今年はどういう年の回りなのでしょうか?10月15日(土)に母が99歳で亡くなったばかりというのに、12月12日
(月)には、妻の母(義母)が93歳で亡くなりました。二人とも、年齢からすれば大往生と言ってもいいのですが、こう
も立て続けとなると、さすがに寂寞に堪えない気がして、心を冷たい風が吹き過ぎる感じがします。
母の「四十九日法要」は終わりましたが、今後、来年の1月22日(日)が母の「百か日法要」、1月29日(日)が義母
の「四十九日法要」、さらに、3月21日(火)が義母の「百か日法要」と、種々の法要が続くことになります。その間、
七日毎に義母の「尽七法要」が加わります。
それにしても、「人の死」というものは本当に空しく、あっけないものです。通夜式、告別式(葬儀)を経て、ほんの一時
間半ほど後には「白骨の身」になってしまうのですから・・・。
「拾骨式」の際、遺骨を骨壷に収めながら、人の世の無常、はかなさを痛感しました。
〇 人の世の 夢のやうなる 住処(すみか)にて 生きとし生ける 九十(くそじ)あまりを
〇 紅顔(こうがん)の 在りし日思ひ 骨(こつ)拾う 迷わず行(ゆ)けよ 仏の御前(みまえ)
〇 我も又 夢より覚めて 帰りなむ 仏のおわす いや彼の御国(かのみくに)
不幸が続いた訳からではありませんが、今回紹介する作品は「阿弥陀如来坐像(八寸)」です。2018年2月末に拝刀を
開始し、2019年六月末に完成しました。
第16回にも書きましたが、この作品は亡き愛娘の弔いのために仕上げたものです。
『中でも、1990年7月7日に4歳7か月で亡くなった娘の死は、私にとって人生観を変えてしまうほどの大きな、大き
なショックでした。今年の7月に三十三回忌を済ませましたが、幾ら年月が過ぎようとも、親としての気持ちが癒されるこ
とはありません。暫く、私の趣味である仏像彫刻のお話をブログに載せたいと思っていますが、私をこの趣味に導いたきっ
かけは、勿論、この娘の死にほかなりません。娘の弔いのため、いつかは仏像を彫ってやりたい。こんな思いを実現できた
のは現役を退いてからでした。』(第16回より再掲)
【「阿弥陀如来座像(八寸)」正面荒彫り】
【「阿弥陀如来座像(八寸)」背面荒彫り】
角材の余分な部分を鋸や鑿を使って取り除き、全体像を切り出してから、大まかな袈裟衣の位置を決めた段階です。完成ま
でにはまだまだ程遠いのですが、ここに至るまでにも相当な時間を費やしました。
この後、制作工程は本体の仕上げ彫り(御顔彫り、頭部の螺髪彫り、袈裟衣の仕上げ)、台座の制作、光背の制作と続きま
すが、その経過を、順を追って紹介していきたいと思っています。
何しろ、完成までに1年4か月を要したわけですから、その工程は複雑且つ困難で、試行錯誤の連続でした。
【参考】
▢ 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つである。 梵名はアミターバ(अमिताभ, Amitābha)あるいは ア
ミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)といい、それを阿弥陀と音写する。 阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏
ともいう。梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意
味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。阿弥陀如来は、命あるものすべてを救う四十八願(しじゅうはちが
ん)という誓いを立て、「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々の臨終には西方浄土から迎えに来て、必ず極楽浄土へ往生
させてくれるとされる。
【平等院鳳凰堂本尊/国宝 木造阿弥陀如来坐像】
写真の平等院鳳凰堂本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、日本の仏像作家を代表する仏師「定朝(じょうちょう)」によって平
安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものです。
愚作は足元にも及びませんが、次回から少しずつ紹介させていただきます。
訪問感謝。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた次回に! 合掌
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