☆富士山ライブカメラ(三ッ峠山頂カメラ) 今朝7時57分
☆昨夜は風が強かったが、今は大分落ちて来ました。しかし今朝は冷え込み、小雪が舞い気温は1℃でした。
3月も10日と言うのに、真冬並みの寒さで有る。こんなに寒かったら、何もする気にならない。今日も自宅でノンビリ過ごそうと思っています。
昨日も天気が悪かったので自宅で過ごした。夕食後早めに布団に入り、今朝は7時半頃迄寝床にいた。途中何度か目が覚めたが、それでも10時間前後は寝たであろう。
寒い時には寝るの限る。
今日は東京大空襲から70年になるそうだ。各新聞では東京大空襲について触れています。日経社説では「東京大空襲70年が問うもの 」という見出しでが目に留まった。大変な数の犠牲者が出たのが悔やまれる。
・70年前のきょう、東京の下町一帯は米軍機による猛爆を受け、わずか一晩で10万人余の死者をだした。被災家屋約27万戸。太平洋戦争における民間人の犠牲のなかでも、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下とならぶ最悪の被害だ。
戦争というものは、最後には前線も銃後も隔てがなくなる。東京大空襲は当時の日本人に、そんな現実をまざまざと見せつける出来事であった。あの大戦末期の不条理の象徴といえる。
だからこそ、悲劇は戦後ながく語り継がれてきた。節目の今年はとりわけ証言の掘り起こしなどが盛んだ。惨禍を風化させないためにも、こうした機会に被害の実相に触れる意義は大きい。
もっともその際に、忘れてはならない視点がある。ことここに至る前に、なぜ戦争をやめられなかったか、という問いかけだ。
1944年7月、日本軍は「絶対国防圏」のサイパンを失い、米軍はここを拠点に日本本土空襲への態勢を整える。この時点で日本の敗北はほぼ決定づけられたにもかかわらず、当時の戦争指導者たちは泥沼に突き進んだ。10月にはレイテ沖海戦で大敗、翌年には硫黄島で将兵が玉砕した。
本土への間断なき空襲や沖縄での地上戦は、こうした経緯によって必然的にもたらされた事態だった。終戦があと1年早ければどれだけ多くの人命が救えたか。その決断ができないまま本土決戦を叫んだ指導層の罪は深い。
「国民の無気魂」が敗戦を招いた――。ポツダム宣言受諾が決まったときに東条英機元首相がしたためた手記には、こんなくだりがある。このような認識を持つ指導者のもとで、多くの国民やアジアの人々が苦しんだ。そんな過去を直視しなければなるまい。
あの戦争はもはや歴史の領域に入り、ときには伝説的で悲壮な物語が私たちの胸を打つ。しかしその背景の事実、とりわけ失敗の連鎖にも目を向けたい。悲劇から学ぶべきことは、歳月を重ねてなお少なくないはずだ。(日経社説2015/3/10付 )
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【夢を実現する今日の一言】
・努力に勝る能力なし
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ー「今日は何の日」ー
・農山漁村婦人の日(農林水産省1988)、東京都平和の日(東京都1990)
東京大空襲の日、砂糖の日、佐渡の日、LPガス消費者保安デー(毎月)
▲道昭和尚、わが国初の火葬に(700)
▲元明天皇が平城京に遷都(710)
▲平安京の応天門が焼失(866)
▲足利義満、花の御所に移る(1378)
▲初の国産潜水艦、建造(1926)
▲東京・上野の帝室博物館でミイラ、初公開(1928)
▲東京大空襲。第1弾投下は深川地区、午前0時8分(1945)
▲富士山気象レーダー、運用開始(1965)
▲小野田寛郎さん、ルバング島から救出(1974)
▲山陽新幹線、岡山~博多間開業(1975)
▲都市銀6行がオンライン提携開始(1980)
誕生:サラサーテ(バイオリニスト・作曲家1844) 石井桃子(児童文学者1907)
山下清(画家1922) 渥美清(俳優1928)
安孫子素雄[藤子不二雄A](漫画家1934) 古今亭志ん朝(落語家1938)
大空真弓(女優1940) 徳光和夫(1941) ツトム・ヤマシタ(1947)
オスマン・サンコン(タレント1949) シャロン・ストーン(女優1957)
熊谷真実(女優1960) 松田聖子(歌手1962) 藤谷美和子(女優1963)
鈴木大地(水泳選手1967) つぶやきシロー(タレント1971)
藤井隆(タレント1972)
