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ある晴れた日の・・・

《あの人は今?》の同窓会と過酷な現実

こんにちは👭🦉👫


当地暮らしも10年近く。関西を除いて最長かも?
あと数年は我慢して住むか!と思っていたけど、最近、またまた不穏な空気でそれも怪しくなってきた。引っ越しが早まる予感!?


さて、直近の中学同窓会(他はやってない)で、ザワザワしてから1.5~2年以上経つのかな?
2020年開催だったらさぞ大変なことになっていたと想像する。

それはともかく、開催するまでの準備期間、ああでもないこうでもない、すったもんだが長かったようだ。

何年間もずーっと、卒業年度の各クラス幹事が2名ずつお世話を継続してくれて、定期的に全クラス合同開催で続いていた。

が、ある年度を境に全幹事(各クラス2名)が手を引くことになった。
その時も行かなかったのでわからないが、最終開催場所や徴収会費とのコスパにクレームが山ほどでたらしい。

なので?というか逆に?会場費も安く上がり、繰越金が沢山でて、いずれ消化すること必須/至上ミッションでプールされていた。

名簿も前幹事達が辞めてから引き継がれず、更新されないまま宙に浮いていたらしい。

それが、私(達)が2年生の時の有志グループが引き継ぐ話が出て、当時の元担任K子先生の後押しと後ろ楯を得て、開催する運びとなったらしい。

余談だが、卒業年度以外に、中1クラスの結束が固く、当時の担任を囲んで、今でも毎年クラス会をしている話はある。

しかし、そこが全体へ波及させようという盛り上りには至らなかった。結束が固いだけに?

しかも、有志のN田女史は、経緯は省くが、前幹事(女性)から名簿を引き継げないという悲惨な事態に陥った(-_-;)
"いけず"も大概にしてほしいものだ!?
ま、各配布されていたものを元に更新したようだ。
開催予定の動きから、やけに案内状配布に至るまで時間がかかったな!?と疑問はいだいていた。


で、ここからが【本題!】

開催にあたって、元担任K子先生が、ずっと気になっていた卒業生N君をできれば探してほしい、会いたいと依頼したらしい。当然、彼は当時2年のクラスメートでもあった。

そこで、付き合いが成人になっても続いていた中心幹事T君が乗り出して探すも、結局、音信は途絶えたまま生存確認すらできなかった。

同窓会は阪神淡路大震災直後でも、ほぼ全員の消息を掴んで開催していたから、N君は恐らくもっと前から消息が掴めていなかったとのだろう。

そこでCo-幹事でもあるN田女史に、私は(先生が探してと言うのは)「今さら遅いんでない?」と一言いっていた。

なんて冷たい!かもね?

そりゃ私も心当たり何人かに時間も費用も持ち出しで!聞いてみたわ!

さらに、中心幹事T君がN田女史経由で私に連絡をとりたいと言ってきたから、オーケーしたし、やがて、T君から仰々しいメールがきて、直接、電話で話したいというので、オーケーしたら電話もあった?

余談ながら、T君はその時、結婚(初婚)後間もなくてラブラブ💓💏💓な感じだった。
結婚はそのように?遅めだったようだが、福祉関係の仕事をしていて地位もかため、忙しそうに飛び回っている印象だった。

実はT君とは高校も一緒だったようで、話しているうちに思い出した(^_^;)3年間は記憶になく、ほぼコンタクトなし状態だったのだ。
ただ、彼のお姉さんが中学時代、私と同じ運動部でポジションを引き継いだしことなどは覚えていた。※彼は文化部😀🎷

話を先に進めよう

先生が探してほしいと言っていたN君は、T君に依ると、成人後も、家が近いということもあり、相当長く付き合いがあったようだった。

T君が話す内容と私が知っていたことは、一時期は重なるのだが、時系列で並べると私の情報はかなり古く止まったままだった。

結果的に、総合するとN君は生きてどこかで頑張っているのかさえわからないことになってしまった。

で、別方面から、前幹事のO君がポロリと「これ以上、探さない(追わない)方がエエんちゃう?」とT君らに言ったとか。

前幹事O君は実はN君とは中学時代に部活も一緒、最終学年も同じクラスだったし、そのクラスの学年&クラス幹事がO君だったのだ。

O君は小学校(リレーで揉めた)でも中学校(部活)でも何かと苛めを受けたので、良い印象はなかったが、家業を継承し地元密着型おっさんになっていた。
お世話マメな人に変身して、生き方も方向性も、いつの間にかN君とは真逆みたいな関係性になっていたようだ。

実はT君の語るところによると、ある日の帰路、車中、同乗するN君と気まずい空気が流れる中、T君がN君に放ったある一言が引導を渡す結果になってしまったのだ。今となっては後の祭り?

