世界の人権・紛争・平和

ウクライナ:占領された南部で拷問と失踪

ウクライナ : 占領された南部で拷問と失踪

ヘルソン州とザポリージャ州でロシア軍が明らかな戦争犯罪

(キーウ) - ロシア軍は、ヘルソン州とザポリージャ州の占領地域で民間人を拷問し、不法拘留し、強制失踪させている、とヒューマン・ライツ・ウォッチ(以下HRW)は本日述べた。ロシア軍はまた、占領地域で捕らえた捕虜を拷問している。

「ロシア軍はウクライナ南部の占領地域を、恐怖と野蛮な無法状態が支配する奈落の底に変えました。私たちが取りまとめた明らかな戦争犯罪には、拷問、非人道的待遇、恣意的拘留、民間人の不法監禁などがあり、ロシア当局はこうした人権侵害を直ちに止めると共に、責任を問われる可能性がある、またそうなるであろうことを理解する必要があります。」、とHRWウクライナ上級調査員ユリア・ゴルブノワは指摘した。 

HRWは、ヘルソン州のヘルソンとスカドフスク、ザポリージャ州のメリトポリとベルディャンスク他両州の10の市と町で71人に聞き取り調査を行った。ロシア占領軍が民間人を強制失踪させた或いは恣意的に拘留し、場合によっては隔離拘禁し、その多くを拷問した42の事例について、彼らは説明した。HRWはまた、捕虜だった領土防衛隊隊員3人が受けた拷問についても取りまとめた。3人の内2人は死亡している。 

人権侵害の目的は、ロシアが国際法に違反して占領地に対する主権を主張しようとしている最中、情報を入手し、人々が占領を受け入れるように恐怖を植え付けることにあるようだ、とHRWは指摘した。

聞き取り調査に応じた人びとは、長時間の暴行や時に電気ショックでの拷問を受けた、或いは目撃したと語り、肋骨他の骨の骨折、歯牙破折、重度の火傷、脳震盪、目の血管の損傷、切創や打撲傷など、負った怪我についても説明した。 

以前拘留された経験があり匿名を求めた抗議活動の主催者は、拘留中ロシア軍に野球のバットで殴られたと語り、別の抗議活動参加者(以下プロテスター)は、拘留中に受けた暴行による負傷で1ヶ月入院している。3人目のプロテスターは、7日間拘留された後に「殆ど歩けず」、肋骨と膝蓋骨を骨折していたそうだ。

7月上旬の家宅捜索の後、ロシア軍に4日間拘留された男性の妻は、拘留者たちが夫に金属棒で暴行を加え、電気ショックを使い、肩を負傷させ、脳震盪を起こさせたと訴えた。 

蔓延する恐怖について、ヘルソンのあるジャーナリストは、「ヤツラが何時迎えに来て、何時解放するのか、分かりません」、と語った。 

元被拘留者は拘留期間中ずっと目隠しと手錠をされ、食料・水を殆ど与えられず、医療援助は全く受けられなかったと述べた。ロシア軍要員は、民間人被拘留者少なくとも1人をロシア占領下のクリミアに強制移送し、そこで「矯正労働」を強いた。

幾つかの事例でロシア軍は、被拘留者が当局への「協力」を約束する声明に署名した、或は協力するよう他者に強く進めるビデオを録画させた後にのみ、被拘留者を解放している。

拘留事例では1件を除いてロシア軍は家族に、愛する人が拘留されている場所を伝えず、ロシア軍司令部は情報を求める家族に一切それを提供していない。

戦争法は、国際武力紛争の紛争当事国(勢力)が、戦闘員を捕虜として拘留すること、民間人の活動が拘留当局の安全に対して深刻な脅威をもたらす場合、その民間人を非刑事拘留することを認めている。恣意的拘留・不法拘禁・強制失踪はすべて、国際人道法で禁止されており、複数の戦戦争犯罪に相当する或いは伴う可能性がある。被拘留者に対する拷問および非人道的な取扱いは、国際法上のいかなる状況においても禁止されており、武力紛争に関連する場合、戦争犯罪と更に人道に対する犯罪を構成する可能性もある。 

民間人にとって、占領下では恣意的拘留や拷問を受ける危険は高いが、ウクライナ支配領に立ち去る明確な選択肢はない、とHRWは指摘した。例えば、ヘルソンのジャーナリストはHRWに、「私は自分のテレグラム・チャンネル(ロシア製インスタントメッセージアプリケーション)を持っているので、彼らのデータベースに入っています。それで身を隠さなければなりませんでした。何時でも私を迎えに行けると警告されてます。私は [ブラックリスト]に載っているので、立ち去る危険を冒しません。」、と語った。敢えて立ち去った13人が、ロシア軍による多数の検問所や拘留をかい潜っての、悲惨な旅について説明してくれた。

クリミアのウクライナ大統領常任代表タミラ・タシェワは、ウクライナ南部の新たに占領された州の状況も監視しているが、彼女はHRWによる聞取り調査で、ウクライナ当局はヘルソン州における強制失踪の正確な数を確認できず、人権監視団の推定によれば2022年2月以降少なくとも600人が強制失踪させられているようだと述べた。 

