深見伸介の独学日記

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学問と独学

2025-02-14 07:46:50 | 歴史・文章
「もっともこんにち、外国語の塾はあっても、漢学塾や日本古典の塾、哲学の塾、経済概論や法律概論の塾はなさそうである。しかし社会に需要があればやがてできるにちがいない」。司馬遼太郎がエッセイ「風塵抄」にこう書いたのは、昭和62年である。それから40年近くたっているが、そのような「塾」は、日本には無い。あるのかもしれないが、目立った活動はしていないだろう。

そんなわけで、身近に「師」がいない私は、独りで勉強に励むのである。勉強とは何ぞや、といわれると分からないものだが、たぶん私が思うに、「言語を習得すること」になるかとおもう。外国語に限った話ではない。文学だって、「夏目漱石語」や「芥川龍之介語」を学ぶ為に読むのだし、経済・科学・法律だって、その言語体系を学ぶのである。言語の視野を広げることが、勉強の目的である。つまりそれは、人間のこころの視野を広げる事とも言える。

読んだり書いたり。ただひたすらそれを繰り返す。調子の悪い時には、とても苦痛だ。だが、うまくいくと、頭にエンジンがかかったようになり、快楽を感じる。スポーツとどこか似ているのかもしれない。

ついでに書くと、私が勉強するときに欠かせないものは、煙草とコーヒーである。これらがないと、頭が働かない。煙草代が高くなった。禁煙すれば、書籍が買えるのに、分かっていても、やめられないものである。コーヒーをチビチビ飲みながら、筆写を繰り返す。なんだか、坊さんみたいにストイックな生活をしている。いつかは、自分の書籍を出してみたい。そんな夢を持ちながら、悪戦苦闘しているのだ。








国家と家族

2025-02-14 06:31:31 | 歴史・文章
晩年の吉本隆明が、国家の最小単位は「3人」である、と確か書いていた。どの著作だったかは忘れてしまったが。その「3人」とは、言うまでもなく家族である。父親・母親・子供。一番ちいさな国家は、家族であると考えてもよい。国家である以上、そこには権力が生まれる。父親・母親という名前の政治家が誕生する。子供は民衆である。ただ、親の性質によって、子供の在り方は異なるだろう。自由を与えられた「市民」として扱って貰える子供もいるだろうし、正反対に、親に徹底的に奉仕させられる「臣民」という立場の子供もいるだろう。「臣民」にされてしまった子供は、どう抵抗すればよいのか?不良少年になってみたところで、別な権力(学校・警察など)に抑圧されてしまうに違いない。

吉本隆明「共同幻想論」を先日、読了した。興味深い本ある。文体も思想も魅力的だ。しかし、人は何故権力を欲するのか?については、吉本の口からは明確に語られていなかったような気がする。人を支配したい、というのは人間の本能なのであろうか。家族に話を戻すと、家族間にはというものもあるはずである。国家には、市民(臣民)に対するなど存在しない。そう考えると、家族と国家というものを単純に結びつけるという訳にもいかないか?これは、難しい問題である。

先日、永山則夫についての書籍を図書館で読んだ。彼はまず、「家族」という共同幻想から排除され、ついには犯罪を犯し、最後には「国家」という共同幻想によって抹殺されてしまった。月並みな言い方だが、「家族」からのがあれば永山則夫は長命できたかもしれない。
自分も「人間は働くべきである」という共同幻想によって、体を壊し、今に至っているが、共同幻想による排除を無くすためには、どうすればよいのか?容易に答えの出ない問題に今、ぶち当たっている。

眼について

2025-02-14 05:20:11 | 歴史・文章
ここに一枚の人物写真があったとしよう。その眼には、無数の針が突き刺してある。写真を見た人は背筋が震えてしまうに違いない。これが例えば、頭に突き刺してあるならば、さほど恐怖感はないはずである。冗談にもみえるかもしれない。だが、「眼に突き刺してある」となると、それはその人物の、存在の否定にすら見えてくるはずだ。視覚を奪われた人間ほど、悲惨なものはない。

以上は、三浦雅士「幻のもうひとり」に収録されているエピソードである。人は「眼」によって対象を把握する。対象を把握し、ときには自己をその対象と同化させようと努力を重ねる。そのことにより、新しく自己を更新していく。それはまさしく、「学び」と呼ばれるものの本質にほかならない。マルクスが夥しい経済学の書物を残したのも、労働者の受難を見たからであろう。実際の労働者の悲惨を見た訳ではなく、おそらく労働の実態を文書で読んだのであろうが。しかし、読むことにより、見ることにより、眼球の運動により、マルクスが「悲惨な労働者」を把握したのは間違いないと思われる。「見ること」は、時に人を革命家に変えてしまうというわけだ。

話は変わるが、物を学ぶときに有効なのは「筆写と音読」と言われる。評論家の佐藤優によれば、彼の知り合いの作家たちはほぼ全員、筆写と音読を習慣にしているそうだ。私も、よく筆写と音読を試みる。宮沢賢治だったり、漱石だったり、丸山真男の政治思想だったり、メニューはいろいろだが、筆写をしていると妙な気分になる。なぜか。たとえば、ノートに賢治の詩を手書きで筆写したとしよう。それを後から見直す。そのとき、ある落差が生まれるのだ。明らかに自分の筆跡であるのに、いまの自分ではとうてい書けない内容の文章がそこに現れるからである。そしてそこには、賢治の詩と私の筆跡が融合しているという現象がおきているのだ。こうして私は、少しずつではあるが、宮沢賢治という人間の言語に染まっていく。これが、筆写という一見単純な行為の持つ威力なのだ。それを可能にしているのは、手と眼である。とりわけ、眼で見ることは重要である。眼で見る。眼で確認する。そのことにより、私たちは、新しく自分を更新していくのだ。