☆昨夜は風が強かったが、今は大分落ちて来ました。しかし今朝は冷え込み、小雪が舞い気温は1℃でした。
3月も10日と言うのに、真冬並みの寒さで有る。こんなに寒かったら、何もする気にならない。今日も自宅でノンビリ過ごそうと思っています。
昨日も天気が悪かったので自宅で過ごした。夕食後早めに布団に入り、今朝は7時半頃迄寝床にいた。途中何度か目が覚めたが、それでも10時間前後は寝たであろう。
寒い時には寝るの限る。
今日は東京大空襲から70年になるそうだ。各新聞では東京大空襲について触れています。日経社説では「東京大空襲70年が問うもの 」という見出しでが目に留まった。大変な数の犠牲者が出たのが悔やまれる。
・70年前のきょう、東京の下町一帯は米軍機による猛爆を受け、わずか一晩で10万人余の死者をだした。被災家屋約27万戸。太平洋戦争における民間人の犠牲のなかでも、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下とならぶ最悪の被害だ。
戦争というものは、最後には前線も銃後も隔てがなくなる。東京大空襲は当時の日本人に、そんな現実をまざまざと見せつける出来事であった。あの大戦末期の不条理の象徴といえる。
だからこそ、悲劇は戦後ながく語り継がれてきた。節目の今年はとりわけ証言の掘り起こしなどが盛んだ。惨禍を風化させないためにも、こうした機会に被害の実相に触れる意義は大きい。
もっともその際に、忘れてはならない視点がある。ことここに至る前に、なぜ戦争をやめられなかったか、という問いかけだ。
1944年7月、日本軍は「絶対国防圏」のサイパンを失い、米軍はここを拠点に日本本土空襲への態勢を整える。この時点で日本の敗北はほぼ決定づけられたにもかかわらず、当時の戦争指導者たちは泥沼に突き進んだ。10月にはレイテ沖海戦で大敗、翌年には硫黄島で将兵が玉砕した。
本土への間断なき空襲や沖縄での地上戦は、こうした経緯によって必然的にもたらされた事態だった。終戦があと1年早ければどれだけ多くの人命が救えたか。その決断ができないまま本土決戦を叫んだ指導層の罪は深い。
「国民の無気魂」が敗戦を招いた――。ポツダム宣言受諾が決まったときに東条英機元首相がしたためた手記には、こんなくだりがある。このような認識を持つ指導者のもとで、多くの国民やアジアの人々が苦しんだ。そんな過去を直視しなければなるまい。
あの戦争はもはや歴史の領域に入り、ときには伝説的で悲壮な物語が私たちの胸を打つ。しかしその背景の事実、とりわけ失敗の連鎖にも目を向けたい。悲劇から学ぶべきことは、歳月を重ねてなお少なくないはずだ。(日経社説2015/3/10付 )
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【夢を実現する今日の一言】
・努力に勝る能力なし
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ー「今日は何の日」ー
・農山漁村婦人の日(農林水産省1988)、東京都平和の日(東京都1990)
東京大空襲の日、砂糖の日、佐渡の日、LPガス消費者保安デー(毎月)
▲道昭和尚、わが国初の火葬に(700)
▲元明天皇が平城京に遷都(710)
▲平安京の応天門が焼失(866)
▲足利義満、花の御所に移る(1378)
▲初の国産潜水艦、建造(1926)
▲東京・上野の帝室博物館でミイラ、初公開(1928)
▲東京大空襲。第1弾投下は深川地区、午前0時8分(1945)
▲富士山気象レーダー、運用開始(1965)
▲小野田寛郎さん、ルバング島から救出(1974)
▲山陽新幹線、岡山~博多間開業(1975)
▲都市銀6行がオンライン提携開始(1980)
誕生:サラサーテ(バイオリニスト・作曲家1844) 石井桃子(児童文学者1907)
山下清(画家1922) 渥美清(俳優1928)
安孫子素雄[藤子不二雄A](漫画家1934) 古今亭志ん朝(落語家1938)
大空真弓(女優1940) 徳光和夫(1941) ツトム・ヤマシタ(1947)
オスマン・サンコン(タレント1949) シャロン・ストーン(女優1957)
熊谷真実(女優1960) 松田聖子(歌手1962) 藤谷美和子(女優1963)
鈴木大地(水泳選手1967) つぶやきシロー(タレント1971)
藤井隆(タレント1972)
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