「占領地でのウクライナ人は地獄のような試練の中で生きています。ロシア当局はそれらの地域における自軍による戦争犯罪他の人権侵害を、訴追を視野に入れた国際捜査機関と同様に直ちに捜査すべきです。」、と前出のHRW調査員ゴルブノワは指摘した。 

ロシア軍は2022年2月25日に黒海とドニプロ川沿いのヘルソン州に侵攻、3月3日に州都ヘルソンを支配下に置いたと主張したが、それはザポリージャ州の都市であるメリトポリとベルディャンスク、そして最終的にはドネツク州のマリウポリを含む、ウクライナ南部沿岸へのより広範な侵略と占領の一環だった。

ウクライナ軍は占領された沿岸地域を奪還する反撃の準備を始めた、とウクライナ国防相は7月に述べたが、一方でロシア占領政権の高官は6月21日、ヘルソン州の「ロシア加入」に関する「国民投票」が秋に計画されていると述べた。

占領当初からロシア軍は、国際人道法の下で捕虜として扱われるべき領土防衛隊の隊員だけでなく、地方自治体の市長他の公務員、警察官、反占領抗議活動参加者、ジャーナリスト、安全保障関連の情報を持っている或いは占領に反対していると推測される人々を、拘留または逮捕の標的にしてきた。 

多くの情報源によれば、その内にロシア軍は明らかに無作為に、人々を逮捕・拘留し始めたそうだ。ヘルソンで極めて不足している食糧・医薬品・おむつ他の必需品を、困っている人々に配布していた地域社会のボランティアも標的にされた。 

本報告書作成のためにHRWは、キーウ、リヴィウ、ドニプロ、ザポリージャなどで人びとに直接聞き取り調査を行ったほか、電話による聞き取り調査も実施した。

 捕虜への拷問

ロシア軍は3月27日、ヘルソン領土防衛隊の隊員3人、司令官ヴィタリ・ラプチュク、副司令官デニス・ミロノフ、領土防衛隊の義勇兵「オレーフ」、更に民間人「セルヒイ」を、逮捕・拘留し、繰り返し拷問した(彼らの本名は安全のために伏せられている)。ミロノフ(41歳)は、拘留中の暴行で負った怪我が基で死亡した。両腕を縛られ両足に重りが結ばれたラプチャックの遺体は5月22日にヘルソンの湾で発見されている。拷問で負傷したオレーフは、4月28日に行われた捕虜交換の対象となり、ウクライナに拘留されていたロシア兵捕虜と交換された。 

 デニス・ミロノフとオレーフ

領土防衛隊の志願兵「オレーフ」は、3月27日の朝ミロノフとラプチュクに会う予定だったが、指定の場所に行ったが会えず、立ち去ろうとした際に、私服の男2人が近づいた。2人はオレーフを殴り倒し、手錠をかけ、角を曲がった所に連行、そこでオレーフは更に制服着用・重武装・目出棒の男性3人を見た。オレーフはその3人をロシア連邦保安庁(FSB)の工作員と考えている。ミロノフとラプチュクは壁際で手錠をかけられて立っていたそうだ。

FSB工作員は3人を、ヘルソン市内リウテランスカ通り4番地(旧キーロヴァ通り)にある、元国家警察局の建物に連行した。

初日に目隠しのまま12時間尋問され、工作員に暴行を受け、電気ショックを加えられ、ビニール袋で窒息させられそうになった、とオレーフは以下のように語った。「何回拷問されたかなんて言えませんよ、だって時間の経過が全然分からなくなるんですから。」 結局のところ、オレーフとミロノフとセルヒイは同部屋に行き着いた。工作員に殴り倒されたオレーフは、目隠しがずれ、エージェントがミロノフの顔を数回殴り、股間を蹴るのが見えたそうだ。工作員はミロノフのズボンを剥ぎ取り、ゴムの棍棒で殴った。「ミロノフの体は黒ずんだグチャグチャの物に変わったんです。」、とオレーフは語った。 

更なる尋問の後、工作員はオレーフを地下房に連行、約30分後、3人の男が外したドアを持ってきて床に投げた。兵士2人が、「デニス(ミロノフ)を運び込み…とても酷い怪我をしていて…兵士はデニスをドアの上に降ろした。デニスは横になったまま、もう動きませんでした。」 

翌日、男性3人は一時拘留施設だった複合施設内の別の建物に連行され、別々の監房に入れられた。約4日後、オレーフはより大きな監房に移された。自分の物と覚えていたFSB工作員の時計で日付を見、噛んだチューインガムの一部を壁に貼り付けて時の経過を追った。  

4月6日にオレーフはミロノフと共に更に別の監房に移された。

「デニスは悲惨な状態でした・・ささやき声で、一言ずつ話し、文を最後まで言えなかった。うめき声を上げ、咳ができず、胸に穴が開き、肋骨が肺を圧迫しているのが明らかでした。ちゃんと横になれなかったし・・座ることしかできなかったんです。」

