深見伸介の読書日記

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谷崎潤一郎 「文章読本」を読む

2025-02-04 07:02:21 | 歴史・文章
今日は谷崎潤一郎の「文章読本」を読んでみることにする。内容が分かりやすく興味深い本だ。新潮文庫「陰翳礼讃・文章読本」から引用してみる。

「人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、悲しい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分かる。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとか云う手段もありまして、急な、激しい感情を一と息に伝えるのには、そう云う原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かと云うことは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分かります」(125頁)

「われわれはまた、孤独を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも、独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけてくることがあります。それから、他人に話すのでも、自分の云おうとすることを一遍心で云ってみて、然る後口にだすこともあります。普通われわれが英語を話す時は、まず日本語で思い浮かべ、それを頭の中で英語に訳してからしゃべりますが、母国語で話す時でも、むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそう云う風にする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、と云う働きを持っております」(126頁)

谷崎流の言語論、といった文章だ。そのあとには、「・・・思想に纏まりをつけると云う働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります」(126頁)とも書いてある。言葉の弱点を十分に分かっていたのだろう。それにしても、ここまで言葉について深い思索ができる人だとは思っていなかった。




大村益次郎その2

2025-02-04 02:55:42 | 歴史・文章
絲屋寿雄「大村益次郎」を読んでいる。
薩摩側との対立が、その後の大村暗殺につながったのだろう。
明治2年、6月21日から25日までの5日、政府内では兵制改革の議論が行われた。
「・・・大村益次郎と木戸孝允を中心とする長州派は、『農兵を募り親兵とする』国民徴兵制による中央直属の常備軍建設を主張した。彼らはその点について馬関戦争や長州征伐で奇兵隊などの諸隊、足軽や百姓町人の兵士をもってたたかった経験をもっており、徴兵は必ずしも武士におとらないという確信をもっていた。これに対し大久保利通を先頭とする薩摩派は、大村の農兵論に反対で、薩・長・土三藩の精兵を中央に備えることを主張した」(引用・148~149頁)

「数日の論争の結果は大久保派の勝利となった。要するに木戸にしても大久保にしても天皇制独自の軍隊をつくりあげようという方向では完全に一致したが、当面の情勢判断が相違し、諸藩の不平士族を中央の最大の敵とみる木戸・大村派と農民、町人の政府離反、一揆反乱を怖れる岩倉や大久保派の意見の対立がその根底にあった。こうして大村の農兵徴集案は退けられ、まず薩・長・土・三藩の兵から一部を抜いてこれを中央の警備隊とすることになった(その後、肥前藩兵も一大徴集された)」(引用・149~150頁)

「かつては必要とされた長州藩隊のもつ民衆的エネルギーも、中央政府にとっては今は危険な存在となり、早晩ふるいにかけて精選される必要があった。新政府は倒幕にあたっては農民の解放者の如くふるまい、その革命的エネルギーを利用はしたが、もとより農民の味方ではなかった。倒幕の功労者をもって自負する長州藩隊の兵士たちは、今や彼らの期待に反したばかりでなく彼らの特権さえもうばおうとする維新政府の存在を彼らの危険物と見なして反発した。大村暗殺の原因も、長州諸隊の反乱の要因もすでにここに胚胎していた」(引用・151頁)