N君にとっては、まさか!の一言で、相当堪えたのか、以来、プッツリと連絡してこなくなり疎遠になっていったらしいのだ。
※経緯と状況からして、言われても致し方ない一言ではあったかもしれない。

T君の方も、二人の関係性や継続性からして、まさか!?それが彼との最後の会話になってしまうとは思わなかったのだろう。

とは言え、まともに受け止めると、放たれた一言は、その場面ではグサリと来るものだったには違いない?

彼のために擁護するが、100%T君は悪くないのだ。むしろ、それまで、よく頑張った!忍耐したと感心したくらいだ。

推測の域をでないが、当時の彼N君は恐らく荒れていたのだろう。親友で後見に近いほど拠り所にしていたT君に厄介をかけるほど。
そして、大切にしていたその親友ですら匙を投げたほどに?

いや!T君は自覚を促したかった程度で、とどめを刺すつもりはなかったのではないか?
むしろ「しっかりしろや!なにやってんねん」の思いが込められていたのではないか?

しかし、その日を境に、再会の機械は絶たれる。
お互い歩みよりやフォローもないまま、何年何十年もの月日が流れて行くことになる。

当時のN君は、知る限りでは色々あった。
所謂、四面楚歌な境遇。

T君に言わせると
「彼、自称《画家》やったから、、、」

だそうで、その事から派生した幸不幸が少なからずあった。彼はまた若い頃からギャンブラーでもあった。

画家?自称?と聞いて、
まず内心(あ!そうなの?そうだったんだ?)となった。


急に端折るようだが、
できれば異国の空の下かどこかで、才能を磨きながら、ひたむきに生きてくれていたらいいな、と思った次第。

ま、発想が暢気で、昭和レトロなんですが、、、?

父親が去り次に母親が家を出て、やがて兄弟だけが暮らす家に女子大生(後に妻)がやってきた。
初々しいお嬢さん育ちの女子大生。出会いは"絵画展"だったと聞く。

彼の実家で、彼と後に妻と子、それに弟とのままごとのような"3人+赤子"との生活。
経済的かつ精神的なことなど知るよしもないが、おそらくその経緯と顛末を知っている(た)のは、ほんの少人数。

ひとときの幸せそうな灯火もやがて"生活"という現実のもとで力尽きて矢折れていくしかなかったのか、、、と。

厳しい現実と先方親との期待値格差?
やがて女子大生の親の介入と引き剥がしへと事態が動くまで、さほど時間はかからなかった。

あの親子が引き離されバラバラになり、今はどこでどうしているのか、大きな社会の渦のなかに呑み込まれていったのか?

"捜すに時があり 失うに時があり
"愛するに時があり 憎むに時があり"

彼N君と担任K子先生が再会できる可能性は低く、彼を励まし支えられたかもしれない好機は去っていたというか、、、遅すぎるよなぁ、、、全ては遠い遠い過去?
※N子先生、預かり知らぬ事態と経緯

皆、そうなんだよ!、、、厳しい時代背景は素より、阪神大震災などの大災害からの復活はじめ、経済的にも精神的にも乗り越えるには高い高いハードルを目の前にして、いっぱいいっぱいでやってきたんだ!?


《参考》
より、一部抜粋

"捜すに時があり"

"泣くに時があり"
"笑うに時があり"

"愛するに時があり"
"憎むに時があり"

"生るるにときがあり、死ぬるに時があり
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり"、、、

《まとめ》
最期の瞬間(とき)に立ち会わなければ、その人は心のなかで、ずっと昔のまま、元気な姿で生きている、、、筈。

明かされることなく、曖昧なままでも良いのでは!?

人生に道標なし、正答なしとは言わないが、志高く常に真っ直ぐ生きよ!

だな!?

2021年2月最終日に想ふ

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