ロシア軍要員は、監房にいた5人全員に2日ごとに缶詰3個(それぞれ250g)の軍用配給を持参した。「ヤツラはいつもチョコレートと肉を事前に取り除き、缶詰とドライビスケットだけしかくれませんでした。」、とオレーフは語った。「パンは一度も見てません。皆、体重がものすごく減りました。デニスはアップルソースしか食べられなかった…スプーンで食べさせて…22日間治療は一切受けず、ゆっくりと死んでいったんです。」

オレーフを捕らえていた者たちはある時点で、彼他2人に、ウクライナ国旗と極右過激派組織である右派セクターの旗を背景に、「ヘルソンの領土防衛隊はもはや存在しないが、愛国者はまだいる、そして誰もが戦うべきだ。」、とカメラに向かって言うよう強制した。「後で気づいたんですが、ヤツラはそのビデオをソーシャルメディアに投稿し、誰がイイネやコメントを投稿するのを監視してるんです、(人々を罠にかけるために)」、と彼は語った。

4月18日にオレーフとミロノフ他の同房者は、占領下にあるクリミアのセヴァストポリに移された。その翌日にミロノフは病院に運ばれたそうだ。「ほっとしました・・でも遅すぎたんです」、とオレーフは語った。オレーフは4月28日に捕虜交換された。

オレーフは7月9日にHRWと話をした際、肋骨7本が折れ、まだ治癒していないと言っていた。殆どの歯は折れ、少なくとも6本はなくなっていた。「脳震盪で、激しい頭痛が続いています。手足を全部殴られ・・背中、腰、お尻、肩の全部が・・(暴行で)青くなってた。みんな腎臓も殴られてたので、おしっこがピンク色だったんです」 

デニスの妻クセニア・ミロノワは別の聞き取り調査でHRWに、彼女がヘルソンを離れた後の4月8日に知人が電話で、「1人の男がデニスの腕時計を持ってきて、デニスはリウテランスカ通り(旧キーロヴァ通り)の施設に拘留されている。胸に怪我を負って歩くことができず、スプーンでしか食べさせられない。」、と話したそうだ。ミロノワは施設に手紙を書いたが、施設からの返事はそのような人物はいないというものだった。夫のセヴァストポリ移送を知った後、彼女はクリミアから夫について情報を得ようとしたが果たせなかった。

ミロノワによれば、5月24日にムィコラーイウ警察が電話をかけてきて、デニスが病院で死亡したと伝えてきたそうだ。ミロノワの頼みでオレーフが遺体を確認した。「死亡日は足に緑色の防腐剤で23.04と書かれていた」、そうだ。遺体を受け取ったウクライナ当局が発行し、HRWが精査した死亡診断書には死因が、「胸郭の鈍的外傷 – 気胸」、と記載されている。 

オレーフはまた、一緒に拘留されていたセルヒイ他の男性2人も民間人で、拘留中に激しい暴行を受け、セルヒイが頭に打撲傷と切り傷を負っているのを見たそうだ。セルヒイは4月5日に解放された。

 

 ヴィタリ・ラプチュクの死

ラプチュク(48歳)は身柄を拘束された日に、他3人と伴に地下室には連行されなかった。彼の妻で地元実業家のアリョーナは同日午後1時頃、母親の家で母親と長男と一緒にいた時、Zの文字をくっきりと描いた3台の車が乗り付けてきた、と次のように語った。 

『夫が私に、“開けて、武器をとりにきたんだ”、と言ったんです。ドアを開けたら,気絶しそうになりました。彼の顎は全部黒くなり、傷だらけで、目の血管も傷ついてた。顔はライフル銃で殴られ、縞模様になってました。・・一緒にいたのは武装した男9人で、ヴィタリはその1人に“将校として、(武器を捨てたら)、家族には手を出さないって言いましたよね。”と話してました。』

武装した男たちはラプチュクを武器のある地下室に連れて行った。夫が殴られる音をアリョーナは聞いた。母親は聖書を手に取り、祈り・すすり泣き始めた。地下室から連れ戻されたラプチャックの頬に出血が見え、医療従事者としての以前の経験から、頬骨を骨折した、とアリョーナは考えたそうだ。 

武装した男たちは、ラプチュク、アリョーナ、息子の頭に袋をかぶせ、リウテランスカ通り(旧キーロヴァ通り)の警察署に連行、そこで数時間拘留した。「ファシストかどうかを尋ねられ、祖父はユダヤ人で、私はウクライナ人だと答えると、“そのような国はない”って言われたのよ」 

アリョーナと息子はその間ずっと、隣室でラプチュクが暴行され尋問されるのが聞こえたそうだ。「夫が悪いことをしたと思ってるなら、そのための裁判所があるでしょ、殴り殺すことはできないはずよ!」、と彼女は言ったそうだ。「起こっていることが、信じられませんでした。」

ロシア軍兵士はアリョーナと息子を車に乗せ、ヴィタリは「テロリストで、ロシア連邦の法律に責任を負うことになる」、と語った。アリョーナと息子は橋の下で降ろされ、徒歩で家に帰り、午前4時頃に到着した。

