先週、帰京する前、祖母の面倒を見てもらっている大阪の叔母の家で
見慣れない古いアルバムが有るから、見てみたら、古い写真でした。
父は田舎から、祖母に「暇つぶしに」と昔のアルバムを持って来たそうな。
私の祖母、そして、曾祖母は家を守る為、離婚しています。
曾祖母は跡継ぎのお兄さんが若くして亡くなったので家を守る為に離婚。
祖母も同じく、神戸で事業をやりたい祖父と家を守る為離婚。
曾祖母が神戸での事業に激しく反対したそうなんです。
昔はそういう時代でした。
家を守る為。
稼ぎ柱を失った祖母が高校教師をし、父も高校、3年間、昼ごはんなしで
下に三人居る弟や妹の受験の為に、必死で国立大学に入って。
(ウチはいい大学に入るのが、必修だったので。曾祖母命令)
(親の代までは勉強が出来る代だった。私からはボロボロ・・)
で、父は大学卒業し銀行に就職。
その時、祖父が会いに来たそうです。
やはり、ひもじい思いと柱を失った事で、祖父に良い気持ちを持って
居なかった父は拒絶したそうです。
祖父は最終的に女を作って出て行ったので。
父や、祖母に祖父の話は聞けませんでした。
とても、良い思いしているハズはないので。
亡くなった長女にあたる叔母が結婚していた事も「知らん」と答えてたし。
唯一、大丈夫だったのが、今、祖母の面倒を見ている叔母。
小さい頃の叔母から見たその光景は、曾祖母が、祖母と祖父を苛めているように
見えたそうです。祖母も神戸に付いて行きたかったのでは・・・と。
長女が若くして亡くなった時は流石に連絡はしたそうです。
祖父はやはり、家の敷居はまたぎには行けなかったそうです。
子供の時、田舎に帰ると、ウチ(父方)は何で、おじいちゃんが
居ないんだろう?と子供心に思いました。(多分、聞かなかったと思うけど)
母方には祖父が居たのでね。
で、私も神戸生まれですが、祖母も父も長女と神戸生まれなんです。
祖母は育ちも神戸で。
戦中、神戸が大空襲受ける直前に田舎に戻ったのです。
昭和20年・・・・。間一髪・・・・。
家は須磨でした。 因みに私は垂水産まれです。
その時代の写真があったのですね。家は空襲で燃えましたが、その前の
写真。
祖母が24歳位の美人だった(?)時、横に、切れ長の目をした
軍服を着ている男性が居たので、もしや?と思い、傍に居た祖母に
聞いてみました。この人は??誰?と。
「ああ、あなたのお父さんのお父さんよ。」と・・・。
祖父は辰五郎というのですが、辰五郎さんの話を89歳になる祖母の
口から聞くのは初めてで・・・。
戦中は満州に居たそうです。終戦前に除隊となったので、
本当にラッキーだったそうです。
終戦を旧満州で迎えたら、間違いなくシベリア抑留となっていたので。
母方の祖父の弟はシベリア抑留されました。戦後、出世しました。
そして、神戸空襲前の疎開。そのまま、兵庫、但馬の歴史ある家で02年迄
生活していたのですが。
まあ、まさか祖母から祖父の話が聞けるとは思いませんでした。
未だに、家系図が判らないんでね。
祖父は10数年前に亡くなりました。
そして、遺族である、その後結婚した方と私と大して年齢の変わらない
子供と二人で、父達、子供の、財産放棄をお願いに来たそうです。
アポなしで、突然。その二人の遺族は相当ビビッて腹を決めて
神戸から但馬へやってきたそうです(そりゃ、そうだろうな・・・)
で、祖母は最初から、相続する気も無いので、快く要求を受け入れたそうです。
それ所か、相当、話が盛り上がったらしく、遺族側は胸を撫で下ろしたそうな。
祖母も曾祖母も相当、心臓が強かったのです。
その時、子供の人数分、(当時は3人)の、高級な葛餅を持って来て、
その1つがウチに送られて来ました。
私はそのおいしい葛餅を食べながら、「コレ、何処から貰ったの?」と
聞いたら、母が「辰五郎さんの遺族からよ」と・・・・、
ビックリしました。
足が弱り、来年からとりあえず、叔母の定年(小学校の音楽教師)迄、
やむを得ず、老人ホームに入って貰いますが、
来年春はその叔母の子供二人の結婚式が2連続、二週おきにあるので、
何とか、出席させてあげたいです。
(私はこの体なんで、そういう姿、見せてあげれそうにないので)
まあ、祖母、そして、私が元気な内に文にしてみました。
