「足並みを揃える」って…私の中にずっとある意識でもあります
みんなが同じような価値観で…とか、みんな一緒とか…
綺麗ごとの平和主義的考えかも知れないけど
子供頃から常に奥底にあるように思います
奥底にあるというのは、反対を体験していた頃もあったりして、先ず反対側から本質にたどり着くといった経験が必要だったんだと思います
だからその反対を指摘する人がいると奥底からの反感を覚えたり、違和感を覚えながらでも我慢をしたりしていたような事もありました
幼い時にはそんな事に気づかなかったかもしれないけど、今思えばという事が思い出されたりするので認識できたわけです
やっぱ人生長くやっていると色んな事が起こるし強くならないといけない事も出てくるからでしょう…はっきりものも言うようになりました
でも幼友達が私の昔の印象を話してくれる時は、犬が怖くて、お兄ちゃんによく泣かせれてて、大人しくて家遊びが好きで、優しくて怒らない子だったよねとか言われたりして (^_^;)
こんな事自分で言うのもなんですが(笑)
荒々しく騒がしい事が怖くて苦手だったのは確かです
平和が好きだったんでしょう
それは「平等」という事にも繋がっていたんでしょうね
なんかどこかで腹立てる事と言えば…比べられることだったり、偉そうに言われる事だったり、決めつけられることだったり、縛られる事だったり
そんな事でした
そんな事がこの「足並みを揃える」というところに繋げたくなる資質だと思ったりします
人に提示したりするのも好きなようです
それは時に「指摘」というっカタチになったりして、正直というのか、人の気を逆撫でしたり、そんな事もあるんですが(俗に、遠回しだとか、皮肉だとか逆質問形式のカタチになったりして)
でも、ちゃんと認識していて、お互いの考えのズレを直したいだけだったのも確かです
そのズレを認識し合おうとしている間に相手が感情的になる事がほとんどだったりして、途中であきらめたり、そのまま離れたりって事になります
足並み揃えるって難しいなと思って、そこまでしなくて良いんだと思うようになったり、
人を尊重しようとする課題だと思ったりした
でもそうしているうちに
足並み揃えるって波動を合わせる事だったり
波動を細かくしていく事だったり
意識を高め合う事だったりするんだなと気づいて
そうすると、
足並み揃えて進むにも個人が個人を認識し、
個人が個人を信じて行き
目的意識を細かく同調しないとあかんなぁ~って気づきました
小単位グループであれば家族ですが (^_^;)
何に向かって足並みを揃えるんですかと言われそうですが
それは…それぞれの個人が自分を信じる事が出来て行く過程で揃って行くという訳です (^.^)
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