3月28日からアリョーナはラプチュクを捜し始めた。オレーフがクリミアで解放されたのを知った後は、ロシアにいる友人や人脈を通じ、クリミア全域、ロストフとタガンログも捜したそうだ。

6月9日に1人の病理学者がアリョーナにテキスト・メッセージで翌日に電話するよう求めてきた。『すぐに分かったわ。一晩中泣きじゃくり、検察官(ラプチュク事件の担当)に電話で、“耐えられません、(病理学者に)あなたが電話してください。”、って言いました。』 検察官は後にアリョーナに電話で、5月22日にザリガニ取りをしていた若い男性が、腕を縛られ足に重りが縛られたラプチュクの遺体が浮かんでいるのを見つけたと伝えた。 

「あの時ずっと、彼が生きているよう祈っていた」、とアリョーナは語った。

 

 抗議者、ジャーナリスト、活動家

 

3月、4月、5月上旬にヘルソン、ベルディャンスク、メリトポリで占領に反対する一般市民による抗議活動があったことを、メディアは報じた。ロシア軍は、ヘルソンを含む一部の活動を、暴力的に鎮圧、実弾を使用し、プロテスターの一部を負傷させた。2人の目撃者が、「ロシア軍は人々の足を狙った」、1人は「足を撃たれた男性を見た」、と話した。ロシア軍はまた、困窮している人々に支援物資を配布した地域社会のボランティアを追跡・逮捕した。 

抗議活動を組織・参加・目撃し或は地域社会のボランティアであり、全員がロシア軍に拘留されていた9人に、HRWは話を聞いている。 

デモ 隊

 ヘルソン

ヘルソン出身の海洋生物学者アルカディ・ドヴジェンコ(29歳)は、ヘルソンの人々が占領当初から大勢で抗議活動を始め、それに加わった、と次のように語った。

『僕はただの普通のウクライナ人でした。でもある日の抗議活動で、マイクを手に取り、“ロシア人よ、家に帰れ”って言ったんです。そうやって僕の声を聞き…アイツらは僕が主催者であると決めつけたんです。それからロシアのジャーナリストが来るようになり、僕たちは、ロシアのプロパガンダテレビのために美しい映像を撮るのを、止めさせるんだって決めたんです。』 

ドヴジェンコは4月21日の拘留について次のように説明した。 

『あの日、アイツらは催涙ガス入りの手榴弾を投げ始め、本物の弾で人々を撃った。人々の足を狙った。撃たれて、運び去られる何人もの男の人を見た。歩道に血があったよ。』 

ドフジェンコは現場から逃げようとしたところでロシア軍に捕まり、目隠しされ両手を縛られて警察建物の地下に連行され、そこから別の部屋に移された、と次のように語った。 

『アイツらは僕をこん棒で叩き、殴る蹴るした。それが何時間も続き…約3時間経って、地下室に連れ戻された。それからまた呼び戻され、同じ質問をされたんです。誰があの抗議集会を組織したのか? 誰が他の抗議集会を組織したのか? ATO(ドンバスでのウクライナ軍と治安部隊の作戦)に関して誰か知っているか、他のプロテスターの住所を知っているか、などと質問された。私の宗教についても質問された・・ウクライナ正教会のキリスト教徒はテロリストで反逆者だ、と言われましたよ。』

ロシア軍はドフジェンコを7日間拘留し、その間ずっと手錠をかけて目隠しをし、毎日繰り返し尋問した。「水は貰ったが、とても悪いもので…私たちを養しなったのはロシア軍の食糧配給で、殆どゼロに等しいものでした。」 

ドヴジェンコは解放された時、歩くのがやっとだったと次のように話した。「脳震盪を起こしていて、肋骨が数本に膝蓋骨が折れてたんです。」

ドヴジェンコは5月にヘルソンを離れたが、クリヴィ・リフの安全な場所までの辿り着くには200kmあり、ロシア軍が設置した多くの検問所を通り抜ける3日間の辛い旅を要した。

ヘルソン州のある市(安全上の理由で市名は伏せられている)

抗議活動に参加したヘルソン州のある市の自治体議員は、6月7日頃にロシア軍によって、自宅を捜査され、野球のバットで2時間の暴行を受け、目隠しをされて児童用サマーキャンプ場の仮設拘置所の監房に36時間拘留されたそうだ。ロシア軍は更に彼の意志に反して彼を撮影、彼がロシア連邦保安庁の情報提供者になることに同意したと主張、もし抗議活動とボランティア活動を止めなければ、無期限に拘留すると脅して、24時間後に彼を解放した。彼は自宅にロシア軍による嫌がらせの訪問を数回受けた後に、国から逃れた。 

