たかきの独りごとパートⅡ

近況報告(感謝・感動・感心をテーマとし、今年度は家庭菜園が中心予定です。尚、不定期更新とさせていただきます。)

◎ラジオ深夜便から

2012-01-13 08:06:21 | 日記
☆富士山ライブカメラ(忍野カメラ) 今朝7:58

★昨夜は雨が降ったのか地面が濡れているが、今この時間曇り空となっている。早朝に気温は、3℃だが体感としてはそんなに寒くはない。昨夜は早く休んだせいか1時頃目が覚めたので、NHKラジオの深夜便放送を聴く。昨夜のアンカーは松本一路アナウンサーで、〔スポーツ名場面の裏側で〕の番組にメキシコ五輪銀メダリスト元マラソンランナー 君原健二さんが出演された。以前にも、お話は聴いた事が有る様に思う。高校生時代に東京オリンピックが有り、マラソンでは君原選手はかなり期待されていた。確かオリンピック前には、君原選手の映画を観に行った様な気がする。番組の中では、東京オリンピック本番ではプレッシャーに潰されて、実力を出し切れず8位に終わった事や、「目標に向かって努力する事」の大切さ、故円谷幸吉選手との関係等をお話された。ウィキペディア フリー百科辞典にお話の内容に近い物が有りました。
・実家は小間物屋。中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校(現・福岡県立ひびき高等学校)時代はインターハイでも予選落ちを経験するなどとりわけ目立った選手ではなく、高校を卒業後の就職活動も思わしくない中、ようやく八幡製鐵(現・新日本製鐵)に入社(八幡製鐵陸上部が長距離を強化することになり、卒業直前になってようやく入社が決まったという)できた。ここで高橋進の指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。東京プレ五輪では競技場に入ってからベルギーのバンデンドリッシュを抜いて2着。その後も好成績を重ね、1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。

東京オリンピックに際しては、日本の男子マラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。円谷はどちらかといえばトラックと駅伝の選手というイメージが強く、マラソン経験が少ないことから、有力候補とは目されていなかった。しかし、迎えたオリンピック本番ではプレッシャーに潰されて、実力を出し切れず8位に終わった(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。円谷とは代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。オリンピック後、福岡に戻ってから君原はいったん陸上部からの退部届を提出したが、高橋はこれを保留にした。

東京オリンピック直後に箱根駅伝チーム強化をもくろむ河野洋平の肝煎りで早稲田大学入学の勧誘を受け、いったんは入学を決意、上京するが最終的に「自分はすでに大学卒業の年齢を過ぎている」として断念した。

東京オリンピックの失敗は尾を引きなかなか立ち直れなかったが、コーチの高橋は君原に結婚を許した。この結婚をきっかけに君原はこの後次第に復帰し、1966年のボストンマラソンでは優勝を果たす。だがメキシコオリンピックをめざしていた1968年1月、故障に苦しんでいた円谷が自殺し、君原は大きな衝撃を受ける。円谷の葬儀で君原と高橋コーチは「メキシコ五輪で日の丸を掲げる事を誓う」という弔文を送っていた。

そのメキシコオリンピックの男子マラソン代表選考は難航し、君原よりも選考会のタイムが上回った采谷義秋との比較になったが、君原に決定する。そのメキシコ五輪男子マラソン本番では、前回の無念を晴らす2位入賞・銀メダルを見事獲得、選考過程での疑問を跳ね返した。レース後半は腹痛に見舞われ、体調を十分に整えられなかった点で「自慢できる内容ではなかった」と後年述べている。それでも競技場へ入った後ゴール直前で後ろを振り向き、3位だったニュージーランドのマイケル・ライアンが迫っていたのに気づいて、わずか14秒の差で逃げ切った。ふだんは「バランスが崩れ、スピードが鈍る」という理由で、レース中に後ろを見ることは殆ど無かったが、このときの行動について君原は「円谷の『陰の声』が振り返らせたのかもしれない」と思っているという。

31歳となったミュンヘンオリンピックにも男子マラソン代表として選ばれる。惜しくも2大会連続の五輪メダルは逃したものの、日本人トップの5位入賞を果たす。戦後の男子マラソン日本代表選手で、オリンピックで2大会連続入賞はほかに中山竹通しかいないが、君原の場合今日のルールであれば3大会連続入賞に相当する大記録である。

翌1973年、競技の第一線を退いた。引退まで出場した35回のレースすべてに完走している。その後も年に1回はフルマラソンへの出場を続けており、優勝者が50年後に招待される2016年のボストンマラソンへの出場をめざしている。

