多摩爺の「旅のつれづれ(その4)」
山陰の小京都 津和野(島根県津和野町)
遡ること約半世紀(1970の中頃から1980にかけて)、
アンノン族という・・・ 族がいたことを覚えているだろうか?
族といっても、悪いことをする輩ではない。
ファッション誌や、ガイドブックを片手に持って、
少人数で特定の観光地を旅をする若い女性たちのことである。
彼女たちが、よく見ていた雑誌「an・an(アンアン)」と「non-no(ノンノ)」が、
美しい写真を使って、旅を企画したことに加え、
山口百恵さんの「いい日旅立ち」を、国鉄(JR)がCMとして採用したことが追い風となって、
小樽、軽井沢、清里、飛騨高山、金沢、倉敷、萩、津和野などの観光地に、
多くの若い女性が訪れるようになり、
そんな彼女たちを総称して・・・ アンノン族と呼ばれる言葉が生まれている。
また、こういったブームにあやかって、静かで歴史を感じる落ち着いた町が、
小京都と呼ばれるようになり、全国各地に小京都が増えたのも、確かこのころだった。
かつて多くのアンノン族が訪れた、歴史と文化の薫る日本のふるさと・津和野には、
父系のルーツがあり、私の戸籍も、私たち夫婦の戸籍も・・・ 総て、この町から始まっている。
今回、津和野を訪れたのは、けっして遊びではない。(できれば遊びで行きたかったが・・・)
3月に亡くなった父の、出生からの戸籍謄本が必要なことから
義母の葬儀の片付けで忙しかったが、
了解を得て、津和野を往復する時間だけ、お手伝いを抜けさせていただくことにした。
特に大金があるわけじゃないが、
信用金庫は葬儀に必要なお金ならと幹部の方が対応してくれて、解約できたもんだから、
同じ要領で農協に行ったら、必要な書類がないとダメということになり、
いきなり口座が凍結されてしまい、
謄本を取ってこなきゃ、にっちもさっちも行かなくなってしまったのである。
もちろん対応は間違ってないが、
困った者に寄り添えない対応には、ちょっとガッカリしてしまった。
郵送で謄本を送ってもらうという、手立てもあるにはあるが、
関係者の書類を一気に書類をそろえて、一気に解決するため、
今回は印鑑証明と実印を持って帰省しており、
義母の葬儀の合間を縫って・・・ 津和野町役場を訪問することにした。
実家の下関からだと、中国自動車道を経由して、国道9号線で津和野に向かうルートが一番早いが、
女房の実家がある長門からだと、萩を経由して山間部の県道を抜けて、
つわぶき街道(島根の県道)に入るルートが一番早いと・・・ ナビが指示していた。
このルートは初めて走ったが、道路の状態がキチンと整備されてるうえに、交通量がホントに少なく、
9時前に長門を発ち、途中の萩で寄り道して、可燃物を清掃工場へ持ち込んだにも拘わらず、
11時ごろには津和野に着いていたんだから・・・ 想定していた時刻より30分ぐらい早かった。
駐車場に車を止め、なんとも言えない趣がある木造平屋の役場に行くと、
戸籍謄本は直ぐに取れたので、役場を出てぶらりと歩いてみた。
役場の前には、石畳の道路の両脇を流れる水路(堀)に、白や紫の菖蒲の花が咲き、
まるまる太った鯉が悠然と泳ぐ、この町を訪れた誰もがやってくる、超人気の観光スポット殿町通り、
しかし・・・ 驚くことに、地元の人を含めて、歩いてる人が見当たらない。
平日とはいえ、さすがにこれはないと思いたいが・・・ これもコロナ禍の影響なんだろうか?
山陰の小京都といわれる津和野は、普段から静かな町だが、
お昼というのに、この日は驚くほどの静寂に包まれていた。
これはちょっと、あんまりというか・・・ 寂し過ぎるんじゃなかろうか?
もう60年以上も昔の話だが、津和野に来ると、必ずといっていいほど思い出すことがある。
それは4~5歳ごろ、保育園の夏休みに、父方の実家があった益田に帰省すると、
当時、津和野高校の教員をしていた叔母が、当直のたびに必ず私を連れて学校に行き、
職員室で遊んだり、一緒にお弁当を食べたり、部活で登校した生徒さんとボールを追っ掛けたり、
楽しかった記憶が、昨日のことのように蘇ってくる。
いまの時代だったら、例え子供であろうと、部外者を学校に内緒で入れたら、
大変なことになってしまうのだろうが、
昭和という時代は、忘れ得ぬ思い出作りに、ひと役もふた役も手助けしてくれる、
穏やかな時代だったようだ。
セキュリティなんていう、言葉そのものが・・・ 当時この国には、まだなかったのだろうか?
