ込んでた)
「別に凶悪犯罪者であることにかわりはないんだから大した問題ぢゃないだろ」なんて意見もあるかもしれない。
でも「死刑」という制度も人一人の命を奪うという行為だ。国家が法の下に。しかも一度は死刑でなかったものを死刑にしようとする裁判なのだから慎重を期さなければならないのは当然ではないだろうか?
極悪人であっても手違いや気まぐれや言葉のアヤで死刑になったりならなかったりしてはならないはず。
感情論で煽るマスコミに支配されたこんな状況の中で日本は今、裁判員制度を受け入れようとしている。
凶悪事件(報道)の多い昨今、街頭インタビューをすると死刑廃止論者よりも死刑存続論者のほうが圧倒的に多いんだろうが死刑廃止論についての論議の中身について知る人は少なかったりする。
そこらへんを突っ込むと大抵の人は存続賛成の理由を「抑止力」と言うが、そこで「世界を見るとあまり抑止力にはなってないらしいぜ」とさらに突っ込まれると最後は「でも人、殺してるんだからしょうがないっしょ」となってしまう。
国家が合法的に人の命を奪うという行為がよしとされるのなら、圧政だの民族浄化という虐殺行為に苦しむ人を助ける人道的軍事介入という正義の名のもとに行われる戦闘には日本も積極的に参加すべきだろうか?
よく「更生の余地がないので」というけれど、もしすっかり更生したら遺族の感情は収まってくれるだろうか?
逆に被告が死んだら遺族の感情は収まってくれるだろうか?
死刑廃止論の弁護士が時間稼ぎをしていると揶揄されているようだけど、法律は変わらないままでも判例というか前例を積み重ねていって実質的に死刑が減ってくるという状況も世界ではあることなので、それらが法律の範囲内で行われるのであれば正当性はあると思う。
脱法的なテクを駆使して暴力団の顧問をやっている悪徳弁護士とはワケが違うので懲戒請求までしちゃうのはどうかと思う。
まぁ、薄っぺらなタレント弁護士の売名だろう。
少なくとも近い将来に新たな死者が出るであろう切迫した状況の薬害問題でいちいち控訴して時間稼ぎをしている国よりはマシだ。
死刑ありきでいくんだったら尚更のことその運用基準は厳格にきめられるべきだし、死刑のもつ意義や意味について国民一人一人が再確認しておくべき時だ。
マスコミは来るべき裁判員制度にむけて重い事件をワイドショーのように扱って感情を煽るのではなく、思考停止してしまった視聴者・読者にいまいちど考える機会を与えるような努力をするべきだ。
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