 ベルディャンスク市、「アントン」

ロシア軍は3月18日に占領下のベルディャンスク市内の交差点で、地域社会の人々に援助物資を届ける途中だった、抗議活動の主催者「アントン」を逮捕した。アントンはHRWに、目隠しと手錠をされ、地元の警察署と思われる場所まで車で連れていかれたと話した。ロシア軍は彼に抗議活動の主催者かどうかを尋ね、否定されると、靴で殴り、殴り倒し、数分にわたり殴る蹴るを加えた。「自分は抗議活動の主催者ではなく、我が国ウクライナの愛国者だと言ったんですが、そんな国はないと言われました。」

ロシア軍はジーンズを脱がせ、足をテープで結び、暴行を続けた。抗議活動とボランティア活動について質問をしながら、耳たぶにつけたクリップを通して、最初は数秒間、次に最長で20秒間、電気ショックを加えた、とアントンは次のように話した。「全部が真っ暗になり、オレジ色の斑点が見えた。自動(小銃)を手にして股間に向け、死ぬ覚悟をしろって言ったんです。」

90分後、アントンは監房に連行され、そこで3時間血を喀出したそうだ。拘留3日目にロシア治安要員は、彼を目隠したまま施設の2階に連行、そこで治安要員が書いた、「自分が抗議活動を組織したと自供すると共に、抗議活動に参加しないよう、新しい当局を信頼するよう促す」、声明をアントンにカメラに向かって読ませた。 

ロシア治安要員は、もし録音させなければ、息子と孫を拘留するとアントンに警告した。「1人の男が[テキスト]を持ち、1人が撮影、3人目は自動(小銃)を私に向けたまま、カメラの後ろに立ってました。最初のものが気に入らず、彼らは私にそれを2回読ませた。」 3日間拘留した後、ロシア軍はアントンを解放した。

アントンは、数多くの打撲傷、眼球血管に損傷、脚に怪我を負ったために、病院での受診を求めた。彼は4月5日にウクライナ支配下の都市に向かい、そこで怪我の治療のために入院、主に足首の怪我の治療を受けたと次のように語った。「軟部組織は粉砕され、皮膚の下に約20㎝ [の腫れ]があり,壊疽[の危険]があったので、[医師が]それを取り除き、皮膚移植を受けた。起き上がれないまま22日間ベッドに横たわり、退院したのは5月18日です。」 

 ジャーナリストとボランティア

ノヴァヤ・カホフカ

3月12日、ロシア軍はヘルソン州出身のジャーナリスト、オレーフ・バトゥーリンを逮捕し、隔離拘留した。バトゥーリンはHRWに、3月10日の朝に友人でドンバス退役軍人のセルヒイ・ツィヒパからと思われる、面会を要請するメッセージを受け取ったと語った。近くの町カホフカの待合せ場所ではツィヒパに会えず、バトゥーリンが徒歩で立ち去ろうとしたところ、軍服を着た数人の男たちが駆け寄ってきたそうだ。「地面に腹ばいになるよう叫び、手錠をかけ、ジャケットのフードを頭の上に引っ張ったので、何も見えなくなった。名乗りもしないし、何の罪に問われているのか、何故こんなふうに拉致されたのかも教えてくれませんでした。」 

兵士はバトゥーリンを地元市役所建物に連行、そこで尋問し暴行を加え、「 (ジャーナリズムの仕事は)終わりだと言い、殺すと脅した。」そうだ。その後ヘルソン市警察署に連行され、再び尋問されたが、「尋問の間ずっと、近くのどこかで誰かの叫び声が聞こえ、自動小銃の発射音が聞こえた。」 とバトゥーリンは語った。彼は警察署の暖房のない部屋で、ラジエーターに手錠で繋がれて夜を過ごし、翌日、ヘルソンの公判前勾留施設に連行され、3月20日に解放されるまで毎日尋問された。

前出のツィヒパはまだ行方不明で、妻のオレナの話では、彼が検問所で身柄を拘束されているのを、見たと言う目撃者がいるそうだ。1人の通行人が、ツィヒパが失踪した日に一緒だったツィイパの犬が、市役所の外で繋がれているのを見つけている。

 スニフリフカ

4月6日にロシア軍は、ヘルソン州との行政境界に近いムィコラーイウ州スニフリフカの検問所で、ヘルソン内のコミュニティのために食料・医薬品他の基本的な品物を購入していた、バプテスト派牧師ユーリーを逮捕した。携帯電話に侵攻初日に撮影された写真数枚があり、それにロシア軍装備品が写っているのを見つけたロシア軍は、車で彼を警察に運び留置した。 

電気はなく、食べ物は僅か、水は殆どない小さな凍てつく監房に、ユーリーは6日間拘束された。ロシア軍は抗議活動への関与と、人々に抗議を促す指導者としての役割、について尋問すると共に、2,000米ドル相当の医薬品と人道支援物資を積んだ彼の車、更に彼自身のものという現金6,000ドルを、押収したそうだ。検問所にいたロシア兵はユーリーに、車はヘルソンのロシア連邦保安庁にあると話した。ヘルソンに援助物資を配布し続け、ウクライナ検問所に関する情報をロシア軍に渡すという条件で、ユーリーは解放されたが、その翌日に妻と共にヘルソンから逃げ出した。

