今日は谷崎潤一郎の「文章読本」を読んでみることにする。内容が分かりやすく興味深い本だ。新潮文庫「陰翳礼讃・文章読本」から引用してみる。
「人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、悲しい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分かる。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとか云う手段もありまして、急な、激しい感情を一と息に伝えるのには、そう云う原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かと云うことは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分かります」(125頁)
「われわれはまた、孤独を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも、独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけてくることがあります。それから、他人に話すのでも、自分の云おうとすることを一遍心で云ってみて、然る後口にだすこともあります。普通われわれが英語を話す時は、まず日本語で思い浮かべ、それを頭の中で英語に訳してからしゃべりますが、母国語で話す時でも、むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそう云う風にする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、と云う働きを持っております」(126頁)
谷崎流の言語論、といった文章だ。そのあとには、「・・・思想に纏まりをつけると云う働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります」(126頁)とも書いてある。言葉の弱点を十分に分かっていたのだろう。それにしても、ここまで言葉について深い思索ができる人だとは思っていなかった。
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