見慣れない古いアルバムが有るから、見てみたら、古い写真でした。
父は田舎から、祖母に「暇つぶしに」と昔のアルバムを持って来たそうな。
私の祖母、そして、曾祖母は家を守る為、離婚しています。
曾祖母は跡継ぎのお兄さんが若くして亡くなったので家を守る為に離婚。
祖母も同じく、神戸で事業をやりたい祖父と家を守る為離婚。
曾祖母が神戸での事業に激しく反対したそうなんです。
昔はそういう時代でした。
家を守る為。
稼ぎ柱を失った祖母が高校教師をし、父も高校、3年間、昼ごはんなしで
下に三人居る弟や妹の受験の為に、必死で国立大学に入って。
(ウチはいい大学に入るのが、必修だったので。曾祖母命令)
(親の代までは勉強が出来る代だった。私からはボロボロ・・)
で、父は大学卒業し銀行に就職。
その時、祖父が会いに来たそうです。
やはり、ひもじい思いと柱を失った事で、祖父に良い気持ちを持って
居なかった父は拒絶したそうです。
祖父は最終的に女を作って出て行ったので。
父や、祖母に祖父の話は聞けませんでした。
とても、良い思いしているハズはないので。
亡くなった長女にあたる叔母が結婚していた事も「知らん」と答えてたし。
唯一、大丈夫だったのが、今、祖母の面倒を見ている叔母。
小さい頃の叔母から見たその光景は、曾祖母が、祖母と祖父を苛めているように
見えたそうです。祖母も神戸に付いて行きたかったのでは・・・と。
長女が若くして亡くなった時は流石に連絡はしたそうです。
祖父はやはり、家の敷居はまたぎには行けなかったそうです。
子供の時、田舎に帰ると、ウチ(父方)は何で、おじいちゃんが
居ないんだろう?と子供心に思いました。(多分、聞かなかったと思うけど)
母方には祖父が居たのでね。
で、私も神戸生まれですが、祖母も父も長女と神戸生まれなんです。
祖母は育ちも神戸で。
戦中、神戸が大空襲受ける直前に田舎に戻ったのです。
昭和20年・・・・。間一髪・・・・。
家は須磨でした。 因みに私は垂水産まれです。
その時代の写真があったのですね。家は空襲で燃えましたが、その前の
写真。
祖母が24歳位の美人だった(?)時、横に、切れ長の目をした
軍服を着ている男性が居たので、もしや?と思い、傍に居た祖母に
聞いてみました。この人は??誰?と。
「ああ、あなたのお父さんのお父さんよ。」と・・・。
祖父は辰五郎というのですが、辰五郎さんの話を89歳になる祖母の
口から聞くのは初めてで・・・。
戦中は満州に居たそうです。終戦前に除隊となったので、
本当にラッキーだったそうです。
終戦を旧満州で迎えたら、間違いなくシベリア抑留となっていたので。
母方の祖父の弟はシベリア抑留されました。戦後、出世しました。
そして、神戸空襲前の疎開。そのまま、兵庫、但馬の歴史ある家で02年迄
生活していたのですが。
まあ、まさか祖母から祖父の話が聞けるとは思いませんでした。
未だに、家系図が判らないんでね。
祖父は10数年前に亡くなりました。
そして、遺族である、その後結婚した方と私と大して年齢の変わらない
子供と二人で、父達、子供の、財産放棄をお願いに来たそうです。
アポなしで、突然。その二人の遺族は相当ビビッて腹を決めて
神戸から但馬へやってきたそうです(そりゃ、そうだろうな・・・)
で、祖母は最初から、相続する気も無いので、快く要求を受け入れたそうです。
それ所か、相当、話が盛り上がったらしく、遺族側は胸を撫で下ろしたそうな。
祖母も曾祖母も相当、心臓が強かったのです。
その時、子供の人数分、(当時は3人)の、高級な葛餅を持って来て、
その1つがウチに送られて来ました。
私はそのおいしい葛餅を食べながら、「コレ、何処から貰ったの?」と
聞いたら、母が「辰五郎さんの遺族からよ」と・・・・、
ビックリしました。
足が弱り、来年からとりあえず、叔母の定年(小学校の音楽教師)迄、
やむを得ず、老人ホームに入って貰いますが、
来年春はその叔母の子供二人の結婚式が2連続、二週おきにあるので、
何とか、出席させてあげたいです。
(私はこの体なんで、そういう姿、見せてあげれそうにないので)
まあ、祖母、そして、私が元気な内に文にしてみました。
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