地方の高官と公務員

新たに占領した州でロシア当局は、メリトポリ市長、ヘルソン市長、複数の地方行政長官を含む、選挙で選ばれた多数の高官、事業主、地域社会活動家、影響力のある人物を逮捕している。前出のウクライナ大統領府常駐代表タシェワは、『6月28日現在、ウクライナの法執行機関が捜査を開始した431件の不法拘留事件の内、6件がヘルソン州の複数の市長、3つの地方行政機関の長、州議会と地方議会の議員17人、法執行官43人に関係しており、162人がまだ拘留されている。』、と述べた。

地方自治体の元ボランティア、元警察官、地方行政長官が拘留された事件や、彼らに圧力をかけるために行われたと思われる、その家族が不法に拘留された事件を、HRWは取りまとめた。その内の1人は今も拘留され続けている。

ヘルソン州のロシア軍は5月27日、元警官で今は警察ホットラインで働く男性(36歳)を、家宅捜索で警察の制服と父親の狩猟用ライフルを発見した後に逮捕した、と彼の妻は語った。 

男性の家族は毎日軍司令部に行ったが、居場所に関する情報は何も得られなかった。妻によれば、「“彼のことで動いていた”者がいた。」 と言われたそうだ。やがて彼女は公判前拘留所に行くようになり、夫の勾留28日目に看守が、持参した食料の小包を受け取った。夫は7月12日に解放された。彼が「身体的暴力の痕跡」を帯びていたことを指摘する以外に、彼の体調について話すことを妻は望まなかった。「ロシア軍がそこでどのように人々を拷問しているか、知ってるでしょ。」、と彼女は言った。

4月8日にロシア軍はメリトポリから約70キロ離れたヴァシリフカのロシア検問所で、ザポリージャに行こうとしていたヴラディスラフ(ヴラド)・ブリヤーク(16歳)を拘留したと、ザポリージャ州行政長官の父親は語った。父親は自分の身の安全を恐れてメリトポリを先に出発したが、息子は祖父が病気で旅行が出来なかったため、メリトポリから出るのを拒否していたそうだ。 

通過する人々の書類を調べていた兵士の1人が、携帯電話を見ているヴラドに気付いた。兵士がそれを調べ、親ウクライナであるテレグラム(インスタントメッセージアプリ)・チャンネルを幾つか見つけた。兵士の1人は彼に車から降りるように言い、銃を向けてその場で撃つべきかどうか尋ねた。軍は彼を3時間尋問し、父親が誰であるかを突き止めると、ヴァシリフカの警察拘留施設に連行、独房に閉じ込めた。父親のブリヤークは、息子は拘留中、「ウクライナ兵が拷問された」 空の監房を含め、施設内の血塗れの床を洗うよう強制されたと語った。

ロシア軍は48日間の拘留の後、ヴラドをメリトポリのホテルに移した。更に42日間拘留されたが、電話は定期的に使用でき家族との連絡は取れた。解放されたのは7月7日だった。 

ロシア軍は6月30日、「アリーナ(40歳)」と元義理の母を、侵攻以降皆が滞在していたヘルソン近くにあるアリーナの元夫の家に拘留した、とアリーナのシスターは語った。

ロシア軍による占領を受けて短期間、略奪と破壊に対処するべく設置された、地域警察隊であるヘルソン市営警備隊に、アリーナと元夫は加わったので拘留されたと、シスターは考えている。彼女によれば、ロシア軍は加入者全員の名簿を有し、その多くを拘留しているそうだ。

兵士はアリーナに6歳の息子を隣人に預けるよう強制した。当局は翌日の夕方にアリーナを解放した。聞き取り調査の時点で拘留されたままだった元義理の母は、糖尿病と肝機能障害を患っていたので、アリーナは清潔な服と薬を施設に届けている。元義理の母の汚れた服には血痕がついていたそうだ。 

ヘルソンから何とか脱出したアリーナの元夫が、ヘルソンに戻り、逮捕・勾留できるようになるまで、ロシア軍は元義理の母を拘留し続けるだろうと、アリーナはシスターに言ったそうだ。

その他の強制失踪、民間人の不法拘留

HRWはヘルソン州で更に、ロシア軍が民間人(男性12人、女性1人)を強制失踪させたと思われる事件を13件取りまとめた。殆どの場合、ロシア軍は家族に愛する人が拘留されている場所を伝えず、親戚が尋ねた時にも情報を提供していない。拘留中に暴行を受けた者も数人いて、1人は「矯正労働」のためにクリミアに不法移送された。軍に入っていた者はいない、と家族は話している。 

長期にわたり法の保護の外に置く意図で、民間人の拘留を認めない或いは、拘留中の居場所を開示しない行為は、国際法上の犯罪である強制失踪を構成し、民間人住民に対する攻撃の一環として行われた場合、人道に対する犯罪を構成する可能性がある。 