それとも、人を信じることが、疑うとことよりも勝っていたのだろうか?
その答えは、どちらでも構わないが・・・ ほのぼのとしていた、昭和という時代が私は好きだ。
またあるとき、雨が降った日があって、職員室の窓から外を眺めると、
津和野盆地を取り囲む山々から水蒸気が上り、
木々の間から雲が湧いてくるように見えたのが、あまりに幻想的で、
子供ながらも、鮮明な記憶として残っているんだから、この町とはよほど縁が深いのかもしれない。
葬儀のあと片付けをしている皆に、迷惑をかけるので、同じルートを戻ったんだが、
次に来るときのために、行ってみたい観光スポットを五つほど記しておきたい。
一番は、太皷谷稲成神社(ここは稲荷じゃなく、稲成という字が使われている。)
本殿に向けて約20分ぐらい、朱塗りの鳥居が連なるトンネルを上ると、
眼下の津和野の町が一望できる。
いまあるかどうか知らないが、蒸気機関車の向きを変える転車台を眺めるのが好きで、
飽きもせず見ていたことを思い出す。
真っ黒な機関車が、くるりと向きを変えるのを指さし、
ワーワー言いながら眺めていた記憶も懐かしい。
二番は、殿町通り
石畳の道路と、白壁の古い建物の間に水路があって、まるまる太った大きな鯉が悠然と泳いでいる。
コロナ禍じゃなかったら、同じく石畳道路の本町通りにある和菓子の名店「竹風軒」で、
源氏巻きのアイスクリームを買って・・・ 食べ歩きするのも楽しいだろう。
三番は、津和野城跡
津和野藩主・亀井公の居城だが、春か秋の早朝限定だが、
運がよかったら雲海を見ることができるから、ここは外せない。
また、かなり高いところに築かれた山城なんで、「天空の城」と呼ぶ人も少人数だが居るらしい。
四番は、津和野カトリック教会
私は仏教徒なので、教会の中に入ったことはないが、聞くところによると畳敷きになっているらしい。
殿町通りの古い町並みの中に、ドスンと居座ったゴシック様式の教会は、かなり異彩を放っている。
また、津和野駅後方の山を約20分上ると、殉教の聖地・乙女峠にマリア聖堂があり、
お城から稲成神社を経て、聖堂へと連なる奇妙な関係にも・・・ ちょっと興味をそそられる。
五番は、森鴎外(もりおうがい)と、西周(にしあまね)の旧宅
陸軍の軍医でありながら、数々の名作を残した小説家でもある森鴎外と、
徳川慶喜の政治顧問であって、明治憲法を草案した西周の出生地が・・・ ここ津和野なのだ。
また、津和野城の真下辺りにある二人の旧宅は、
津和野川を挟んで向かい合った、いわゆる目と鼻の先だから・・・ これもなにかの縁なのだろう。
以上、五つの観光スポットを記したが、町が小さいので1日もあれば歩いて回れるので、
アンノン族に、この町が人気だったというのも・・・ 納得できることかもしれない。
それにつけても憎っくきは、新型コロナウイルスだ。
ぐじぐじ言ってる暇があったら、1日も早くワクチンを打って、
旅ができる日が来ることを願ってやまない。
あぁ・・・ 旅に出たくなってきた。
追伸
津和野が日本遺産(世界遺産ではない)に登録されていることをご存じだろうか?
日本遺産のホームページに、津和野が紹介されているので・・・ イントロの部分を記しておきたい。
幕末の津和野藩の風景等を記録した「津和野百景図」には、
藩内の名所、自然、伝統芸能、風俗、人情などの絵画と解説が100枚描かれている。
明治以降、不断の努力によって町民は多くの開発から街を守るとともに、
新しい時代の風潮に流されることなく古き良き伝統を継承してきた。
百景図に描かれた当時の様子と現在の様子を対比させつつ、往時の息吹が体験できる稀有な城下町(それが津和野だ。)
津和野の名所の一つでもある掘割りの水路を泳ぐ鯉と、白や紫の彩りが美しい花菖蒲
観光客が必ず訪れる、石畳の道路に白壁と水路が人気の「殿町通り」だが、
コロナ禍ということもあって歩いてる人がいない。
この通りの右手の奥に、カトリック教会があるんだから、
この懐の深さが・・・ 津和野の津和野たる所以かもしれない。
お目当ての戸籍謄本を取りに行った津和野町役場(本庁は一駅先の日原に有り、ここは支所になる。)
木造平屋で天井が高く、窓を開けていれば、冷房はいらないかもしれない。
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