コーチの高橋とは指導方法をめぐってしばしば対立した。その内容は著書『マラソンの青春』で知ることができる。同書の中の「2時間19分38秒の意識」は、筆者が加筆した上で、かつて中学校の国語の教科書(「新編 中学国語 3」教育出版 平成2年)に掲載されていた。また、首を傾けて走る独特のフォームでも知られた。これについては「苦しくなったときのあがきの走り」であると述べている。練習やレースの際、苦しいときには「まず次の電柱まで走ろう」と念じながら走ったという。このエピソードは引退後に出演した公共広告機構(現:ACジャパン)のテレビCMでも紹介された。レースについてはイーブンペースで走りきることを理想とし、駆け引きは好まなかったという。

引退後は、八幡西区にある九州女子短期大学で教鞭をとりながら地域貢献を行った。退職後の現在は北九州市教育委員会委員長の傍ら、講演活動や市民マラソンへのゲスト出場をしている。2009年4月より、北九州市立大学の特任教授(非常勤)に就任。

日本のマラソン界の将来について「わたしたちの時代は努力でカバーできていた。ケニア選手たちの走りを見ると、努力が及ばない素質の問題になる」と悲観的な見方を示している
今でも毎年円谷の墓参は欠かさず、好物だったビールを墓石にかけることが習慣になっている。


我々も日々の生活でオーバーペースに気を付け、イーブンペースで過ごしたいものである。では、氏の名言を!
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・人生は、よくマラソンに例えられるが、私はむしろ、

人生は駅伝であると思う。

前を走った者から、たすきを受け継ぎ、

後に走る者につなぐ…。

途中で走ることをやめるわけにはいかないのが人生。
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・努力の成果なんて目には見えない。

しかし、紙一重の薄さも重なれば本の厚さになる。
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・無駄に終わる努力など、

あり得ない。
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・人間に与えられた、

最大の力は努力です。
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【夢を実現する今日の一言】

・厳しい環境ほど輝くのが、生き方

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~今日は何の日~
☆歴史上の出来事
▼三河地震M7.1。死者1180人(1945),▼ピース(たばこ)発売。10本入り7円(1946),▼美空ひばり、塩酸をかけられる(1957),▼国公立大学共通一次試験スタート(1979)
☆記念日・行事・お祭り
●スキー記念日(ミズノ)
☆今日の誕生日
▼相米慎二(映画監督・1948),▼長山洋子(歌手・1968),▼平山あや(タレント・1984)
☆クローズアップ!
・鎌倉幕府初代将軍、源頼朝没
 鎌倉幕府の初代将軍源頼朝。弱者に対する第三者のひいきや同情を「判官びいき」というが、その語源は、当時の人々が、兄の頼朝との不和がもとで自殺に追い込まれた弟・義経を薄幸な英雄として同情したことに由来する。頼朝は落馬が原因で床につき、1199年(建久10)のこの日、53歳で世を去った。なお、その死因については、他殺説や怨霊説など、古来からさまざまな説がある。
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☆今日の「誕生日の花と花言葉」
・クリンコザクラ(サクラソウ科)
・美の秘密
「きょうの一句」
・手袋の手を振る軽き別れあり   池内友次郎(いけのうちともじろう) 

☆~心に響く366の寸言~
 ・今日の言葉~「安岡正篤 (やすおか まさひろ)一日一言」より(致知出版社刊)
【大努力 (2)】
秀れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の十倍も二十倍もやるだけの元気がなければならぬ。
 二十歳前後や三十歳前後は、いくら力めても疲労などするものではない。心身ともに旺盛な時である。まかり間違って病気になったり死んだりすれば、その時は天命と諦めるのである。学徒が学問のために死ぬのは本望ではないか。
☆1月13(金): 松下幸之助[一日一話]
【枠にとらわれず】
 私たちは仕事を進めていく際に、ともすれば自分で自分の枠を決めてしまってはいないか。
 たとえば、ラジオのデザインにしても、元来、デザインは固定したものでないのだから、三角でも円でもよいはずなのに、ほとんど箱型である。このことに限らず、不思議なことに人間は自ら枠をつくり、その中に入ってしまうという悪い傾向がある。これも自己を保身する一つの行き方かもしれないが、窮屈な枠の中で窮屈なものの考え方をしていては、心の働きも鈍くなり、自由自在なよい智恵が出てくるものではない。ものにはいろいろな見方がある。時と場合に応じて自在に変えねばならない。そこにこそ発展が生まれるのである。
タイトル:「たかきの独りごとパートⅡ」はブログの開設から 902日

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