 今も尚、強制失踪させられている人々

  ヘルソン市 「ユーリー(43歳)」、

5月26日、ロシア軍は地元実業家「ユーリー(43歳)」をヘルソン市中央市場の駐車場で逮捕した。彼の継娘によると、ロシア軍当局は母親(ユーリーの妻)に、「彼は生きており、事件は“審査中”である」、と伝えたが、拘留場所は明かさなかったので、母親が7月14日にロシア軍当局に異議を申し立てたそうだ。

継娘によれば、1人の男が6月末に母親に接触、「自分はヘルソンの仮設の公判前拘留施設でユーリーの同房だった者であり、彼は共用房に収監される前の数週間を独居房で過ごした」、「武器不法所持の容疑で、彼をクリミアに、その後、ロシアのロストフに、移送する計画がある」、と語ったそうだ。 

ユーリーの妻は数日おきに食料と衣類の包みを持って施設を訪れており、施設の警備員は受け取ったが、彼がそこにいることを認めはしなかった。 

 イワニフカ町 「ボーダン(39歳)」、

倉庫管理者の「ボーダン(39歳)」は4月29日にヘルソン州イワニフカ町で、ロシア軍に逮捕されて以降、行方不明だ。家族がロシア占領当局と接触したが、情報は全く得られなかった。 

妻はロシア軍兵士の家宅捜索を受け、ボフダンが数時間、尋問・拘留された後、3月中旬に子どもと一緒に町から逃げていた。隣人が4月下旬に彼女に電話をかけ、ロシア兵が2台の車で家に来て、ボーダンを連行したと伝えたのだそうだ。ボフダンは前日に妻に電話で、ロシア兵が彼の車を奪ったが、返却を約束したと話している。

  イワニフカ町  「ドミトロ(54歳)」

ロシア軍は5月5日にヘルソン州イワニフカ町で、「ドミトロ(54歳)」を逮捕した。娘によると、ドミトロは5月4日に電話で、しばらく隣人たちと一緒にいるつもりだと話したそうだ。他の隣人たちは、5月5日にドミトロが小屋に行って牛の世話をしていたところに、兵士が来て、手錠を掛け、連れ去ったのを見た、と娘に話している。その隣人たちによれば、ロシア軍はドミトロの家を占拠し、ドミトロの居場所については何も知らず、「我々がここにいる限り、ドミトロはここに来れない」、と話したそうだ。ドミトロは領土防衛隊に加わっておらず、ドンバスでの戦争の退役軍人でもない、と娘は語った。

 オレシキ町 「ステパン(49歳)」、

武装ロシア兵10人の一団が4月7日早朝、自動車教習所の教官ステパン(49歳)のヘルソン州オレシキ町にある自宅に来た。母親からその後に話を聞いた娘は、当時両親と妹が家にいたと語った。兵士らは武器を探していると言い、金属探知機なども使って、家や庭を捜索、家族を引き離して別々の部屋で尋問した。その中の1人を偽名で "風"と呼んでいたそうだ。

ロシア兵は、「事態はお前にとって非常に悪いことになるだろうから、必要となる」と言い、身分証明書と薬を持って来るようステパンに伝え、手錠を掛けて連れ去った。彼は膵膵炎と骨髄炎を患っていて、障害者として正式に登録されている。

ステパンは4月8日、拘留先から妻と娘別々に電話をかけ、膵膵炎の発作を起こしたが、薬と食べ物を貰っており、暴行は受けていないと話した。父親はスピーカーフォンで話しているように聞こえた、と娘は語った。家族の誰もそれ以降、彼から連絡を受けていない。

娘によれば、家族の代理として行動する友人が、地元の軍当局に行って父親について尋ねたが、何の情報も得られなかったそうだ。家族はウクライナの政府機関やホットライン、クリミアの公判前拘留施設にも連絡を取ったが、成果はなかった。 

 解放

マリアという女性は、「ロシア軍が6月25日、タクシー運転手の夫(30歳)と海軍兵学校の生徒である弟(19歳)を、義理の母親が所有するヘルソン中心部の店舗で他男性2人と共に逮捕した」、更に「店の防犯カメラには、武装したロシア兵が10人から15人店に入り、男性4人を床に伏せさせ、携帯電話を奪い、袋を頭に被せて連れ去る様子が映っていた」、と語った。

その後、マリアの義理の母親は地元の軍当局に出向き、逮捕された男性4人について尋ねたが、当局者は男性4人に関する情報を一切伝えず、待つようにとだけ言ったそうだ。

ロシア軍は7日後に夫を、13日後に弟を、更に3日後に他の男性2人を解放した。男性4人は、ヘルソンの公判前拘留施設の地下に勾留されていたようだ、とマリアは語った。当局者は彼らを暴行し、十分な食糧を提供しなかった。マリアは、「弟は体重を10kg減らした」、「弟はロシア軍陣地の地理位置情報をウクライナの諜報機関に送っていたが、ロシア軍はそれについては尋問しなかった」、「その尋問の際、ロシア軍は男性4人について全て知っていた、ことを示す質問をした」、と語った。男性4人が釈放された後、マリアと夫、弟そして義理の母は、身の危険を感じてヘルソンを去った。 

 

