緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

自分の世界を投影する

2022-06-06 | 日々気づき
  スピリチュアルの勉強も自力という時代
先ず個性を知る事が無ければ何も始まらないという。

そんな事に気づき、勉強会を開いていたんだけど、
それがまた仇となり、依存するという繰り返しに。
自分が自ら逃れようと止めて各々の魂にお任せとなりました (^.^)

それでも一人の友達だけはしがみついてくる (^^;)
一緒に勉強したいと…。
嫌ではないんだけど、私は共に同じ立場で学びたいをいつも望みます。
いつもこのブログでも話す脳卒中からの復活を遂げた彼女。
高みを目指すけど、今の目の前の世界にどっぷり浸ってしまうという


彼女といると人間が生きている事に対して
本当に何が大切か何が邪魔かがよく解かる。
決して私が優れているとは思わないし、
自分が驕らないでいるためには十分必要な人かなとも思う。
自分を俯瞰するために役立っている。
(役立っているというと言葉が正しくないかも知れないけど)


少し認知的に後遺症があるんだけど、
実際に長年一緒にいると、彼女の性格や癖だという事に変わりはない。
ただその双極が極端になっているだけに過ぎないと。
その極端さが大きく強くなった感じです。
これは今の宇宙のエネルギーによるものでもある。
自分が定まらないという。
まあそれも以前の彼女の個性です。

それが病気の後遺症なのか、癖が強くなったかは証明できませんが、
私はそもそも病気というものがいつも言っている様に、
心のバランスが偏り歪み崩れてきて、
その負荷が色んな箇所に出て来たというのが病気だと思っていて、
その体の組織の働きと繋がっているので、
その負荷が働きの衰えとなって行った結果だと。
それも、そもそもの心の表現がそうなっていると考えています。


消化、ろ過、解毒、吸収、循環など・・・という働きです。
その働きに負担や詰まり、溜まり、澱みや濁り、老化もですね
その働きを意識もしないで、そんな性質や性格に
強制や制限や無理をさせているんですから。


だから病気の原因の箇所を取り除けば
また性格や癖が露わになってきたりします。
そんなバランスを一旦考えたり、向き合ったり、
見つめるきっかけだったはずなのに、
また無理して再発となったりするんですよね。


彼女の場合も脳内出血して
神様から一旦自分の脳内整理をする機会を頂いた
倒れて手術をしている時に御主人から電話がありました。
その時に彼女の魂が膝元にやって来ました。
もう一度生きたいと宣言しに来ました。
あぁ~手術は成功するなと思いました。
その後奇跡的に復活し、
脳外科の先生も見事な復活ですよと言われていました。
まあ外科の先生は処置が仕事ですからね。

後はやっぱり気持ち次第。
なので、倒れる前から付き合っている私は
その前後の性格の変化がよく観えるんですよ。

いい機会だと向き合って這い上がる心の人なら
そのきっかけで人生丸ごと変わります。
変わるというより、変えて行く人ですね。
今が人生どん底の人は中々這いあがる事も難しいです。
凄いエネルギーを必要とするかも知れないからですね。


でも、どん底だと思っているのも自分の思い込みかも知れません。
高みを見ればキリがないかも知れけど、
下を観てもキリがない。
今の自分の目の前の世界を観てみると何か気づくのでは?と思うんですね。


その彼女も高みを観て、上を向いて一生懸命学ぼうとか気づこうとかはしているんですが…、
今の自分を見失う…それが昔からの癖です。

術後しばらくしてから介護保険を使ってのケアを色々受けているんです。
ディサービス、介護体操センター、認知症に関して先生の手配、お料理を一緒に作ってもらう日、
こういったプログラムを組んでいるんです。(ケアマネさんによる)
ある程度進歩しているのでプログラムを変えたりしているんですが、
体操とかお料理というのは私も提案しました。
今違う提案もしています。
やってもらうばっかりじゃなく、
自ら何かし出さないと進歩が無いよと言って。
これだけでも週に4日です、忙しいですね。
年取って、忙しくて病気になってまた忙しくて
ゆっくり自分と向き合う事なんて出来ない悪循環。


介護の人やケアマネさんとかになると、
偏見では無いです、人によると思いますが、
対象の度合いも観ているとは思いますが、
やっぱり「出来ない」というのを基準に決めてしまうのかも知れません。
介護保険という仕組みやし、施すという気持ちからなのでそうなってしまうのですが、プログラムに心と個性を取り入れてはくれません。
そうなると、どっぷりその世界に浸ってしまう。


本当なら家族がその個性を知っていたり、見たりして、
相談したりすると良いのですが。
病気になる人はある意味孤独から病気となります。
なので、病気になるという事は家族にとっても本当は向き合う時です。
彼女の家族でもそれぞれがもう自分の事、
自分の家族の事で精一杯です。


奥様が…、お母さんが…、本当は何を望んでいたか、
何を望んでいるかなんて知る由も無いんです。
こんな状態となっては、生きてくれたらとか、
普通に戻ってくれたらとか表面の事だけを願うだけ。
ちょっと回復すれば良いようにこき使うし、
それでは解決になりません。

その解決も無いまま、家族との関わりの解決が無い状況で
自分を見つめ直すというのはもっと大変です。
それなのにどっぷり浸ってて良いのか…と考えてしまいます。
そこまで私が考えて入り込む必要はないですが、
彼女は変わりたいというのでいろんな話をします、
やっぱり何が大切かというと…
家族の状況も含め病気となってしまったのは間違いないですが (>_<)

自分はどう考えるか、
自分はどうなりたいか、
自分はどう生きたいかです。
それを決めてそれを行動する事しかないんですね。
誰も止められるもんではない。
止めているのは自分だから、
決めているのは自分だから。
体は人の手を借りないといけないかもしれないけど、
自分の心と自分の意識は自分のものです。


今目の前にいるディサービスの高齢者さん達を観ながらどう感じているか、
そこに自分は居たいか、
自分の5年後10年後、20年後はそうなっていたいか、
多分今のままで、ご主人が亡くなったとしても
家を売って老人施設に入って生活する事は容易いでしょう。
それで良いのならそのディサービスにいる事で
ゆっくり過ごしていれば良いと思います。
自分の幸せも自分で決めれますから。
その様々な高齢者を見せてもらって
考えてみればどうかなと神様から提案されている時かも知れません。


目の前の景色は自分が投影しています。
それをどう捉えるか、
それをどう考えるか、
それならどうしたか。

そんな話をして盛り上がりますが、
持続するって多少の努力もいるもんなんですよね (^^;)
最近ではSDGsの取り組みと言われていますが、
人間活動こそずっと取り組み続けないといけませんね (^.^)





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