  ヘルソン市 「ヴァシリイ」

ロシア軍は7月4日、ヴァシリイを自宅で逮捕し、4日間拘留した。妻は逮捕当時、ヴァシリイと2人の子供である歩き始めたばかりの幼児、そしてヴァシリイの両親と一緒に自宅にいたそうだ。ロシア兵7人が家に入り、男性は外に出るように、女性は1階に降りるように言った。兵士は家族の身分証明書を写真に撮り、家宅捜索を行い、ヴァシリイを逮捕した。

夕方、家族は地元の軍当局に行ってヴァシリイについて尋ねたが、当局は何の情報も与えなかった。彼は7月8日に解放されたが、妻にはヘルソンの元公判前拘留所に入れられていたと話したそうだ。「ロシア軍は彼を暴行し、電気ショックを加え、金属棒で両足を殴り、肩を負傷させ、脳震盪を起こさせたんです」、「ヴァシリイはまだ頭痛あり、悪夢を見ています。ロシア軍は尋問したとき、ヴァシリイとその家族について全て知っていたそうです」、と妻は語った。 

ロシア軍は解放後ヴァシリイに、3週間後に再びチェックし来ると伝えた。一家はヘルソンから身の安全のために逃げた。妻によると、ヴァシリイは領土防衛隊に加わっておらず、ドンバスでの戦争にも親ウクライナのデモにも参加していなかったので、何故拘留されたか全く分からないそうだ。妻はまたHRWに、「ロシア兵が4月上旬にヴァシリイの自動車修理工場を訪れ、工場の経営を続けるなら5,000グリブナ(169米ドル相当)を支払うか、無料でロシア兵の車を修理するよう要求した」、「ヴァシリイがお金を渡すと、ロシア兵は立去った」、と語った。

チャプリンカ村 「バレンティン(48歳)」,

6月8日、バレンティン(48歳)は、ロシア占領下クリミアとの行政境界から約50km離れたヘルソン州チャプリンカ村の自宅を出て、買い物に行ったきり戻らなかった。バレンティンに世話になっていた70代の母親が6月9日に、地元の警察署で彼を探したが、ロシア占領軍当局者は「麻薬容疑」で彼を逮捕したと伝えただけで、拘留場所については明かさなかった、とバレンティンの娘は話していた。母親はロシア占領軍当局者から、老人ホームに引っ越すべきだと言われたそうだ。 

母親は毎日警察署に行き、最終的に息子に会うことを許された。彼女はバレンティンの娘に、は「お前の父さんは体中を殴られ、とても痩せていた」、と伝えた。その後の訪問の際、警察の職員は彼がクリミアに連れて行かれた、と母親に伝えた。ロシア当局は、最初の逮捕から約1ヶ月後の7月4日若しくは5日にバレンティンを解放している。

娘によれば、バレンティンは家族に、自分が暴行され、「矯正労働」のためにクリミアに2週間送られたと話したそうだ。当局は身分証明書と銀行カードを返さず、彼に村を離れることを禁じた。ロシア兵は6月8日に、他の村人数人も拘留したと伝えられているが、娘は、その村人ついてそれ以上の情報を得ていないと語った。 

 

  法的義務

ウクライナにおける武力紛争のすべての当事国(勢力)は、1949年ジュネーブ諸条約、ジュネーブ諸条約第一追加議定書、および慣習国際法を含む国際人道法、または戦争法を遵守する義務を負っている。ある地域を実効支配する交戦国軍は、1907年ハーグ条約とジュネーブ諸条約に見られる国際占領法の適用対象となる。市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)と欧州人権条約のどちらもを内包する国際人権法は、常に適用される。 

戦争法は、民間人への攻撃、民間人の強制移送、即決処刑、拷問、強制失踪、不法監禁、被拘留者に対する非人道的な待遇を禁じている。略奪や財産の略奪も禁止されている。紛争当時国は、一般に、その支配下の住民が食料、水、医療を受けられるようにし、救済機関による援助を促進する責任がある。 

ジュネーブ第3条約は、捕虜の待遇を規定しており、捕虜を捕らえた瞬間から有効である。それには、捕虜を常に人道的に扱う義務が含まれる。捕虜を故意に殺害・虐待・拷問する、故意に大きな苦痛や身体や健康に重大な傷害を与える、ことは戦争犯罪である。捕虜からいかなる種類の情報も得るためにも、捕虜に拷問やその他の強制を行ってはならない。 

犯罪的な意図をもって重大な戦争法違反を、命じる・行う、或いは幇助・教唆したりする者は、戦争犯罪に対して責任がある。そのような犯罪について知っていた、あるいは知る理由があったが、それを止めようとも、加害者を処罰しようともしなかった部隊の指揮官は、指揮命令責任の問題として戦争犯罪に対して刑事責任を負う。 

ロシアとウクライナは、ジュネーブ諸条約に基づき、自軍によって或いは自国の領土内で行なわれた、戦争犯罪の疑いを捜査し、責任者を適切に訴追する義務を負っている。人権侵害の被害者とその家族は、迅速かつ適切な救済措置を受けられるべきである。 

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